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君はのぞみ  作者: Mika KUMRINEN
4/4

4、

  4、


 転勤を重ねるうち、どこにしまったか、部屋の中で行方不明になる荷物が必ず出てくる。荷ほどきをせず、引っ越し会社のロゴ入り段ボールに入れたまま、眠るパターンだ。

 火曜日。

 目覚ましなしで、午前四時に目が覚めた。休みだとわかっていながら、(出勤じゃなかったか)と一度は自分を試すことで、二度寝の快感は倍増する。そうして次に目が覚めると、午前七時だった。空腹は食パンを二枚焼き、目玉焼きと一個のトマトで満たした。晴れていたから、洗濯機をまわした。そのあいだ、脩一は探し物を始めた。

 画材があったはずだ。スケッチブックに、透明水彩、パレット、それに筆。

 小学生のころから絵が好きだった。中学、高校と美術部だった。美術系の大学には進学しなかったが、それでも学生時代、著名なアニメーション監督が使っているというだけの理由で、透明水彩を買ってスケッチブックを埋めていた。就職してからもときどきは描いていた。が、4Bの鉛筆を削る回数は目に見えて減った。挙句画材をどこへしまったのか分からなくなる始末だ。

 ――あれは、亜紀にやったんだったっけ。

 未開封の段ボール箱を三つほど開けて、ずっと探していたDVDを二枚見つけた。そして、画材一式は別れた彼女にそっくり譲ってしまったことを思い出した。

 埃が鼻をくすぐり、窓から青空を見上げながらくしゃみをした。

 開封した段ボール箱はそのまま押し入れに戻した。古い社内報が出てきたので、めくる。胸にかすかな痛みが走る。画材を探していて、これを見つけるとは、どういういたずらか。

『結婚おめでとうございます』

 社内報の最終ページに、社員の結婚、出産の情報が載る。

「よりにもよって、この号かよ」

 自嘲が声に出ていた。去年の十二月号だ。

『九谷晃さん(札幌新琴似店)・三橋亜紀さん(札幌新道東店)』

 ベッドにもたれる。フレームもマットレスも、系列会社の店舗で買ったもの。伝票を作ってくれたのは、二期下の三橋亜紀だった。

(社員買い物って、どうやって伝票作るんでしたっけ)

 千葉県柏市。三店舗目の勤務。亜紀はその年の新入社員で、笑うと深いえくぼが目立っていた。

 二年付き合った。亜紀が作成した伝票、届けられたベッドで、二人朝を迎えた日のことはよく覚えている。売り場で亜紀はいつも気を張っていた。インターコムで呼ばれると、すぐに「三橋ですっ」と返事をした。小柄な亜紀は、いつも売り場で「いらっしゃいませ」の声を元気に出していた。支給のウエストポーチにはメモ帳が二冊入っていた。一冊は現在進行形のもの、一冊はその前に使っていたもの。どのページも細かい字がぎっしりと書き込まれていた。(あたし専用の作業手順書なんです)

 亜紀から漂う甘い匂いが心地よかった。少女のようなあどけない寝顔も好きだった。

「いまさらなんだ」

 自分はやはり、サインに気づけない人間なんだと思う。亜紀に好意を寄せられていることにも、亜紀の気持ちが脩一から離れようとしていることにも気付かなかった。

 亜紀は仕事に熱心だった。向上心の塊だった。だから、先輩社員やベテランパートと同じ仕事をこなそうとしてよく失敗していた。咎められると、唇をきっと噛んでいた。脩一にも覚えがあるが、悪魔に魅入られたかのように失敗を続けてしまうことがある。ある日、バックルームで声を殺して泣いている亜紀の後ろ姿を見た。片手にメモ帳。店の制服であるエプロンドレスの裾を握った右手が震えていた。鼻をすすりあげる音。脩一はボックスパレットに補充品を積みながら、亜紀に声をかけた。

(このあいだ三橋さんが言ってた店ね、おれも気になるんだ。一緒に行ってみる?)

