神様なんていない
――どうか、神様。
林を掻き分けて走りながら、ニナは祈っていた。後ろから飛ぶ怒号に身をすくませながらも、立ち止まるわけには行かなかった。
人もまばらになる夕暮れ時、街外れでゴロツキと出会ってしまったのが運のツキだ。
それでも一人ではないのが救いだった。ニナは力強く握られた自分より一回り大きな手を見つめる。視線に気づいたのか、年上の少年が息を切らしながらニナに微笑みかけた。
「ニナ、疲れたよね?」
「大丈夫だよ、キリトにいさま」
本当は走り続けて体力の限界だったが、これ以上キリトの足を引っ張ってはいけない。キリトはニナがいなければもっと早く逃げられるのだ。
ニナが無理しているのがわかったのか、少年は眉をハの字にした。
「僕が背負えれば良かったんだけど」
ニナはゆるりと首をふる。十四歳のキリトに九歳のニナを背負うなんて無理だ。
私は大丈夫、と繰り返そうとした時、枝に足を取られて転んでしまった。
「っニナ、立てる?」
「うん……!」
「いたぞ、あそこだ――!」
二人は揃ってビクリと体を揺らした。ゴロツキはもうすぐそこまで迫っている。
「ニナ」
キリトが覚悟を決めた目でこちらを見下ろしている。
「ニナ、よく聞いて。僕が」
「嫌!」
ここで駄々を捏ねたって何の解決にもならないことはわかっている。それでも、その続きを許すわけにはいかなかった。
でも。
キリトが優しく笑う。こんな表情をする時の彼は、梃子でも動かないことを知っている。そして、ニナを甘い言葉で言いくるめるのだ。全部知っている。何年一緒にいたと思っているのだ。
「ここに隠れていて」
「嫌だ、嫌だよ」
「大丈夫、先に街に行って助けを呼んでくるよ」
「それなら私も一緒に行く!」
「僕の方が足が速い」
そう言われてしまえば、ニナはもう何も言えない。それに、と彼は言葉を続けた。
「大丈夫、僕は君より五つも年上なんだ」
そうやって笑う少年の姿も涙で見えない。ニナは少年に抱きついた。
「ちゃんと帰ってきて。帰って来なかったら許さない!」
「うん」
キリトは、ニナの頭を撫でて、近場にあった大きな木の影に小さなニナを隠した。
「ここで百――千を数えて。数え終わるまで出ちゃだめだよ」
「帰ってきてね」
「君がちゃんと数を数えたらね」
ニナが念押しすると、キリトは悪戯っぽくそう言った。別れの言葉もなく、彼は走り出す。ここからでは彼が走り出した方向は見えない。
「いち、に、さん、し……」
夢中で数えて、襲ってくる不安を振り払う。少しでも間を開けると、口から嗚咽が漏れてしまいそうだった。
――神様。
「きゅうひゃく、きゅうひゃくいち」
キリトはまだ帰ってこない。数えるのが早かったのかもしれない。ニナはゆっくりと数えるようにした。
――神様、お願い。
「きゅ、きゅうひゃくきゅうじゅうきゅう、せ、せん……」
ニナはすっかり辺りが暗くなってからやっと数え切った。
「ねえ、千、数え終わったよー……」
自分の声が林に虚しく響く。
キリトは帰って来なかった。
◇
ニナは酒の入ったグラスをどん、とテーブルに置いた。
「……ねえ、ミヤ。その子って……」
「あらニナ、どうかしたあ?」
ニナがじろりと睨めつけてやっても、目の前の女――仕事仲間のミヤには、気にした風もない。それどころか、猫のようににんまりと笑んでみせる始末だ。
こちらの言いたいことが分からないはずもないだろうに、相変わらず食えない女である。
「オークションで買った子?」
酒場の喧騒にまぎれさせて、ニナは鋭い声を発した。ミヤの側には一人の女の子が静かに控えている。猥雑な酒場なんて似合わない年頃の子ども連れ……どう見たって訳ありだ。
