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母親に起こされ、制服に着替えて食卓につけば、背広を着た父と、小学校の通学服姿の妹がいる。家族そろって不足のない朝食を食べ、学校へ行く。それが当たり前だとすら意識していなかった。脩一は会社員の父と、配偶者控除の範囲内でパートに出る母、生意気だが甘えん坊の妹の四人、田舎過ぎも都会過ぎもしない地方都市で暮らしていた。祖父母もまだ元気で、市内に住んでいて家族でよく遊びに行った。脩一も妹の千佳も、半分は祖父母に育てられた。両親は仲が良く、妹とも仲が良く、友達にも恵まれた。不足のない日々だった。
中学二年でクラス替えになった。一学年九クラス。校区内に大規模団地があったから、市内でも有数の大規模校で、クラスメイトの三分の二は顔と名前が一致せず、出身の小学校もバラバラだった。それでもクラスの雰囲気にはすぐなじめたと思う。成績もそこそこで、スポーツも苦にならなかった。目立つ生徒ではなかったが、教室という閉じた世界に埋没するほど存在感のない生徒でもなかった。そして、他者にはほどほどに無関心な少年だった。
だから、島田由香のことは、あの席替えで隣になるまで、まったく意識したこともなく、とうぜん口を利いたことすらなかった。もちろん顔も名前も知らなかった。
「よお、シュー。おまえ今回の席替えさ、よりにもよって『かわいそうな由香ちゃん』の隣だもんなぁ」
席替え当日の体育の授業だった。一学期の大型連休明け。夏を思わせる日和で、グラウンドは水撒きをしていたがすさまじい照りかえしだった。一組と二組の男子で混成チームを作り、サッカーをやっていて、脩一は一年から同じクラスの大城礼司と並んでその様子を眺めていた。立っているだけで汗が流れた。
「『かわいそうな由香ちゃん』?」
脩一は訊き返した。
「ああ、『ユカちゃんビンボー』」
同じく並んで立つ湯島直臣が、女の子向けの人形玩具の名前を模した風に、節をつけて言った。
白い歯を見せて礼司が笑った。
「なんだよそれ」
まだ脩一は、島田由香とは声も交わしていない。
「湯島、島田と小学校一緒だよな」
礼司が汗をフェイスタオルでぬぐいながら言う。真っ白い体操着が日差しにまぶしい。並んだ三人とも、多少黄ばみはあるけれど、よく洗濯された体操着姿だ。衣替えはまだだが、この暑さで長袖ジャージ上下はとても着ていられない。
「うん、一緒。一年のときも同じクラスだった。話したことはないけどね」
「なんで『かわいそう』なんだよ」
脩一も汗を拭く。グラウンドの反対では、一組と二組の女子がソフトボールをやっている。甲高い歓声がときどき耳にくすぐったい。
「島田の制服、見たろ? ボロボロのヨレヨレ。きったねーしさ」
やや目を伏せて直臣が言う。
「そうそう。染みとかついてんのね」
礼司が抑揚なく言った。
「ようするにさ、あいつん家、貧乏なんだよ」
直臣が淡々と言う。
「あいつ、小学校んときからそうなんだ。制服はバザーとかでもらったやつ。ランドセルもボロボロのを六年生まで使ってたし、一年中体操着かジャージ着てたし」
「今もだけどな」
礼司がぼそり。
「あいつ、このあいだマエダヤで見かけたけど、ジャージだった。日曜日だぜ」
校区内の安売りスーパーの名前だ。
「そんでさ、きったねージャージ着て、めっちゃ怖い顔して、なんか買い物してたぜ」
「へぇ」
脩一は曖昧にうなずいた。
「あいつ、笑わねぇし。ほら、見てみなよ」
礼司が顎でソフトボールをしている女子たちを指した。