 サービスカウンターの中で、亜紀の方が一度誘ってきていたのだ。暇なら一緒に行きませんか、と。脩一の声に振り向いた真っ赤な目。震える声で、亜紀は言った。

(はい……、行きますっ。商品構成グラフの書き方も教えてください)

 脩一は社内報を机の上に放りあげた。捨ててしまおう、こんなものは。亜紀は間違いなく、脩一の思い出に現在を上書きしている。彼女も総合職だ。いずれどこかの部署でまた一緒に働くかもしれない。自分は先輩らしい仕事をすればいいだけだ。職務として競合他店の調査に行ってもいい。そのときは、三年生社員と新入社員のデート代わりの見学ではおよびもつかない分析をしてやるさ。

 それでも脩一はしばし、千キロ以上のかなたで幸せをつかんだ元恋人の残像を休日の空にオーバーラップさせる。二人で抱き合い眠ったベッドの上で。

(ねえ、シューちゃん。あたし、札幌に異動になるの)

 冷たい雨の降る晩秋だった。脩一が埼玉のDCに異動になってからも、脩一は車を走らせて柏は亜紀のアパートを訪ね、亜紀も電車を乗り継いで埼玉の田舎までよく来てくれた。亜紀の転勤が決まり、引っ越しの日が近づくと、二人の往来は減った。脩一は、初めての転勤を目前にした亜紀が忙しいのだろうと、敢えて頻繁な連絡を避けていた。けれどそれは裏目に出たようだった。

ついに亜紀が明日千葉を離れるという夜、二週間ぶりに脩一のベッドでふたり抱き合って別れを惜しんだ。亜紀の目に涙があった。抱き合いながら、行為のあいだ中、亜紀はずっと脩一の名を呼び続けた。これが今生の別れであるかのように、亜紀は果てるまで涙を流していた。

 そして、亜紀が北海道へ転勤して以来、脩一は彼女と会っていない。

 どこかでサインが出ていたのだと思う。

 亜紀は脩一になにを望んでいたのだろう。上司に、自分も北海道への異動を願い出ることを?

 同時の異動は無理でも、たとえば結婚を控えた社員どうしでなら、それはあり得る。亜紀が先行して札幌へ赴任し、数か月あとで、脩一も札幌へ異動の辞令が出ただろう。社内にはそのような規定はどこにもない。ただの慣習だ。だが、脩一は北海道への異動希望はついに出さなかった。亜紀の負担になるのではないかと気をまわした。配転希望を会社に伝えるということは、すなわち、亜紀との結婚を決めたということだからだ。脩一にその覚悟があったかというと、疑問だった。しかし亜紀はそれを望んでいたのだ、おそらく。

(昔と何一つ変わってない)

 洗濯機が電子音を響かせた。追憶を断ち切るようにして、脩一はベッドから降りる。

 数日分の洗濯ものをかごに入れて、簡素なベランダに出た。風は涼しい。稲刈り間近の稲田は金色の海だ。空が高い。けれど、この町の空は狭い。超高圧送電線を支える巨人の群れに囲まれているからだ。

(シューちゃんの赤ちゃんなら、出来てもいいかな)

 唐突に亜紀の声が耳に蘇り、脩一ははっと顔を上げる。避妊具なしで抱き合い、亜紀の中で脩一が達した夜。あのとき、脩一はなんと答えたか。思い出せない。かわりに、脩一を受け入れたまま、頬を上気させてはにかむ亜紀の表情ははっきりと思い出せる。

「亜紀……」

 かつての恋人の名を呟いて、脩一は頭を振った。強引に思考を切りかえる。洗濯物を干しながら。さて、これからどうしよう。今日は貴重な休日なのだ。

ベランダでぼんやりしていると、白いヘルメットをかぶり、指定カバンを背負った学生服やセーラー服の中学生たちの姿が見え始めた。登校時間か。黄色い帽子にランドセルの小学生もいるし、ブレザー姿の高校生、背広姿の大人も混じる。ベランダでそんな様子を眺めていると、隣のベランダにだれかが出てきた。洗濯かごを抱えて現れたのは、セーラー服姿の玲奈だった。

