表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君はのぞみ  作者: Mika KUMRINEN
1/4

1、

   1、


 カーテンのかかっていない窓。日差しがまぶしい。

坂井脩一は、家具の類がまだ運び込まれていないがらんとした部屋の真ん中に立っていた。

二週間前、部屋探しで不動産会社の営業マンとここを訪れたときは雨だった。雲は低く垂れこめ、夏の名残りかじっとりと熱気が身体全体にまとわりついてひたらす不快であり、間取りと職場への便ばかりを気にして、窓からの眺望などまったく記憶になかった。だから脩一は、これからの住処となるアパートの二階で引っ越し業者を待ちながら、初めて窓から外を眺めていた。

 部屋は八畳と六畳の1LDK。南東向き。窓辺まで歩み寄ると、すぐそばに梨畑があった。走り幅跳びの要領でなら飛び越えられそうな小川に、細い橋。そして稲田。果てしなく、そういってもいいかもしれない。緑の海。夜はさぞかしカエルたちがにぎやかだろう。電車が駆け抜ける音に目を向ければ、水田の海の中を私鉄電車が走っていた。

 鉄塔。鉄塔、鉄塔、鉄塔。

 前任地もそうだったが、広大な平野には、電力の最大消費地へと、数え切れないほどの送電線が張り巡らされている。視界に狭しと立ち並ぶ巨人のような送電塔が、発電所から消費地へ向かう超高圧送電線だ。背が高く、ひときわごつく、太い電線を吊る腕金もまた、筋肉質なのだ。

 ――あっちが東京か。

 前任地は埼玉県だった。似たような風景だった。水田と、古くからの瓦屋根、生垣をまわした家、バイパス道路に新幹線。そこに、脩一の会社は、国内最大級だと自称する物流センターを建てた。系列会社が展開するインテリア店舗事業は拡大の一途で、やがて国内最大の物流センターのキャパシティは常時百パーセントを超えるようになった。他社の倉庫をいくつも一棟借りし、出入荷効率ががた落ちするにあたり、本部は当地へ新物流センターを建設したわけだ。

 ――今度こそ、本部へ行く。二年だ。

 去年、脩一に物流統括部門への配転の話が出た。本部勤務だ。

新卒で総合職として採用され、系列会社のインテリア販売店でキャリアをスタート、店舗勤務三年を経て物流事業会社に異動し丸六年。在庫管理から配車業務までの知識と経験を得た脩一を、本部勤務の同期の一人が誘ったのだ。

(本部には配車経験者がいないから、その気があるなら、上に話すよ。自己申告書に書いてくれ)

 ――大橋の野郎。

 同期の顔がちらつく。実際脩一は、年に二回機会のある配転希望――自己申告書に、希望する部署名と部署コードをしっかりと記入したのだ。それがどうだ。

(坂井さん、ちょっといいかな)

 埼玉の物流センター――社ではDistribution Centerの頭を取って、DCと呼んでいる――の自動倉庫エリアで、契約社員たちと秋冬物商品の入庫作業のさなか、汗だくの脩一を無線が呼んだ。

 脩一が総合職で採用され、来年で十年。店舗勤務の同期はぽつぽつと店長へ昇進していた。年間二十店舗を越える積極的出店をしているため、店長ポストはインフレ化していたが、物流事業会社は、インテリア用品や家具を宅配する配送センターこそ数が増えていたものの、DCは北海道と関東、関西、九州合わせて七か所に過ぎなかった。所属長クラスのポストはそれだけ少なく、脩一はまだ主任(チーフ)で、さすがに物流センター(DC)マネジャーはまだ身の丈に合わない職位だと自覚してもいた。

上司に別室に呼ばれるのは何回目か。新入社員で店舗へ配属され、その後数店舗を渡り歩いた。DCへ配転を命じられたときも同じように、店長が事務室へ脩一を呼んだ。だから今回も配転の話だろうとすぐに感づいた。そろそろ本部で仕事をさせてほしい――現場を変えたい。