「ん」
すぐに分かった。伸ばした髪を後ろで二つ縛りにした島田由香が、ほかの女子たちとは離れた場所で、ぽつねんと立っていた。
「きったねー体操着」
直臣が吐き捨てるように言った。
「黄ばんでよれよれ。ほら、ゼッケンだって、一年のを番号書き変えただけだぜ」
礼司が汗を拭きながら顎を上げて、言った。
「そんなの、お前もじゃん」
脩一が言うと、
「おれのは、母さんが上にアイロンで布貼ってくれてるもん。わかんないじゃん」
確かに礼司の胸と背中に縫い付けてあるゼッケンは、枠にきちんと合わせた白い布をアイロン圧着で貼り合わせ、そこに二年生の学年・クラス番号を書き入れている。脩一は、四月、クラス替えのあとで母親が新品を付け換えてくれた。島田由香は手間を惜しんだのか、「1年6組」の「1」と「6」に取り消し線を引いて、「2年1組」に書き換えていた。そして、礼司が言うとおり、由香の体操着は黄ばみが目立った。
「かわいそうだよな……」
ぽつりと直臣がつぶやいた。
「女子からも外されてるし」
礼司も今度は笑いをにじませずに言った。
「そうなの」
「おまえ、気づいてないの? 四月からけっこうさ……。それにだいたい、おれらは島田に面と向かって『ユカちゃんビンボー』なんて言わないじゃんよ。あいつらは言うからな」
「マジかよ」
「ああ。特に、ほら、あの石田がさ」
甲高い歓声を上げ、手を叩いてはしゃぐ女子がいる。ゼッケンにはきれいな字で「石田ゆかり」。成績も優秀で運動もできる、一組女子のリーダー格。一部の男子から好かれているのは否定しないが、ゆかりは見た目に反して性格の悪いお姫様だ。クラスの女子はしもべたち。持って生まれた性格か、いくらかわいらしい容姿をしていても、脩一は仲よくなりたいとは思わない。
「石田がなんだよ」
「あいつがさ、四月からこっちさ、何かにつけては島田をやっちまうんだよ」
「やっちまうって、なんだよ」
脩一が礼司を向いて尋ねると、礼司は仕方ないなというふうに小さく嘆息した。
「……バイキン扱い。汚い、臭い。給食食えないから教室から出て行けとかよ」
「ひでぇ」
「まあ、実際、ちょっと臭うっちゃあ臭う気はするんだけど」
「おれ、分からなかった。隣の席だけど」
「だって席替えしたのなんてさっきじゃんよ。わかんないんじゃね?」
「そうかな」
「まあさ、そんなこんなだからよ、おまえもさ、『かわいそうな由香ちゃん』にはかまうなよ。おまえも石田に『かわいそうなシューちゃん』にされちまうぜ」
「冗談じゃねぇ」
「ハハッ」
暑い。汗が流れる。それでもまだ、風が吹くと涼しい。思った瞬間、砂埃がグラウンドに舞った。女子たちが小さく悲鳴を上げた。石田ゆかりが大げさに身をすくめている。
島田由香は――。紺色のハーフパンツについた埃を、細い腕ではらったほかは、汗を拭くそぶりもなくまたじっとソフトボールの試合再開を待っていた。
男子は二組の教室で、女子は一組の教室で着替えをする。脩一は、石田ゆかりの「いいよ男子、入っても」の声を廊下で待って、礼司や直臣たちと、暑くて結局着なかったジャージ上下を抱えて戻った。
「うげ、女臭ェ」
礼司が顔をしかめた。
「小林、窓開けてくれよ」
窓際の席の小林貴正は礼司の呼び掛けに応じて、窓を全開にした。おそらく二組の教室では、女子が同じように「男臭いから窓開けて」とやっているのだろう。隣もにぎやかだった。
「なにこの暑さ」
脩一の斜め後ろで、着替えたばかりの冬服セーラーの袖をめくりあげた稲岡理彩が、下敷きであおいでいる。
「今日の最高気温、二七度だって朝のニュースで言ってた」