「あ、おはようございます」

 先に玲奈にあいさつされた。しかし玲奈の表情はいたって平淡だった。

「……おはよう」

 玲奈は制服姿で洗濯ものを手早く干し始めた。脩一は視線を外した。けれど部屋に引っ込むと、玲奈を避けているように見えそうで、だから玲奈が手際よく洗濯もののしわを伸ばし、ハンガーにかけ、あるいはピンチに留めていく音を聞いていた。ものの二、三分だったろう。

「失礼します」

 玲奈の声に向くと、もうそこには彼女の姿はなかった。掃き出し窓を閉める音が聞こえた。まじまじと見たのでは変質者だ。脩一は隣室の洗濯ものをちらりと見て、自分も部屋に引っ込んだ。

 Tシャツ、女性物のブラウス、おそらく元は真っ白だった玲奈の体操着にエンジ色のジャージ。

 ――男物の衣類は、案の定なかった。


 バイパス沿いのガソリンスタンドで給油した。ハイオクガソリンを満タンで。いまさらこの車で峠道を走り回るわけでもない。高性能はもてあまし気味だ。次は燃費のいいコンパクトカーがいいかもしれない。後部座席はおろか、助手席に乗る人間も目下いないのだ。

 画材一式を取りそろえている店はどこだろう。ショッピングモールにならありそうだが、別の道を走りたくて、バイパスをそのまま涌見市中心部へ向かった。雲ひとつない青空だ。朝のラッシュも過ぎてしまえば、どの道も空いている。県北の山岳地あたりにでも向かってみようか。そう思いながら、自分がやけに感傷的になっていることに気づく。画材を探して亜紀を思い出し、追い打ちをかけるように社内報で亜紀の名前を見たからだ。

 だれにも付き合っていることは言わなかった。二人の休日が一致することはほとんどなかったが、一緒の休みには、前夜から取りとめもなくどこへ行くかを話し合うのが楽しかった。亜紀は写真が趣味で、脩一は絵が好きだ。手賀沼にはよく行った。校外学習の中学生たちに混じって水面を眺めた。早起きして高速を走って出かけた、三浦半島や忍野八海。筑波山にも行った。亜紀と過ごした休日、出かける先には困らなかった。なのに今日は、どこへ行くかも決めずに車を走らせている。いいさ、久しぶりにスケッチブックと4Bの鉛筆を持って、根雪山の麓にでも行ってみようか。渓流と吊り橋に雪を戴く根雪山の写真を、市の広報紙で見たことがあった。

 休日は自由だ。時間も早い。行こうと思えば、前任地の埼玉にだって行ける。亜紀と過ごした柏にも行ける。けれど脩一は早くも時間をもてあましはじめていた。最近は休日のたびにこうだ。無理やり理由を作らないと部屋から出ない日もある。何度も読んだ文庫本を読み返したり、ボールペンでコピー用紙に落書きをしたりだ。そのうち夕方になり、休日を浪費したすさまじい喪失感に包まれる。仕事をしている方が気持ちが楽なのはどうしたことだ。勤務中は退勤時刻や次の休日が待ち遠しく感じられるのに。

 とにかく、今日は新しい画材をそろえる。それからどこでもいい、スケッチブックの一ページに風景を写し取って帰宅する。

 しかし、肝心の文具店が見当たらない。


 透明水彩が予想以上に高かった。こんな値段だっただろうか。スケッチブックの値段はこれくらいだったか。根雪山まで行ったはいいが、そこでスケッチブックを広げるのがやたらと気恥ずかしく、名物だというキノコそばを食べて早々に引きあげた。そばは確かに旨かった。

 曲がりくねった山道を走るとき、久しぶりに自分の車の性能の一端を味わった。しかし往復一〇〇キロも走っていないのに、燃料計の針が動いている。現金なもので、恋人と出かけたときには燃費など気にならないのにだ。