この街でオークションと言えば、それは人身売買や盗品が集められた闇オークションのことだ。まともな治安なんてあったもんじゃない。都から遠く離れたこの街の警備隊は、中央都市の監査の目が届かないことをいいことに、腐敗し切っている。
思わず眉を顰めたニナを前にしても、ミヤは全く悪びれなかった。
「そうよお、可愛いでしょお」
「悪趣味な」
「あら別にひどいことはしてないわよお?」
「当たり前よ」
ニナは吐き捨てるように言った。
ちらり、とミヤの側付きの少女を見やる。確かに、こちらに興味がないのか一言も発さないが、血色は良く傷も見当たらない。
ミヤが買わなかったとしても別の人でなしが商品を買う。それならば、危害を加えないミヤに買われた方が、この少女にとってはマシかもしれない。そう頭ではわかっていても、上手く割り切るには嫌な思い出がありすぎた。
眉を顰めるニナに、ミヤがわかってるわよお、と笑った。
「ニナ、オークション嫌いだもんねえ」
好きなわけがない。ニナにとって嫌な記憶ばかり思い出させるもののことなんて。
キリトは、美しい容姿と聴く者を昇天させる歌声に。
ニナは、ルビーのような瞳と新雪のような真っ白の髪に。
勝手に価値を見出されて、オークションにかけられたのだから。
◇
ニナの最初の記憶は、オークションにかけられた場面から始まる。幼いニナは、ステージの上で多くの人間の目に晒されていた。身なりだけはご立派で、中身はどうしようもないクズどもの視線に晒されて、ニナはぼんやりと自分の値段が決まって行くのを眺めていた。
最も高い値段を提示した男が、ニナを『飼う』ことになった。男の屋敷へ向かう馬車に揺られながら、ニナはやはりぼんやりと外を見つめた。
屋敷での生活は楽なものだった。
物言わぬ大人しいニナは、屋敷で働く大人に可愛がられ優しくしてもらえた。「いい子ね」「そのままでいてちょうだい」と誰もがニナにお人形のままでいろ、と言った。――キリト以外は。
「ニナ、我儘を言う練習をしようか」
屋敷には、ニナより前から飼われている男の子――キリトがいた。キリトは、濡羽色の美しい髪と宝石のような翡翠の瞳、そして小鳥のように美しい声でニナを魅了した。彼はニナに色んな質問を投げかけた。
「ニナの嫌いなものは何?」
「好きなものは?」
「僕にして欲しいことはある?」
最初のうち、ニナは困ってしまった。ニナにしたいことなんてなかったからだ。与えられたものを受け入れるだけの人生だと、幼心にわかっていた。固まるニナにキリトは根気よく聞き出した。大人達の笑い声が嫌い、甘いお菓子が好き、キリトに子守唄を歌ってほしい――。
そうやって我儘を言えば、キリトはいつだって叶えてくれた。ニナが眠るまで側で美しく優しい歌声で、子守唄を歌った。
ニナは、少しずつ笑ったり泣いたりするようになった。時には癇癪を起こして、キリトに甘えた。全てを諦めてぼんやりと過ごすより、何倍も楽しい時間だった。
可愛いドレスを着せられて、豪華なお菓子を食べて、キリトとお喋りをする。
歪つな大人からの視線を見ないようにすれば、幸せな時間だと言えた。
しかし、何も知らないふりなんて長く続くはずがなかったのだ。
逃亡の前夜、九歳になったニナの部屋を屋敷の主が訪れた。突然組み敷かれて、ニナは動けなくなった。
――とうとうこの日が来てしまった。
そうして、以前までのように諦めようとして、キリトのことを思い出した。
キリトは、ニナにもっと我儘を言っていい、と言った。嫌なものは嫌と言っていいんだと。ニナはお人形じゃないと、キリトに教えられたのだ。
――嫌だ、嫌だ、嫌だ!