 関東北DCチーフへの異動内示。

 「小部屋」とも「説教部屋」とも呼ばれる小さな会議室のテーブルに向かいあい、DCマネジャー岡崎が脩一に告げたのは、新規開設する物流センターチーフへの配転だった。

(現場作業から配車業務まで経験してる役職者がほとんどいないんだよ。北海道に一人いるんだけど、広域異動をするなら辞めるって言ってるみたいでね)

 まだ店舗勤務を命じられた方が動揺しなかったかもしれない。本部勤務でなければ、関東圏の店舗勤務をしたい旨、自己申告書には書いてあったからだ。それがよもや、新DCのチーフとは。

 断る理由も、また、断る権利も持ち合わせていないから、脩一は、はいわかりましたと内示を受諾した。三一歳、独身。両親ともに郷里で健在。身軽だから、転居を伴う異動でもさしたる苦労はない。六年あまり勤めてすっかり顔なじみになった埼玉・関東南DCの連中と離れるのだけは少々残念だったが、「今度はマネジャーになって帰ってくるからな」と見栄を張れるだけ張って送別会で正体をなくすほど飲んだ。

 居酒屋の喧騒、大宮駅で別れたあいつらの顔。たった数日前なのに遠い記憶のようだ。目の前には果てしない水田と梨畑……。

 のどかだな。

 各駅停車に乗っても一時間かからず上野駅に出られた前任地と比べれば、ここは確実に田舎だった。埼玉からは高速道路経由で二時間以上かかった。脩一の荷物を積んだ引っ越し業者のトラックは午後三時にアパートへ到着することになっている。あと一時間ほど。

 窓を開けてみた。

 緑の匂いがした。チャイムが聞こえた。

 まあいいさ。二年――正確には社が配転サイクルの基準にしている十八カ月――その期間、与えられた職場で、期待を上回る仕事をするだけだ。

 真っ平らな水田地帯と町を鳥かごのように囲う送電塔の群れを見ながら、脩一は、北海道で異動を拒んだという男の顔を思い浮かべた。顔見知りだ。研修や会議で何度も顔を合わせたことのある一期上の調子のいい男。

 地元に固執して、現場もポストもふいにすればいい。

 電車が走る軽やかなジョイント音が耳に心地よかった。


 残業の連続だった。

 物流センターの新規立ち上げは初めての経験だったが、とにかく、各地から集められた社員はまだしも、現地で新規採用になった一般職や契約社員、アルバイトの教育に手を焼いた。埼玉では一言で済んだ指示が、ここでは通用しないのだ。社内でしか通用しない用語は言うまでもなく、物流業界では一般的であるはずの、たとえば作業に使う道具から冶具の類にまで、名前から説明しなければならないというのは、神経がすり減った。

 脩一は早朝五時からの勤務で、商品を倉庫から出庫し、プラットホームへ撒き、管轄する店舗へ商品を積み出してゆく大型トラックの第一陣がセンターから離れていくまでを見届け、疲労困憊して退勤する日々になった。毎週月曜日に提出する週報告書のネタには困らなかったが、三十分程度でまとめるそれらの書類を作成するため、現場を離れて自分のデスクにかじりつき、キーボードを叩くのが苦痛だった。それでも現場の声を届けるツールの一つだとわかってもいたから、できるだけ簡潔に報告書は欠かさず提出した。もちろん現場に呼ばれたときは、即座に席を立つ。声を荒らげるベテラン社員に鍛えられた脩一だったが、自身はそうした現場系の雰囲気には染まらないよう注意していた。近寄りがたい雰囲気をまとわないよう、細心の注意を払った。おかげで、わずかな時間、事務所のデスクでキーボードを叩いていると、脩一の姿を見つけた「だれか」が声をかけてくる。採用されて日も浅い、童顔のアルバイトや、店舗から配属された二年生、三年生社員たちだ。

