第3話
薄暗い廊下を抜けた先の突き当たりに、ナンバープレートのない扉を見つけた。何も知らなければここが病室だとも思うまい。
先客がいる。少し驚いて思わず息を呑んだ。あの香りがする。
「あなた……刑事さん?」
先客がそう言った。美しいとも、可憐ともどちらとも言い難い。またか、という印象を抱かせる白皙に、瞳は杏色で、メイクもそれに合わせた色でまとめていた。
「由良と申します」
気圧されるような感覚を覚えながら、刑事手帳を開いて見せる。彼女は「小夜子よ」と甘い声で言った。
「サヨコじゃなくてサヤコ。セレナーデの小夜。伊吹暁は私の双子の弟、会ったでしょう?」
「セフィラ」の「伊吹」。記憶を手繰る。双子であるという情報を紐づけて考えれば、似ているような気がしてくる。
「山城君は絶対に犯人を見てる。だから、目が覚めてないか見に来たんでしょ」
こちらの意図を汲んだような言葉に少したじろいだ。それも見透かしたような顔で、「当たり?」と彼女は微笑み、ベッドの上に腰かけた。
ベッドではあの青年が横たわっている。小夜子の方もそうであったが、髪だけでなく眉も、瞼に影を落とす睫毛さえ白い。
青年はぴくりともせず、モニターに映し出される心拍と血圧、微かに上下している胸が間違いなく生きていることを伝えている。白いことには変わりがないが、「死体」だった時よりは幾分か人間味のある顔色だ。救急車で運ばれて行くまでを見ていたが、それまで意識が戻ることはなく、あのネオンブルーの瞳を見ていない。傍らの机には、大きな白いリボンのついた鞄と、洒落っ気のない眼鏡ケースが置かれている。
「私たち、暑いのは苦手。強い日差しも嫌い。よく喉が乾く。この部屋、匂いがするでしょう。私たちの体臭なの。成分的には、花の匂いに近いそうよ。この子ね、この匂いが嫌だからって、好きでもないタバコ吸ってるの。それでも消せてないけど。……ま、私は好きで吸ってるんだけど」
彼女はそう言いながら、白い指先で青年の頬を撫でた。
「再生力が強い『生命の樹』に近い不死者ほど、この匂いも強いの。好きな匂いじゃなかったらごめんなさいね」
永遠の美。永遠の命。
そんな言葉が脳裏を過ったが、もがき苦しみながら蘇生した青年の姿を思い起こせば、あまりいいものではないように思えてくる。彼ら、あるいは彼女は、己の身を焼き尽くした灰の中から蘇る不死鳥だ。
「傷は平気。けど……とても、疲れてるみたい。休ませてあげて。」
彼女の言いたいことはよく分かる。伊吹暁は「暴行」と言っていたが、それは随分と配慮した表現だ。激しい憤怒が痛みをも塗り潰したのかもしれない。己の死など恐れない、それ故に。無力な自分を許せない。守るべき者を守れなかった自分を許せない。守るべき人を傷つけた相手を許せない。刑事という職業故か、そんな感情の断片を勝手に感じ取ったような気になって、自分まで怒りの感情が湧き出てくるのを感じていた。
「――だめ?」
甘い酒を舌の上で転がしているような声で、由良は我に返った。
「お……起こしに来た訳ではありません。様子を見に来ただけです。その……何と言ったらいいか。私は、凄惨な現場に立ち会ったことが何度かあります。こういった言い方は失礼かもしれませんが、それでも……衝撃的だったものですから。少し、心配で」
この香りと、彼女の醸し出す何かにあてられて正常な思考能力が削ぎ落とされている気がする。自分の感情さえコントロールできていない。ファム・ファタールという言葉がある。このような女のことを指すのだろう。
「緊張しなくていいわよ、"お嬢さん"」
クスクスと笑われて、妙な空気が不意に揺らぐ。拍子抜けしながら「失礼ですが、」と前置きして由良は聞いた。
「私と然程変わらないようにお見受けしますが」
「本当はもう40代よ」
「そう、ですか……」
彼女はベッドから軽い足取りで飛び降りると、可愛らしい鞄から携帯電話を取り出した。
「刑事さん、携帯電話の番号教えてくれる? 山城君が起きたらすぐに伝えるから。他の刑事さんにも、そうするよう言われてるんだけど、あなたが一番早そう。」
「……分かりました。」
差し出された携帯電話の電話帳アプリに番号を打ち込んで返すと、「じゃあ私も」と名刺サイズの紙を渡された。準備がいいな、とも思ったが、それは予め印刷されたものだった。黒字に銀色と紫、オレンジをあしらった洒落たデザインをしている。
「私ね、セフィラの事務と兼業してバーやってるの。お店の名前は『ソワレ』。火曜日が定休日。お客さんとして会えたら、嬉しいわ」
ずっと彼女のペースに流されっぱなしだったような気がする。嫌いという訳ではないが、どうもやりづらい相手だ。敵に回したくない、とも。男性だったらころっと転がされてしまう者もいそうだ。
それでは、と短い挨拶をして去ろうとした時、両腕を後ろ手に組みながら、赤い靴の踵を鳴らし、小夜子がこちらに近付いてきた。香りが強くなり、吐息がかかるほどの距離に顔が接近する。
「……『私たち』はね、自分を『殺した』同化者を絶対に忘れない。どこにいても分かる。私たちと同化者はお互いに天敵同士だから。でも、私たちも楽しかったら笑うし、悲しかったら涙を流す。痛みもあるし、傷付けられたら血を流す。あなたと変わらないの。私たちはきっと忘れられていく。それでも――そこだけでも、ほんの少しでいいから、覚えておいてくれたら、嬉しいわ」
「それを、何故私に?」
「さあ――あなたが、良い人に見えたから。なんてね」
山城秋成にそうしてみせたように、白い指先が頬を撫でる。それは母親が子供にするような仕草に近いように思えた。
「……明日は雨だって。気をつけてね、椿さん」
部屋を出るとき、小夜子が最後にかけた言葉は他愛のないものであった。