感情を露わにして、半狂乱になって暴れたニナは、やがて解放された。次はない、とこれまでニナを甘やかしてきた人間達に折檻されて、地下牢に入れられた。
「ニナ」
キリトが、地下牢まで食事を持ってきた時、ニナはわんわんと泣いた。先ほどまでの恐怖とキリトに会えた安堵で。
キリトは檻越しにニナの頭を撫でた。束の間、折檻された痛みも忘れて、ニナは微睡んだ。
そうして自制心が緩んでしまったニナは、人生で最大の我儘をキリトに告げた。
「逃げたい」
彼は、いつだってニナの願いを叶えてくれる。
一緒に逃げよう、と頷いた彼の手には、地下牢の鍵が握られていた。
しかし、世間知らずの子どもが二人、逃亡劇が成功するはずもない。
追手を躱そうと人気のない道を選んだのが間違いだった。
薄暗がりで出会ったゴロツキは、舌なめずりしそうな顔でニナとキリトを見て、呟いた。
「オークションに出せば金になる」
脱兎のごとく二人は逃げて、逃げて、そしてニナは助かり、キリトは捕まってしまった。
一人になってしまったニナは、泣きながら街へ出た。
信頼できる大人なんて今も昔も存在しない。そんな中、身寄りのない訳ありの子供がとれる選択肢は限られている。
身を売るか、他人から奪うか。
ニナは奪うことを選んだ。皮肉にも、あの日、ニナから大切なものを奪ったゴロツキと同じ選択をしたことに失笑が漏れる。
◇
そこまで考えて、ニナの意識は酒場に戻ってきた。
オークションが嫌いか?
そう聞かれれば、答えは一つしかない。
「オークションなんて、嫌いよ。大嫌い」
オークションによって、ニナは運命を歪められた。キリトと離れ離れになった。
固い表情でそう繰り返すニナに、ミヤはふうん、と興味深げな顔をした。
「でも、仕事の話ならどお?」
「どういうこと?」
「オークションを襲うのよお」
言葉足らずなミヤの話に、首をかしげる。だからあ、と彼女は前のめりになった。
「次の新月の日から二晩続けて、大規模なオークションがこの街で開催されるのよお!」
「うん」
「オークションにいるのは金持ちばかりでしょお。私は好みの子を持ち帰れるし、私以外は金持ちから奪えばいいじゃなあい! ウィンウィンってやつ?」
「なるほど」
盗賊として、損得を素早く計算する。警備員の目を掻い潜るリスクと、オークションを襲って得られるもの。
――後者の方がでかそうだ。
「やる」
「やったあ!」
ミヤは、嬉しそうに拳を振った。
「じゃあ、ここは私が奢るわよお! じゃんじゃんお酒頼んじゃってえ!」
「え、要らない」
ミヤは、ニナの静止も聞かず、大量の酒を注文した。
「あらあ、お子様だから飲めないのかしらあ?」
煽るミヤにむっとして言い返す。
「お子様じゃない」
ニナは十四歳だ。この街ではもうお酒の飲める年齢になった。
キリトがいなくなってから五年。別れた時の彼と同じ歳だ。
――彼は、きっとどこかで生きている。
それはニナの願望も含まれているが、ある種確信もあった。ニナもキリトも『特別な』人間だ。きっと、生きて、ろくでなしのもとで飼われているのだろう。
――でも、今日も空振りだった。
酒場に来る前に寄った情報屋の申し訳なさそうな顔を思い出す。
キリトに会う資格はない。でも、いつか、彼が見つかったら。生きている彼をひっそりと見に行くくらいは、許されるだろうか。
◇
ミヤは、すーすーと寝息を立てるニナを慈しむ。
「やっぱりお子様じゃない。可愛いわねえ」
ミヤは、可愛らしい女の子が好きだ。もちろん、危害は加えない。ひたすら、側で愛でるだけだ。以前、ニナに盗賊を辞めてうちに来ないか、と誘ったことがある。その時の彼女の言葉を思い出す。
――私が幸せになってしまったら、彼に顔向けできない。
そうして、苦しいような、愛おしいような表情で微笑んだのだ。ミヤが思わず見惚れてしまうほどの笑顔。
ミヤは見てみたい、と思ってしまったのだ。過去に囚われすぎているこの少女は、笑顔なんて滅多に見せない。涙にいたっては見たことがない。鉄仮面のニナにそんな顔をさせてしまう人を。