 そのたび、脩一はキーボードから手を引っ込め、あるいは持っていたペンをデスクに転がして、隣席が空いていれば椅子をすすめ、彼ら、彼女らの相談を聞いた。休憩室でも、カップめんが伸びるのもかまわず、話を聞いた。話を聞くだけではなく、要望があれば詳しく内容をまとめて、上司に提出したし、時折訪れる本部社員にも、改善案、問題提起として報告した。そしてその結果は、是非問わず必ず相談者に伝えた。

 前任地でもそうしていた。

 お人好しチーフ。

 あるいは気の置けない仲間たちからは、「暇チーフ」と揶揄されていた。自分の仕事をそっちのけで、人生相談まがいの雑談にまで応じていたからだ。

 意図してやっていた。人心掌握のため――上司からはそう思われている。半期に一度の勤務考課で上司と面談したときにも指摘された。曰く「君は現場に好かれているようだから」。

 違うのだ。

 それは、脩一に忘れがたい後悔があったからだ。

 ――SOS。

 気づけない人間は気づけない、もしかすると、出している本人ですら気づいていない、あのサイン。

 脩一は、サインに気付いていながら、溺れかけている要救助者に手を差し伸べられなかった。いや、手を差し伸べ、救命艇に引きあげていながら、「もう大丈夫」の一言が言えなかった。その後悔を、脩一はずっと内に抱えたまま生きてきた。だからだ。ふと現場でぽつねんと立ちつくしている社員がいれば、声をかけずにいられない。休憩室で一人、気の抜けたようにして、小鳥がついばむような心細さで菓子パンをかじっているアルバイトを見ると、「今日は何時までのシフトだっけ」と話しかけずにいられない。


 夏の終わりに赴任したとき、アパートのそばの水田は、まだ青々としていた。

 ようやく関東北DCは、安定稼働にめどがつきかけている。現場の作業者たちに笑顔がこぼれ見えるようになった。忙殺されていたときはみんな殺気立っていた。つかみ合い寸前の諍いまであった。いまは違う。「お先に失礼します」と退勤を告げるとき、笑顔が送り出してくれる。更衣室から通用口までにすれ違う現場の人間が、「お疲れさまでした」の声でねぎらってくれる。

ぼんやりと空はまだ明るさを残していて、自分の車のハンドルを握り、敷地から県道へ左折するとき、鮮やかに染まった雲を見上げ、広がる水田の稲穂が深く頭を垂れているのを見、じんわりと身体の中に暖かいものが流れていくのを、脩一は実感していた。

自宅まで県道と路地を走って、平均二十分。まあまあの距離だ。途中、国道のバイパスへ寄り道すれば、全国の地方都市に進出している巨大なショッピングモールがある。買い物も時間つぶしも立ち読みも歯の治療まで、生活のほとんどはそこで足りる。早番シフトだと、定時は午後三時。今日は三十分ほど「雑談」に応じていたが、それでも二時間程度の残業ですんだ。ショッピングモールの並びにあるレンタルビデオ店で新作DVDでも物色しようかと思ったが、身体が疲労を訴えていたから、脩一は県道をそのまま走った。

 土地に慣れて知ったが、この町は、私鉄の駅を中心にした古くからの「旧市街」と、バイパス沿いにここ数年で形作られた「新市街」に分けられる。脩一のアパートがあるのは、甍の波が続き、雑木林と生垣、路線バスが軒先を掠めて走るような細さの路地が入り組む「旧市街」だ。町はずれに巨大な変電所があり、電力会社の整備した公園や、建て売りらしい戸建の住宅が並ぶエリアもあるが、前任地の埼玉の雰囲気をさらに濃く田舎風に色づけした、といった風情で、地方都市とはいえ人口五十万人を抱えた都会育ちの脩一には、新鮮に映る町並みだった。

