第4話
かつては港区と呼ばれていた四区は、「生命の樹」を覆う壁が出来てなお、人口流出の止まらない過疎地域だった。
それも、無機質な巨壁を見ていると納得がいく。東京タワーを飲み込み、周囲の人間も呑み込んだ「生命の樹」を覆う壁はもはや「塔」と呼んでも差し支えない程に大きく、この辺りにいれば嫌でも目に入る。立ち入り禁止区域は当時より大分小さくなってはいるが、比喩ではなく、本当に人が「消え失せた」場所に戻り、再び生活を始めることを好む人間はそんなにいないだろう。取り壊されて更地になった場所と、抜け殻になった家屋がそのまま残されている場所が入り交じり、無秩序と静寂が同居した空間が点在している。未だ消えない災厄の名残はあちこちに影を落としていた。
そんな中、少女の写真と件の動画の場所を特定するのは困難だった。一体どれぐらい、この四区内にそんな場所が存在しているのか――霞が雰囲気の似ている場所をピックアップしたデータを寄越してくれたが、それでもかなりの数がある。原付でそれらしき場所を回って数件。いつの間にか夕方が近づいてきているが、まだ蒸し暑い。明日は雨だ――と聞いてはいたが、雲が仄白い空に蠢いてはいるものの、降りそうで降ってこない。霞曰く、以前4件の「串刺し公」による事件の現場に、四区内である事以外の共通点はないとのことだった。要は気まぐれに殺して回っている、という訳で、雲を掴むような話に心底うんざりする。
5件目――被害者で目撃者が発見された場所から距離にして数キロ、今日の捜査はここが最後になりそうだ。
古びた倉庫街だった。赤錆びたシャッターが両脇に並び、淀んだ空気が漂っている。建物を取り壊すにも金がかかるし、そもそも取り壊せる者がいないのかもしれない。こういった場所は荒れた若者のたまり場になっていそうなものだが、そんな様子もない。『生命の樹』が近いのと、絶えずあの石塔がどこかしらに影を落としているせいで薄暗い。故に、この辺りは日光を嫌う同化者が集まってくる。流石にそんな場所で騒ぎたくもないだろう。
積みっぱなしの鉄材が点在し、金網にはヒルガオの薄緑の蔓が巻き付いて茂っていた。その淡い桃色の花が、意志あるものの存在しない場所に不自然に浮いている。用水路が通っているのか、微かに水の流れる音がした。
全身の神経を研ぎ澄ましていた由良の耳に、ガシャンという金属の擦れる音が届いた。反射的に建物の影に飛び込む。誰かいる――手鏡を出して音の方向を覗き見た。不揃いな二人分の足音。金網の向こうに背の高い男と、その男に手首を掴まれた女が歩いていくのが左右反転されて映し出される。錆の浮いた扉がひとつ、その周囲だけ雑草がない。二人はそこへ入って行った。由良は、素早く建物の影から飛び出して建物まで接近すると、音を立てないように扉を静かに開いた。
「――動画、見た? え、見てない? そう…まぁいいや。今日は前座として最初に君を殺そうかな」
扉の影に身を潜めて、由良は聞き耳を立てながら、片手で携帯電話を操作してした。伊吹小夜子からの着信があったようだが、確かめている猶予はない。履歴から一番上に名前があった警察関係者の霞に繋げる。マイク感度は最大。物騒な言葉が今まさにそこで繰り広げられている以上、説明する時間も惜しいし何より声を立てられない。
「……どうして、どうしてですか、鹿島さん……わたし……わたし、社員証を拾っただけで、あの……」
「駅の西口を出た辺りから気づいてたよ」
「ヒッ…」
「誤解しないで欲しいんだけどさ、別に君が嫌いな訳じゃないよ。むしろ真面目に仕事してくれるし、いい同僚だとさえ思ってるんだ。他の女の子達と違って、余計な気遣いだってしなくていいし。でもね、これとそれは別に関係ないよ」
男の声は甘い響きを持ち、親しげであった。しかしそれ故に言い様のない不快感を醸し出している。世間話をするように、さも日常の1コマであるように、殺しをしようとしている。
これは我々とは相容れぬものだ。
「君の運が悪いだけさ」
怒りが込み上がってくるのを感じながら、機会を待つ。殺しにこだわりをもっているタイプだ。必ず何か、殺しの前に分かりやすい挙動を見せる。自動拳銃の安全装置を静かに外して、由良は聞こえないように深呼吸した。
「ちょっと待ってね、カメラ持ってくるから。何か言いたいことがあったら考えてて」
靴音が響く。こちらに出て来たら、出て来た瞬間に撃つ。そう思ったが、それに反して靴音が遠ざかっていった。奥にも部屋があるのだろうか、扉の閉まる音がした。
考える猶予はない。戸口に表れた由良を見て、女の「ヒッ!」という引き攣れた声が上がった。
画像で見た「あの場所」が奥にある。左脚を椅子と繋がれた少女。修道女のような格好も相俟って人形のような印象を受ける。前髪と毛先を切り揃えた黒髪に、左目は桜色で、右目があるべき場所に眼球はなく、眼窩からは桜の花が咲いている。彼女もまた特異な容姿をしていることには違いないが、今更驚くこともない。その椅子の足元で、茶髪を無造作に結んだOL風の出立ちの女が座り込んで震えていた。
人差し指を唇に当てて静かにするよう促すと、女の方が顔を縦に振った。首が引きちぎれんばかりの勢いだった。
「金剛さんね?」
「ええ。右足を折られた。歩けないの」
人形めいた方が小声で言った。痛みがあるのか表情が優れない。
「……ちょっと我慢してね」
そう断りを入れて椅子の脚に銃を向ける。引き金を引くと銃声が響き、支点を一つ失った椅子が傾いた。へし折れた脚を投げ捨てて女の方に「肩を貸してあげて」と告げる。女は少し落ち着いた様子で頷いたが――由良の背後を見て表情を強張らせた。
おぞましい気配を感じて振り返る前に、背中に熱と痛みが走り、コンクリートの上に倒れ伏す。女の引きつった悲鳴が上がり、続いて軽い笑い声が頭上から降ってくる。
掌を付き、激痛を堪えながら向き直れば、品のあるスーツを身に纏い、左目に泣き黒子のある男が――仄かに白く光る同化者の瞳をこちらに向けて、笑っていた。