さらにその後ろの木村美弥が身を乗り出して、けれど長袖のカフスボタンまでしっかり留め、理彩に言う。前髪が額に張りついていた。
「まだ五月なのに」
理彩がぶつぶつ言いながら、次の授業――国語の教科書とノートを取り出している。
「シュー、シャーペンの芯くれよ」
前の席の千村博也が振り向く。最前列になってしまったと席替え直後から不機嫌だ。
「Bだけどいいか」
ペンケースから替え芯を出そうとして、千村がさらに顔を歪めた。
「おれHB使ってんだけど」
「知らないよそんなの。……島田さん、HBの芯なんて持ってる?」
隣の机で教科書とノートを広げようとしている島田由香に言うと、ぴたりと動きを止める。千村も固まり、さらに千村の隣の江上瞳まで反射的に振り返った。
「……いいよシュー。シャーペンもう一本持ってるからさ」
「じゃあ最初からそれ使えよ」
脩一も教科書にノートを机から出した。
「島田さんごめん。もういいって」
由香は返事をしなかった。教科書を机の左側にそっと置き、ノートを開く。
「いいってシュー、もう」
うるさそうに千村は言い放ち、前を向いた。江上瞳も。二人揃って嘆息したのが、脩一にもわかった。やがて、国語担任の大塚が教室にやってきた。二組の学級担任で、強面に五分刈りの頭、カラーワイシャツにネクタイ姿は、一昔前の刑事ドラマの主役から取って、生徒たちからは「団長」のあだ名で呼ばれている。
団長は日直の今野武典が意外に通る声で「起立・礼・着席」を済ませると、前置きもなく教科書を開く。
「じゃあ、昨日の続きから朗読だな。石田ゆかり」
団長は生徒を全員フルネームで呼ぶ。呼ばれたゆかりが立ちあがり、澄んだ声で朗読を始めた。
宮澤賢治。
声は容姿に似合ってかわいらしい。それに朗読もゆかりはうまい。あの歪んだ性格のどこにこんな才能が眠っているのか、脩一は不思議でならない。
「次、相原信明」
脩一は国語が好きだ。数学よりも、体育よりもだ。小学生のころ、祖母にねだり、文学全集を誕生日に買ってもらった。ゲームソフトよりも嬉しかった。今日の授業の宮澤賢治も、ずいぶん前に読んだ。好きな作品が載っていると、授業も楽しい。
授業であることを半ば忘れて賢治の世界をのぞいていた脩一の教科書に、折りたたまれたノートの切れ端が飛び込んできた。――通信だ。
〈島田にかまうな〉
悪筆。礼司だ。団長は教室後方へゆっくりと歩んでいる。二列挟んで一列後ろに礼司がいる。どうやら、先ほどの替え芯のやり取りを見ていた様子だ。
〈なんでだ。となりの席だから話しかけただけだろ〉
小さく書き込む。HBよりBの方がこういうとき書き込みやすい。たたんで、右隣の葛西恵子に通信を託す。表に宛先が書いてあるから、中継役はそのまま教師の目を盗んで、送ってくれる。
「よし、最後、安野真優」
ちらりと見ると、礼司が通信を開き、目を剥いて脩一を見た。どうせすぐに第二信が届く。脩一は向き直り、教科書の本文を追う。が、ふと「匂い」に気づく。
――女子の、匂い。
胸のどこかが疼いた。ああ、体育のあとの教室の匂いだ。女子の汗、――体臭。それが、すぐそばから匂ってくる。
――島田。
腕と腕が触れ合いそうな距離に、島田由香がいる。もちろん机は密着している。席替え前の脩一はいま教科書を朗読している安野真優と並んでいた。真優はノートを隣席まではみ出させる癖があり、しばしば脩一と揉めた。由香は、脩一の領域にまったくノートをはみ出させてこない。ノートは、整った細かい字が適度な空白とともに埋められていく。真優のノートは数種類の蛍光ペンを使ってやたらと派手で、参考にさせてほしいと見せてもらったが、どれが重要な部分なのか判別に困ったものだった。由香のノートはモノトーン、というより、シャープペンと、赤のボールペンでところどころにアンダーラインが引かれているだけでシンプルそのものだった。