 スピードメーターとタコメーターに並ぶデジタル時計は二分進んでいるが直していない。時計は進んでいても不都合はない。午後三時四七分。

 脩一はギヤを三速に入れて、アクセルペダルに右足を載せている程度。歩道など申し訳程度の県道は狭く、いまの時間帯はちょうど中学校の下校時間帯に当たる。

 学生服、セーラー服。紺色と、白色。

 この町の中学生たちは、自転車通学の子も、徒歩通学の子も、重そうな白いヘルメットをかぶり、やはり重そうな水色の通学カバンを背負っていた。

 雑談。

 人心掌握。

 ――違う。

 信号で止まる。横断歩道を、じゃれあうようにして、セーラー服姿の女子中学生が三人、笑顔で過ぎていく。あどけない横顔。白いハイソックス、白い運動靴。脩一が育った町と似たような、地味で垢抜けない制服姿。

 信号が変わる。クラッチペダルを踏み込み、ギヤを一速へ。ふとすぎる交差点、信号待ちをしている女子中学生が目に入った。一人、うつむき加減に、ぽつりと立っている姿。

 SOS。

 自分は間違いなく、気づいていた。荒れた海に放り出された要救助者の手をつかんで、救命艇に引きあげていたはずだった。冷えた身体を温め、衰弱した心にかけるべき言葉も持っていたはずなのに。

 脩一はラジオの音量を上げる。三速。この車は燃費が悪い。入社三年目、貯金をすべてはたいて頭金にし、買った車だ。距離の浅い中古車だったがもう七年目。次は新車にしてみようか。あの頃よりは貯金だってある。独身で恋人もいない自分は、酒も飲まず煙草も吸わず、金のかかる趣味もなく、毎月、預金残高は増える一方なのだ。

 そういえば。

 転居の知らせを送った地元の友人から、子どもができたとメールが届いていた。二年前の結婚式、新郎新婦満面の笑みで、次はお前の番だからなと無責任に言われた。脩一は苦笑で応じるのみで返答はしなかった。

 県道から細い市道に入り、コンビニエンスストアの前を抜けて左折すると、袋小路の突きあたり。駐車場は舗装されていないがきっちりと整地され、駐車場を囲むように、ふた棟同じ造りの二階建てアパートと大家の住む母屋と、大家が営む床屋が建っている。エンジンを切り、車を降りる。ふた棟のアパートの隙間から、水田が見えた。不動産会社の担当が真っ先に案内してくれたここは、思えばかなりの掘り出しものだった。家賃は相場からすると相当に安い。だがアパートの築年数もさほど古くなく、間取りもよかった。衛星放送にブロードバンド。そして大家は面倒見のよさそうな老夫婦だった。

 外階段を静かに上がる。午後四時に少し前。日が短くなってきたな、そう感じる。部屋の鍵を開けて入ると、少し暑かった。西日のせいだ。

 埼玉時代に系列会社の店舗で揃えたソファ、センターテーブル、めったに使わない二人がけの食卓テーブルと椅子。赴任手当をつぎ込んだ三七インチのテレビ。当地への赴任に合わせてカーテンは自分で採寸したが、イージーオーダーにする必要もなく、既製品で間に合い、丈詰めもいらなかった。

 カバンをソファの上に放って、冷蔵庫からペットボトルのコーラを取り、グラスに注がずラッパ飲みをした。強い炭酸が喉で暴れて気持ちがいい。ついこのままソファに転がりたくなるが、そうすると夜まで二度と立ち上がれなくなるのはわかっていた。冷蔵庫の食料は朝食で使い果たしていたから、夕食を調達しなければならない。帰宅して一度も座らないまま、脩一は玄関でスニーカーに足を突っ込み、部屋を出た。

「あ」

 出会いがしらに、制服姿の少女と鉢合わせになった。セーラー服に白いヘルメットをかぶり、重そうな通学カバンを背負っている。

「あ、こんにちは……」

 か細い声であいさつされた。隣の部屋に住んでいる少女だ。制服の胸に縫い付けられた名札が見えた。学校名のプリントと几帳面そうな字で書かれた「2年1組 立原玲奈」。そう、隣の部屋は立原さんといったっけ。

