第1話
むせ返るような熱気と血の匂い。まだ午前中だというのに、立っているだけで汗が滲み出てくる。風もなく、空気の流れは滞って澱んでいる。
……これで五件目だ。それを遠巻きにに見ていた由良椿は、車のエンジンとドアの開く音を耳にして振り返った。倉庫の入り口まで乗り付けた車から、白いワイシャツの袖をまくった金髪の長身が降りてくる。
「身元は分かったのか?」
彼がそれを見るなり口を開いた。間も無く遺体が運び出されるだろう。スムーズに運べればの話だが。
「身分証があったけれど、どこのものなのかはっきりしない。調べてる」
異様な事件現場へと、彼――霞響一は近付いた。この辺りで猟奇事件が起こると、どこからともなく現れるのが彼だ。何故かは分からないが、そういったものに執着する刑事である。腕は確かだと由良は思っているが、周りと反りが合わないのも事実だ。今回も鑑識やほかの刑事に、呆れ混じりの眼差しを送られている。霞は遺体の前で屈むと、両手を合わせて黙祷した。十字でも切った方が様になりそうだ。
「間違いないな。『串刺し公』だよ」
ネット上で誰かが書き込み、定着した名を彼は口にした。その名が示す通り、男はコンクリートの壁に磔にされた状態だ。両手首には杭が穿たれ、ご丁寧にも荊の冠を模したであろう有刺鉄線が頭に巻かれている。それではまだ足りないとても言いたげに、開かれたワイシャツの胸から腹にかけて、五本の金属の棒が刺さっていた。一際目につくのは、壁と男を縫い付けるように、胸の真ん中に突き刺さった一メートル程の長さの鉄パイプだ。俯いた顔にかかる、男性にしては長い髪は、色が抜け落ちたように真っ白である。最初は老人かとも思ったがそうではなく、由良と年がさほど変わらないくらいの青年に思えた。
霞が俯いた青年の顔を上げた。薄い色の付いた眼鏡をかけている。すっと鼻筋が通っていて、死してなお端正だと分かる。口元に血が付いていて、青白い肌に鮮やかな陰影を落としていた。
楽には死ねなかっただろう。
しかし、眉根を寄せてはいるが、その顔に驚愕や恐怖は刻まれていない。前の四件はそうではなかった。故に違和感を覚える。ただ目を閉じて、男は事切れている。眠っているようにすら見える。肌は青白いが、死人の白さではない。死人にしては血が通いすぎているのだ。
「……綺麗すぎる、」
霞も似たような感情を抱いたらしい。そう呟いた。
「死化粧でもされてるみたいだ」
「私もそう思ったけど、そうじゃない」
電鋸もってこい、という声が聞こえた。拘束を解いてやらないと遺体を運べない。
「本当に死体だよな?」
「何言ってるの、徹夜で頭回ってないんじゃないの」
「昨日は家に帰って寝たって。俺は正気だよ」
「三日ぐらい待ってみる? 復活するかも」
「もしそうなったら全世界のキリスト教徒が卒倒だ」
まだ納得しないのか、彼は瞼を開けて瞳孔を覗き込んだりしている。どれが致命傷かは分からないが、青年が死んでいるのは明白だ。青年の足元には、生乾きの血溜まりが出来ており、シャツは真っ赤で、襟元に残った色味で辛うじてグレーだった、ということが分かるぐらいだ。
由良は遺体の首筋に触れた。手袋越しに温さを感じるが、これは気温のせいだ。発見が遅れていたのならばこんな状態では見つからなかっただろう。
「何か匂いがする」
霞がそう言って鼻をすんすんと鳴らす。まるで由良からだとでも言いたげだが、生憎香水の類は付けない。彼の鼻先に腕を突き付けたら、彼は納得したようだったがまたすぐに首をかしげた。
匂い……確かに匂いがする。香り、と言った方がニュアンスが近そうだ。微かに甘いような、柔らかな香り。出どころを探る。鼻は良い方だ。こちら側にこんな匂いをさせている奴はいない。となれば、消去法でこの死体ということになるのだが――先程まで匂いなどしなかった。それどころか、血の匂いで溢れかえっていた。それを掻き消す程の香りに、気付かないなんてあるだろうか。