脩一のノートに第二信が放り込まれた。
〈クラスの女子全員を敵にまわすぞ〉
短い一文だが、脩一は息を飲む。団長の現在位置も確認せず、礼司を向いた。目が合った。
――わかったよ。
目で合図した。
――気をつけろ。
礼司も返してきた。
「よし、昨日の場面だけどな」
朗読が終わり、段落の分析が始まる。団長は人気のある教師だ。小説にしろ随筆にしろ詩にしても、作品単体の分析だけでなく、作者の生い立ちから作品の書かれた時代まで、中学生の興味をそそるエピソードを交えて飽きさせない。ただし、板書が達筆で、しかも消すのが早い。これも生徒を飽きさせない工夫かもしれなかったが、ぼんやりしているとノートは空白だらけになる。
由香が板書を丁寧に書き写していた。「女子の汗の匂い」は体育の着替えの残り香などではなく、由香の制服から強く漂ってくる。ああ、これが礼司や直臣が言ってた「臭い」か。
また胸が疼いた。
制服。袖がほつれている。カフスの三本の白線も汚れてくすんでいる。真優も、前席の江上瞳も、クラスの女子の制服の袖など、みな似たようなものだと思っていた。気にしたこともなかった。けれど、言われてみると、確かに由香の制服は、前に座る瞳のセーラー服よりも全体的に着古された感があり、しかも袖はいくつか染みのようなものもある。けれど、「汚い」とは思わなかった。
黒板を見る動きで、由香の横顔を見た。白い肌。長い髪は確かに脂っぽい。が、体育で汗をかき、ほかの女子だって似たようなものじゃないか。取りたてて不潔には見えない。ほっそりした顎、きれいな鼻筋、長い睫毛と、二重まぶた。シャープペンを動かす手も白く、爪もきちんと切ってある。
脩一は初めて、人の悪意をのぞいた気がした。『かわいそうな由香ちゃん』だって? なら、なぜバイキン扱いをする? 理解できない。
少なくとも脩一の十三年間の人生で、だれかをそうした悪意をもって揶揄した経験はなかった。正義漢ぶっているつもりはなかったが、そういう環境で育ったのだから仕方ない。
――かわいそうなことをしてるのは、石田たちじゃないか。
手元と黒板を行き来する由香の横顔は引き締まった表情で、長い睫毛が瞬きのたびに動く。
(かわいいな……)
そう思った瞬間、学生服の中の胸が、キュッと締め付けられるように感じた。十四年間で初めての経験だった。
美術室には油彩絵の具に溶き油の匂いが漂う。イーゼルにキャンバス。部屋には八人の美術部員。六人が女子。男子は二人で、そのうち一人が脩一だ。
油彩は美術部に入って初めて使った。一枚の絵を仕上げるのにずいぶん時間がかかるのだと最初は面倒に感じたが、水彩やポスターカラーでは描ききれない細かな描写や、光と影の境界を、筆の使い方次第で、自画自賛したくなるほどにぼかして描けるのが楽しかった。
「イズミ公園、けっこう仕上がってきたな」
クラス担任であり美術部顧問である南が脩一の絵を見て、満足げに言った。
「葉の細かいところ、どうやって塗ればいいですか」
「一枚一枚描いていくのもありだし、輪郭から全体を塗って、影とハイライトを入れるやり方もある。坂井はどういう絵が好みだった?」
「葉っぱを一枚ずつ描いてみたことがあるんですけど、かえってバランスが悪くなりました」