 下り道で平野が見渡せた。自分の職場が見えた。背が高いのは自動倉庫の建屋だ。バイパスに立つ系列会社の店舗の看板も見える。広大な水田、並ぶ送電塔。自分の世界。

 バイパスに入るころ、ベランダに干したままの洗濯物を思い出す。日が陰る前に取りこまなければ。

 休日を消費した。スケッチブックは白いまま。そもそも鉛筆を買ったのはいいが、鉛筆削りもカッターナイフも持っていなかった。吊り橋のたもとで意気揚々とスケッチしようとしたところで、脩一は一本の線を引くこともできなかったわけだ。下り道を走りながら思い至り、一人で声を出して笑った。鉛筆削りも買い足さなければ。いや、鉛筆削りは引き出しに入っていたか。

 県道から路地へ、そして袋小路の駐車場に車を入れて、エンジンを切る。やれやれ、まだ午後三時だ。助手席から文具店の店名の入った袋をさらう。

 電車が走る音。鳩の鳴き声。どこかでトラックのクラクションが鳴る。

 アパートの外階段を静かに上がり、自分の部屋へ向かおうとすると、手前のドアがちょうど開き、髪の短い小柄な女が出てきたところだった。隣室の――。

「あ、こんにちは」

 先んじてあいさつされた。微笑んでいた。

「こんにちは」

 軽く頭を下げて返礼。彼女はまるで飾り気のない地味なブラウスに年季の入ったジーンズ姿だった。肩から一目で安価と分かるバッグを提げている。顔も化粧気がないうえ、疲れがにじんで見えた。。

「失礼します」

 一礼し、歩きだす。脩一は身体を傾けて道を開けた。はっとするほどに玲奈と似た顔をしていた。そして玲奈に似た匂いがした。

すれ違った女性は若かった。二十代半ばか、それよりも下に見える。玲奈とは姉妹だろうか。ならば姉妹で住んでいるのか。出会ったのは初めてだった。引っ越した日に全室あいさつに廻ったが、そう、隣室を含む数軒は留守だった。

 自室のドアを開けると、まだ西日が射し込む前で、さほど暑さも感じなかった。いや、季節がめぐっているのだろう。風はない。画材を入れた袋をソファの上に置き、脩一は掃き出し窓を開けて、洗濯物を取り込む。隣を見ると、物干しにはなにも残っていなかった。朝は制服姿の玲奈が洗濯物を干していた。取りこんだのは先ほどの彼女だろう。中学生の玲奈はまだ学校のはず。

 女子中学生と、二十代の女の子。両親がいないのだろうか。二人の服装には慎ましさを――いや、貧相さを感じる。

 取りこんだ洗濯物を、適当にたたむ。自分も服装に気を使うタイプではなかったが、首回りが伸びたり黄ばんだりしたシャツは処分してしまう。

 洗いざらしのようなショートヘアだった隣室の彼女。そして、よく似た顔の玲奈。

 由香――。クラスメイトの横顔がこんなときにも思い出される。そして、北海道へ転出して行った恋人の顔も。

 亜紀は脩一と同じく、ごく普通の家庭で何不自由なく育った女の子だった。脩一は私立大学を卒業させてもらったが、亜紀は国立大学を出ていた。脩一は学習塾に通った経験はなかったが、亜紀は進学塾のほか、ピアノと水泳を習っていたと聞く。ショッピングモールの楽器店で、亜紀が弾いたドビュッシーはなかなか達者だった。つまり彼女は苦労知らずだった。そしてこれからもだ。会社がつぶれるかリストラにでも遭わない限り――向上心を持って仕事をしている限り、自社にその心配はない――この先も脩一や亜紀が経済的に困窮することはあり得ない。

 それが世界のすべてではない。

 南先生の言葉をふと思い出す。

 キャンバスに顔を寄せ、すぐ目の前の彩色ばかりに気を取られていると、全体が見えなくなる。

 今日の休日は感傷的に過ぎる。苦笑が漏れた。それでも、長い睫毛と黒い髪が思い出された。

 島田由香。

 彼女は間違っても広いとは言えないアパート住まいで、習い事や学習塾とは無縁の世界にいた。

 約束を守れなかった。亜紀と同じだ。由香が出していたサインに気づけなかった。


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