2015年9月 第二回封鎖地区内調査
人のいない場所は不思議と荒廃していくものだ。例え家という形を残していたとしても、それは最早抜け殻でしかなく――今しがた半長靴の爪先で踏み壊してしまった、飴色の蝉の殻のようなものでしかないのだ。
霧島朔也はそう思う。下手すればオカルトに片足を突っ込んだような考え方ではあるが、主を失い取り残され、朽ちてゆく時を待つばかりの家々を見ていると、そう思わずにはいられない。
「この辺りは比較的綺麗なものだね。建物が残っているよ」
そう言って、敷波梅はかつてバス停だった場所の簡易的な屋根をくぐった。オレンジ色のビニール張りのベンチに、足を組んで腰掛ける。朔也達と同様に、昨年救出された者の一人であり、そして現状ただ一人の特殊個体。彼女は敷波財閥の会長、本来であれば92歳の老女であった筈なのだが、朔也の目に映る彼女はせいぜい二十代程の容姿の若い女性だ。
「しかし相変わらず不気味で不愉快な空間だ。つまらないなぁ。ああ、つまらん、つまらん。ギリシャ神話における全ての源は混沌だ。私はそういうものの方が好きだよ」
「そう……ですか」
「そうさ。――おや?」
何か見つけたのか、ベンチから彼女は立ち上がって、何かを拾って戻ってきた。色褪せた包み紙に覆われた箱。リボンの巻かれた部分だけ退色を僅かに免れ、辛うじて赤かったことが分かる。
「クリスマスが近かったからね。かわいそうに」
心が掻き乱されるような感覚に襲われて座り込んだ。心臓が高鳴り、冷たい汗が額から吹き出てくる。
――これを買った者はどうなった? その家族は?
「おい、霧島君。」
梅が近づいて来ると、屈んで顔を覗き込んだ。
「しっかりしたまえ。大丈夫だよ、落ち着いて」
「…………はい……すみません……」
彼女の手を借りて立ち上がる。
道路が続いていた。ところどころひび割れ、隆起し、あるいは陥没した道には逃げ水が揺らいでいる。
逃げ水の辺りに見えた白い防護服を見て、敷波は手を振る。防護服なしでいられるのは不死者だけだ。故に細部の調査を任されているが、自分は早々に使い物にならなくなってしまったようだ。
「君は戻った方がいい。ひどい顔色だ」
軽い目眩を覚える。生々しい生活の痕跡に、心を揺さぶられたことだけが原因ではない。9月の朝方とはいえ、まだ暑いのだ。酩酊のような不愉快な感覚の中、どうやって戻ったかなど、あまり覚えていない。
調査の事後処理の後、休憩所で敷波梅とまた顔を合わせた。非常灯と自動販売機の灯りが、薄暗い建物の中をぼんやりと照らしている。
梅はオレンジ色のパッケージのタバコを吸っていた。外見と言動の不一致がここにきて頂点に達する。
「久々に吸ったよ。歳を取ってからは禁煙していたからね」
何らおかしい話ではないのだ。忌まわしい冬のあの日――梅も朔也も、幽鬼のように佇むあれに時間の流れを奪われたものたちの一人だ。本来ならばそこで永遠に、快楽の渦に呑まれて静止する筈だった。
「敷波さん」
「何だね、霧島君」
「……貴女は怖くないのですか?」
「怖い、という感情は少し違うかな。この歳になってこんな目に遭うなんて思わなかったよ。でもね、転んでもただで起きるつもりはない。それだけさ。元来、負けず嫌いというか意地汚い性格だ。霧島君は感受性が高いんだね。君のそれは既に霊感の域だろう。亡霊など放っておけば良い。君の人生だ。関係ない奴らにとやかく口を出される筋合いなどどこにもないさ。」
悠然とした足取りで自販機に向かい、彼女は緑茶を2本買った。そのうち1本をこちらに差し出す。
「そんなことよりさ、聞いたよ。君、絵を描くんだってね。今度見せておくれよ」
お茶を受け取ると、薄紅の唇を緩めて敷波は笑った。意識して見ると、ちょっとした所作の一つ一つが、やはり二十代の女性のそれではないな、と分かる。数多の人生経験を得た故の落ち着きと気品が、時折垣間見えた。
「受け取ったな? それは鑑賞代だ。いつでも声をかけてくれ。時間はいくらでも作れるよ」
敷波は踵を返し、手を後ろで組んで悠々と歩き出した。
身の振り方など少しも分からない。
だが、止まった時がもう2度と動かないとしても、やらなければならないことは見つかったようだ。
2016年 4月
家具があり、掃除が行き届いていることで辛うじて家としての体を保っている、廃墟のような自宅。そこに敷波梅が訪ねてきたのは葉桜の季節の頃だった。桜の木は今や不吉なものとして伐採された所も多いと聞くが、ここは街から外れている山寄りの場所であるが故に、まだそれがある。
「久しぶり、霧島くん。私のために時間を作ってくれてありがとう」
「お礼を言うのは僕の方です。時間を作っていただいたのは貴女の方でしょうに。それと……」
「ああ、個展とセフィラのことかい? 私は気に入ったものには金を惜しまない性分でね」
個展なんて柄じゃないと最初は断った。だが梅がどうしてもと言うので無下にできなかった。人見知りしがちな自分を気遣って、自分は一才表に出ずとも良いように手配までしてもらった。彼女にはいくら礼を言っても足りないだろう。
「亡霊はまだそこにいるかい」
梅が問う。
「僕の家を見てそう仰っているのでしたら、それは誤りです。亡霊から逃れるために、ここに住んでいる訳ではありません。ここは……静かだけど、静かすぎないから。あの場所みたいに」
「そうか。余計な心配だったみたいだね」
不変であることが恐ろしいと理解しつつある。それは自分を置き去りにして過ぎ去っていく時間であったり、どんなに傷つき痛みに苛まれようが死ぬことができない肉体であったり。
だが彼女の不変さには不思議と救われることが多い。
コーヒーを淹れると言って彼女に椅子を勧めた。「ありがとう、いただくよ」と返した声色は、いつだか絵を見せて欲しいと告げた時のままであった。