「そうだな。そればかり見てると、気づいたら木が頭でっかちになったりするな。そういうときは、どうしたらいい、森下」
隣でまさに、キャンバスに触れんばかり、顔を寄せて水田の稲穂を描いている森下未来に南が言った。
「えっ、南先生、なんですか?」
一拍遅れて、未来が絵筆を止める。
「森下、稲穂を一本一本ていねいに描くのはいいけどな、手前と奥で太さを変えたらもっとぐっと奥行きのある絵になると思うな」
「あ、はい、あ、なるほど」
「というわけだ、坂井。ちょっと描いては、引いて全体を見るといい。どう描くかはそのときにひらめくさ。技法的なことなら、いくらでも説明できるけど、技法のための絵じゃないからな。お前の描きたい世界に近付けるための技法だ」
「はい」
「いいんじゃないか。このまま進めてみなさい」
「はい」
鉛筆やペンで風景を描くのは小さいころから得意だった。透視画法を習う前からパースを起こすのが得意だった。けれど彩色が苦手だった。パレットでの色づくり。そこから下書きに色を乗せるとき、思い描いた世界は崩壊してしまう。美術部で絵の基本を覚えたくて入部した。南先生の言うとおりだ。絵を描くための技法だ。それを的確に教えてもらい、二年生になって、ようやく自分のイメージの三割程度の完成度まで仕上げられるようになったと思う。
「シュー、葉っぱ描くのやめたの?」
未来が自分のキャンバスを睨んだまま、声をかけてきた。脩一も未来もジャージ姿。二年生は緑学年だから、二人ともそれぞれが描いている葉や稲穂のような色のジャージを着ていた。側面に太い白線が三本。未来の袖の白線に絵の具が散った跡がある。
「全体に塗って、葉の影を入れて、それからほら、光が当たってるところを塗ってみようかと」
「へぇー。そういう塗り方かぁ」
「葉っぱばっかり細かく描いてると、浮くんだよ、そこだけ」
「わかる。もうあたし、田んぼだけ浮いてる」
「これ、なに」
「鉄塔」
「こんな形してたっけ」
「遠くて見えないんだよ」
「メガネ買ってもらいなよ」
「ヤダよ」
未来は近視気味なのだ。部でスケッチに出かけると、いつも目を細めている。
「森下先輩、これどこですか?」
甘い匂いと声に脩一も振り返る。一年生、赤学年――エンジ色のジャージの胸に、「1年8組 佐藤里桜」。最初は名前が読めなかった。
「リオ、これ、お稲荷さんの裏」
「あー!」
「分かった?」
「あたしんちの近所だ」
「なんだ、リオのうちこのへんなんだ。第三小だよね」
「はい。先輩とおんなじです」
入学してまだ二月たっていない里桜のジャージはまだ真新しい。ゼッケンの文字も黒々とくっきりしている。栗色のショートヘアがさらさら揺れていた。
「お稲荷さんの裏だったのか、これ」
「いまごろ気づいたの? シューんちの近所なのに」
「あ、そうだ。坂井先輩も第三小でしたよね。じゃああたしのうちの近所だ」
「佐藤の家どこ」
「えっと、この田んぼの横をこっちに曲がって、……あれ、森下先輩、お地蔵さんがない」
「これから塗るの。ここに描いてあるでしょ」
「これですかぁ?」
「これ」
「じゃあ、ここを左に曲がって、三軒目です」
「本当にうちの近所だなぁ」
未来はまた稲穂を描きはじめた。
「佐藤、自分の絵はいいの?」
「乾くの待ってるんです」
「完成ってこと?」
「わかんないです。油絵初めてなんで」
「どれ」
脩一は席を立ち、里桜のイーゼルに近寄る。
「……桜?」
堤防、小川、並木。ああ、あそこか。桜の名所。
「はい。三月に咲いてた桜を思い出して描いてます」
「佐藤さん、絵習ってたの?」
