蟲にまつわる怪談が少ない理由
「ねえ、どうして怖い話の怪異は人の姿をしていることが多いか知ってる?」
世間では夏休み終盤戦、小学三年生の息子が書いた読書感想文を読んでいると、高校時代の友達から電話がかかってきた。連絡を取るのは何年ぶりだろう。たぶん私の結婚式の時を最後に年賀状すら送ってなかったと思う。
携帯の画面に表示された電話主の名前を見て、突然の連絡に少し驚きながらも、友人からの久しぶりの連絡を素直に嬉しく思った。しかし、そう思ったのは束の間、彼女の第一声を聞いて私はげんなりした。そうだ彼女はこういう人だった。
オカルト好きな彼女。高校生の頃、彼女は周りから浮いていた。変わっているなと思うことは度々あったけれど、一番印象に残っているのは、心霊的な存在を信じる彼女が怖い話を仕入れる度に、誰彼かまわず話し回っていた姿だ。スイッチが入ると全く周りが見えなくなる彼女。その性格は今も変わってないみたい。
「おかしいと思わない? たまに動物の幽霊が出てくる怪異はあるわ。死んだネコやウサギが飼い主に会いに来るって話もあるわね。でも、虫の幽霊の話ってなかなかないのよね」
私の反応なんてやっぱりおかまいなしで、彼女は一方的に話し続ける。そういう所も変わらない。もし電話をかけ間違えて、私じゃない人が電話に出ていたらどうするんだろう。
子どもの頃から意思表示をするのが苦手だった私は、彼女の怖い話の被害によくあっていた。怖いのが苦手なのに話を聞くのを断れない。その結果、怖がりなのに心霊系の知識がいつの間にか私にも蓄積されていた。
「虫に関するお話が少ない理由は単純に、そもそもそんな事象が起きてないから誰も話さないってことじゃないの?」
私はなんとなく思ったことをそのまま彼女に伝えた。
「ねえ、それ、本気で言ってるの?」
あ、笑った。電話越しに彼女がけらけらと乾いた笑い声を上げ、それから少し間をあけてからため息をつくのが聞こえた。今日初めて彼女が私の発言に反応した気がする。
「虫に関する怪奇現象はあるわ、知られていないだけよ。毎日たくさんの命が人間の都合によって殺されるんだから、恨みつらみもたくさん発生しているわ」
ん? 何の音だろう。彼女の声の後ろに雑音が聞こえる。耳をすましてみると、なんだか不愉快な音が微かに不規則なリズムでずっと流れている。
「でも、虫には感情がないんじゃないの? 動物じゃないんだから。それより今どこにいるのよ? さっきから変な音が聞こえるんだけど」
私は読みかけていた息子の読書感想文から目をはなし、電話に集中することにした。だって徐々に大きくなる雑音が、彼女の声を少しずつ聞き取りにくくしているから。
「ねえ、どうして虫に感情がないって言い切れるの?」
一拍おいてから、彼女はよく通る声で言った。雑音に負けないぐらいの大きな声だったので、私は驚いて電話のボリュームを下げた。どうやら彼女も雑音を認識していたみたいだ。
「虫に感情がないなんてあり得ない。感情はあるし、彼らは人間を恨んでいるわ。でも、他の生き物と違う点があるの」
「なによそれ」
「彼らには情けも容赦もないわ。やる時は徹底的なの。だから残らないのよ、痕跡も、目撃者も。残っていてもぐちゃぐちゃ過ぎて、そこで何があったのかすらわからないの。だから話が全く残らないのよ」
彼女の声の後ろの音がますます大きくなり、私は電話を続けるのが苦痛になってきた。虫の羽音のような大きな音が電話越しに私の耳を刺激する。彼女はいったいどこにいるのだろう。
「ねえ、本当にどこにいるの?」
私はなんだか嫌な予感がして聞いてみたが、彼女は乾いた笑い声を電話越しに聞かせるだけで何も教えてくれない。私は一層不安になるが、なぜだかそれ以上彼女に質問をすることができなかった。
「最期に誰かに共有できてよかっ……」
ガンッ
彼女がそう言った後、いや、話している途中で、床に携帯が落ちたような大きな音がした。私は思わず携帯を耳から離し、携帯の画面を見た。電話は切れていなかったが、彼女の声は全く聞こえない。その後私が何度呼びかけても彼女からの返事はなく、聞こえるのは虫の羽音ような音とと、ぶちぶちと肉を引きちぎるような気味の悪い音だけだった。
私は耐えられなくなって電話切り、それから大きなため息をついて頭を抱えた。エアコンのおかげで暑くないのに、シャツは汗でびしょびしょに濡れていた。
あれから彼女からの連絡はない。
私から電話をかけたいという衝動に駆られることもあるが、私は彼女に電話をすることができないでいる。なぜならあの日から家の中に小さな羽虫が入り込む頻度が明らかに増えている、そんな気がするから。殺虫剤をまいても気がつくと視界の隅に姿がちらつく。
今のところ命の危険を感じることはない。だから、これ以上踏み込まなければ大丈夫だろう。きっと大丈夫。私はそう自分に言い聞かせて、時折感じる視線をなんとか無視している。