「――由良!」
腐乱死体を見ても眉一つ動かさないような霞が、声を上ずらせて言った。その薄い紫の瞳は死体に向けられている。
彼は死んでいる。繰り返し頭の中で反芻した事実が、揺らぎ始めている。「死なない人間」の噂は聞いたことがあるが、所詮都市伝説だ。あり得ない。だが、そんな考えを見透かしたようなタイミングで――「死体」が呻き、咳き込んで血を吐いた。まさか、そんな筈はない。腐敗の進行に伴うガスで声帯が震えただけだ。それか、カラスか何かの動物がどこかで鳴いたのだろう。そんな考えが矢継ぎ早に脳裏を過ぎったが、それも目の前の光景を目の当たりにしてすぐに消え失せた。
右手首の杭を肉ごと引きちぎることで片腕を自由にした青年は、左手の杭に手をかけてこちらも引き抜いてしまう。おそらく腱ごと裂けた筈の右手はいつの間にか治っていた。正確には、「治る」などという淡白なものではない。治癒して再生しているのだ。
男は続いて腹に突き立てられた赤錆の浮いた鉄棒を掴むと、一息にそれを引き抜いてしまった。引き結んだ唇から僅かに苦痛の声が漏れ、宙に浮いた足が二、三度痙攣したが、それ以上の素振りは見せなかった。
ぞんざいに放り投げられた鉄棒が、アスファルトに当たって音を立てる。誰一人としてどうしたらいいか分からず、ただその光景を見ている。その間にも一本、また一本と棒が引き抜かれていく。穿たれた傷口は内側に引き込まれるようにして、肉が繋がり、皮膚が繋がり、塞がってしまった。
そんな光景に耐えられなくなったらしき誰かが、嘔吐する声を背後で聞いた。異物が引き抜かれた衣服の下には、初めから傷などなかったように白い肌が覗いていた。溢れ出す血の匂いが濃く立ち込める。四本目を抜いたところで、先程まで死体だった青年は息を荒げて俯く。それも僅か数秒だった。口元に付いた血を手の甲で拭うと、再び唇を引き結び、一番の大物の鉄パイプに手をかけ、引き抜いた。生乾きの血溜まりを新たに上書きするように血が広がっていき、男は全ての戒めから解放され、その中に落ちた。
金縛りに合ったように動かなかった身体がやっと動くようになった。青年へと近づいて屈み込むと、彼は伏したまま忌々しげに有刺鉄線の荊を投げ捨てた後、顔を動かしてこちらを見た。宝石のように鮮やかで繊細なネオンブルーの瞳はとても美しい色だったが、その瞳に宿るのは色に似つかわしくない、憎悪と憤怒が入り混じった激情だ。なまじ顔立ちが整っているだけ凄まじい気迫があり、さながら氷でできた刃物を目前に突き付けられているようだった。警察手帳を見せると僅かにその気迫が揺らぐ。その揺らぎを由良は見逃さなかった。
「話したいことはある?」
霞が救急車を呼ぶよう叫んでいるのが背後で聞こえた。にわかに騒がしくなった中、青年は殆ど吐息のような声で言った。
「『同化者』……左目に、泣き黒子がある男……」
同化者。
やはり、という言葉が脳裏にちらつく。先程よりは幾分か鳴りを潜めてはいるが、未だ激情の鎮まらない瞳が由良を見据える。
「あの子が……連れていかれた。セフィラの…………イブキ、に…………」
そう言ったところで彼は沈黙し、動かなくなった。抱え上げて胸に耳を当てると、微かに呼吸音がする。意識を失っただけだ。間違いなく生きている。
一体どういうことかは分からないが、この青年は何かを見ている。何かを知っている。これ以上ない手がかりだ。もう、四人が似たようなやり方で死んでいる。これ以上、痛ましい死体を増やしたくはない。
救急車の音が近付いてきたが、焦燥感からかそれは酷く遅く聞こえた。