横でキャンバスに向かうのは、三年生、青のジャージに「3年5組 渡邊遥子」のゼッケン。やたらと画数が多く、しかも最初名前が読めなかった。部員は「ヨーコ先輩」と呼ぶ。
「小学校でも美術クラブに入ってたんです。でも水彩とか、ポスカで描いてました」
「慣れてるなぁって思ったんだけど。そっか」
遥子先輩は脩一と同じイズミ公園の池だ。ただし、こちらも桜が咲いている。脩一は桜が散った後にスケッチしたから、近い場所でも色味がまったく違う。
「坂井君のがいちばん進んでるかな」
先輩らしい先輩。遥子は頼れるお姉さん風そのままの容姿で、ゼッケンの文字も整っている。
まったくだしぬけに、島田由香のノートの文字を思い出した。国語のノート。団長が板書した内容をまる写しにせず、自分なりの解釈も加えて手早く書いた、きれいなノート。文字には性格が表れるだろうか。ならば、今日の「帰りの会」が終わった後、わざわざ島田由香の机の横を通り、あり得ない角度で由香のカバンに身体を当て、由香の教科書やノートやペンケースをぶちまけた石田ゆかりのノートの字は醜く歪んでいなければならない。なのに、ゆかりの体操着やジャージの前後に縫い付けられたゼッケンの文字は、すっきり整ったきれいな字なのだ。明るく快活な安野真優の名札やゼッケンの名前は、適当に書いたとしか思えないほどに乱れた字だった。ノートはカラフルだがまとめ方は適当そのもので、脩一や礼司のノートのほうがよほどまとめられていると思った。
文字は人の心を映さないのだろうか。
絵は、人の内面を表す。未来が稲穂一本一本に筆を入れていく様子は、繊細な彼女の性格を表していると思うし、鮮やかな彩色の絵を描く遥子は、やはりさっぱりした性格を表していると思う。
教師たちは、時代遅れにも「服装の乱れは心の乱れ」だと生徒を指導する。脩一の中学校に限らず、この町の中学校はみな校則が細かく、厳しい。それでも八十年代と比べたら格段にゆるくなっているというのだから信じがたい。わざわざ制服を着崩したがる一派がどのクラスにも一定数いるのだが、脩一はいちいち決まりごとに反発するのが面倒なタイプだったから、決まり通りの服装でいる。乱れてはいないが、着崩すのがただ面倒なだけだ。生徒指導の教師はだから生徒たちの内面などまったく見えていない。おそらく、美術の授業を通して生徒たちの絵を見続けてきた南先生の方が、心の乱れに敏感なはずだ。
島田由香というクラスメイトを、脩一は今日初めて意識した。四月から同じクラスだったというのに、脩一はずっと彼女を認識しないでいた。礼司や直臣に聞かされて、石田ゆかりを筆頭とする女子グループが由香を目の敵にしていることを知った。がらりと世界が違って見えた気がした。明るく人懐っこい女の子だと思っていた安野真優や、代表委員の江上瞳、暑がりの稲岡理彩、彼女たちへの印象も、体育の授業の前と後では違った。島田由香という触媒がそうさせた。
先生。
広葉樹の枝葉を描く手をわずかに止めて、脩一は南先生を目で追う。
――先生。先生は島田のことを知っていましたか。石田たちが島田をどう扱っているか、先生、知っていましたか。
きっと南先生はいずれ気付く。いや、きっともう気づいてる。気づいていてほしい。
「佐藤、名前に桜の字が入ってるからって、こんなに桜を派手に描かなくてもいいんだぞ。里に咲く桜は、もっと穏やかな色じゃないか?」
「ええー、きれいじゃないですかぁ。でも赤を混ぜ過ぎたかも」
「でも面白い色遣いだな。きちんと仕上げろよ」
「はーい」
里桜がはしゃいだ声を上げていた。