「いま、学校帰り?」

 制服姿でいるのに間抜けな質問だなと脩一は苦笑しかけたが、玲奈は脩一からやや視線をはずして、こくりとうなずいた。

「お疲れ様」

 かけるべき言葉が見つからず、脩一は職場でするような無難なあいさつを選んだ。

「いえ、どうも……」

 玲奈は視線を外したまま、深々と頭を下げた。華奢な首に白いヘルメットが重そうだ。そのヘルメットがやたらと傷だらけなのが目についた。おとなしそうな少女なのに、扱いが乱雑なのだろうか。

「じゃあね」

 足止めしても気の毒だし、そもそも用事もない。脩一は短く言うと、歩を踏み出した。

「あ、はい」

 玲奈がまた頭を下げた。変わらずか細い声だった。玲奈はスカートのポケットから鍵を取り出して自分の部屋のドアを開けた。そのとき、すれ違いざま、玲奈からふっと懐かしい匂いがした。意識せずまた少女を見た。背負ったカバンは教科書やノートで膨れてかやはり重そうだったが、やけにくたびれて見えた。見れば玲奈の制服も、中学二年生にしては着古された感があった。ふと、記憶がよみがえった。

 教室。席替え。初めて隣の席になったあの子。くたびれた制服、か細い声。

 胸の奥に疼痛を覚えた。玲奈はもういない。西日。水田。電車の走る音。

 教室のイメージは霧散し、午後四時の現実が戻る。

 脩一はアパートの外階段を静かに下りた。

 それにしても――ほど近い私鉄駅そばの小さなスーパーマーケットへ歩きながら脩一は玲奈を思う。あのアパートは単身者向けのはずだ。1LDKに家族で住んでいるのだろうか。くたびれたセーラー服に通学カバン、傷だらけのヘルメット。けれどそうした服装に似合わない玲奈の整った顔立ちは、脩一の遠い記憶の糸を強引に手繰り寄せようとするのだった。


 月曜日は緊張する。

「おはようございます」

 事務所に入ると、内勤社員の中原涼の寝ぐせ頭があった。総合職採用。店舗勤務二年を経て、脩一と同時に着任した三年生社員だ。留学経験があるという秀才らしいが、まだその能力を発揮できていないのは自他ともに認めるところで、脩一にしてみると、やる気が空回りしているだけに見える。そのうち本人も気づく。だからあえて言うことはない。

「おはよう中原さん」

 脩一はターミナルで勤怠カードを切り出勤、会社支給のスケジュール管理ノートしか入っていないカバンを置くと、内勤セクションの島へ向かった。事務所は管理職の島と内勤の島があり、さらに部屋の半分は配送センター事務所に分かれていてなかなか広い。

「今朝のサマリー、どう?」

 事務所のパソコンすべてには業務ツールがすでに起動されており、さらに中原のデスクのパソコンは、配車管理画面になっている。

「あんまり跳ねなかったですね。先週の既存店売上、予算比九五パーセント。前年比九七パーセント。物量予測には近いと思うんですけど」

 前任地では脩一がやっていた出荷物量予測を、ここでは中原に任せていた。

「週末寒かったから、秋冬(AW)伸びてくるかなと思ったんだけどね」

「伸びなかったですねぇ」

 中原はマウスを操作し、配車画面をクリックした。管轄する店舗名が方面別に並んでいる。店舗コード、店舗名に並んで、日曜日最終で各店舗が補充をかけてきた商品の物量が立法メートル(CBM)で表示されている。思ったほどではなかった。これなら、今日の出庫作業で、みんなにべらぼうな残業を強いなくても行ける。確保していた搬入トラックも不足は出ないだろう。

「出庫バッチ起動は時間通り?」

 腰をかがめて脩一は中原の隣で画面を覗き込む。

「大丈夫です」

「ホームナンバーチェック、今日は入谷さんに頼めよ。あと、白コマ見逃すなよ」

「……わかりました」

 中原がごくりと息を飲んだので、脩一は安堵して彼のデスクを離れた。先週の月曜日、出庫指示書に本来割り振られるべきプラットホームナンバーを、中原は間違えた。作業工程的には二次チェックに第三者が入るが、先週は一般職の西出麻里に任せた結果スルーされ、リカバリーに三十分を要した。たとえば内勤二名が三十分作業を遅延させると、出庫作業に携わる百人が三十分遊ぶことになる。すさまじいロスだ。中原はやる気が空転してケアレスミスを多発させる傾向がある。そして西出麻里は内勤事務では要領よく仕事をこなすが、去年の三月に高校を卒業して一般職採用、事務所でテンキーをひたすらタイプし続け、物流業務に関しては素人も同然だ。

 脩一は自分のデスクのパソコンを立ち上げながら、中原の様子をうかがった。手元には自作らしいチェックリストを広げている。それでいい。慌ててミスをしてリカバリーに時間をかけるより、多少手間をかけても、ここでしっかりするんだ。西出麻里は先週分の各種数値入力を始めていた。中原のデスクに並んで、前職も物流関連会社の配車管理だったという入谷正人が別方面の配車作業をやっている。中原は二六歳、入谷は二八歳だ。

「よう、暇チーフ」

 声に振り向くと、アシスタントマネジャーの吉井が眠そうな顔をしていた。

「吉井さん、早いですね。今日早番でしたっけ」

「求人のやり直しさ。先週三人辞められた」

 ため息交じりに、吉井がデスクについた。

「そんなに?」

「一人なんて、休憩時間に行方不明になりやがった」

「聞きましたよ。さんざん探して電話したら、自宅にいたとか」

「きついのはおれもわかるんだけどね。それだって、一言あってもよさそうなもんじゃないか」

「おれも、最初に配属されたときは、三ヶ月くらい、毎日『明日辞めよう』って思ってましたよ」

「そんなにきついか」

「きついのはおれもわかるって、吉井さんいま自分で言ったじゃないですか」

「おれは少なくとも、辞めようとまでは思わなかったからな」

 吉井は早くも頬杖をつき、引き出しから新たな採用関連の書類を取り出して、本部へ提出する稟議書の草案を作りはじめていた。脩一は自身が作成する報告書の画面を開き、スケジュールノートに書きつけてある先週のトピックスと、それらを裏付ける数値集計を始める。吉井も自分も同じだ。人が足りないから求人を出したいと言って、はいそうですかと本部は言わない。すべてに数値の裏付けがいる。

 中原と入谷が話す声が耳に届く。入谷は作業が早く正確だから、電算的に出庫指示をかける一歩手前まで自分の配車作業を終わらせて、中原の進捗を見ているのだろう。たぶんにパズルの要素も強く、トラックの割り振りから出荷プラットホームの使い方まで、配車業務はセンスも求められてくる。中原はまだそのコツをつかんでいない。だが、そのコツとやらを数値化できるだろうか。やれと言われればやる。が、作業者のモチベーションを数値ができるだろうか。

 作業者たちのSOSはどうだ。

 そうしたものは見えないのだ。SOSが聞こえたときにはもう遅い。数値の裏付けは、作業効率として出すこともできるかもしれない。著しい効率低下がみられるセクションには、特定の作業者の手の遅さを見つけられるかもしれない。でもそれすら、現場に出て、声を、表情を拾わなければ、手を抜いているのか、一所懸命なのにうまくいっていないのか、適性の問題かは分からない。

 なんでもかんでも数字遊びさ。

 同じチーフで二期上の和久井がいつかぼやいていた。物流畑一筋で、デスクよりも現場が似合っている男だ。

 和久井さん、おれも思いますよ。机にかじりついて数字ばっかりいじくりまわしても、声は聞こえないし、顔も見えないんですよ。

 そう、脩一は、あの頃、いまも癒えない傷を負った。――相手にも傷を負わせた。

 ほどほどにしとけ。

 週報告書の作成に拘泥する社員が多すぎると、本部での会議でゼネラルマネジャーが言っていたことを、自分の都合のいいように反芻してみる。そう、こんなものに半日もかけていられない。そんな時間があれば、1フロアでも、いや、1スロットでも多く、倉庫エリアを巡回する。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