「一体、どんな人なのかしらあ……?」
◇
月のない夜、外道な祭りは主催者の屋敷で行われる。正面口には絢爛豪華な装飾が施され、宵闇の中でも輝いているように見える。屋敷の中心部には主催者の暮らす棟があり、北の方には古びた塔が聳え立っている。今回、オークション会場になっているのは、屋敷の南の方にある別棟のようだった。そこに集まるのは、富を持て余した権力者と哀れで弱い生き物。
そして、今夜はどちらでもない人間が三人。
「さあ、可愛い子ちゃんたち待ってなさあい!」
「ちょっとそのテンションで突撃するつもり!?」
正面から入ろうとするミヤを羽交締めにして止める。振り返ると、長身の男が腹を抱えてケラケラと笑っている。
「見てないで手伝ったら?」
「ごめんごめん」
彼は目尻に浮かんだ涙を拭う仕草をした。本当は涙なんて出ていないくせに、「ここまで面白かったですよ」という彼のパフォーマンスだ。意地の悪い男である。
「ケイも来たんだ」
「ああ、面白そうだからね!」
「ケイらしいね」
ニナは、今夜の面子に不安を覚えて頭を押さえた。
「大丈夫かな……」
「やだ、心配ないわよお」
「お前が言うなってー!」
ニナは、またケラケラ笑い出したケイと頬を膨らませたミヤの首根っこを掴んで、目立たない場所から建物の中に侵入した。
「さてと、大体めぼしい物は盗ったかな」
「さっすがニナ! 俺出る幕なかったね」
ケイは、感心した、と言うように肩をすくめた。客を襲えばすぐに騒ぎになる。ここを訪れるろくでなし達は、ボディーガードと従者と常に行動するからだ。
しかし、控室で荷物を盗むだけならば、警備員を一人ずつ潰していけば存外簡単なことだった。
「……まあ、この道長いから」
「そんな職人みたいな……」
彼の憐れんだ表情を初めて見た。強引に話題を変えられる。
「……あーそろそろ行く? ミヤの方も片付いたんじゃないかな」
「そうだね、そろそろ……」
「ニナ、しっ!」
ケイに口を封じられると同時に、近くの棚の影に押し込まれる。
何事だ、と思ったその時、扉がキィ――と開く音が聞こえた。
――誰か戻ってきた。
今はオークションの真最中のはずなのに、なぜ。
「今回のオークションはハズレだな」
「ああ、良い商品がない」
どうやら、オークションが退屈で途中で退席したようだった。
「これでははるばる遠方から来た意味がない」
「明日があるじゃないか」
そう、大規模オークションは二晩続けて行われる。最初の晩よりも次の晩の方が高価な商品が多いのだ。
――その分、警備も今日より厳重だが。
彼らの会話は続く。
「特に、今回の目玉商品には期待できる」
「たしか、類稀な美声を持つ小鳥だったな、男の子の」
その言葉が聞こえた瞬間、ニナは心臓が飛び出そうになった。
「所有者がとうとう手放した」
「一度奴の屋敷で見たことがある。天にも昇る美声だった。でもそろそろ高い声はキツそうだったなあ」
「もう十八、九くらいだろう。仕方ないさ」
ニナは思わず口を抑えた。必死に力をこめなければ、悲鳴が漏れてしまいそうだった。十八、九の歌声の綺麗な男の子なんてたくさんいる。
でも。
――もしキリト兄さまが生きていれば、十九歳だ。
ニナが呆然とするうちに、部屋に入ってきた客は用事が済んだようで出て行った。ケイはふう、と息を吐く。
「危なかったなあ、ニナ」
「早く助けなきゃ……」
「は?」
「ああ、でも本当にキリト兄さまかはわからない。そうだ、兄さまは黒髪に緑の瞳をしていた。さっきの人達を追いかけて――」
「いやいやどうした? 俺たちはまずこの荷物を」
「そんなものなんて、どうでもいい!」
「何言ってるんだ。盗賊のニナ」
今にも部屋から飛び出そうとしていたニナは、雷に打たれたように動きを止めた。ケイの感情の消えた瞳を見て、冷静さが戻ってくる。
そうだ。私は盗賊のニナ。客を追いかけたところで、自分が捕まるのがオチだ。
「落ち着いたか? 撤収するぞ」
「わかった」
――そうだ。履き違えちゃいけない。
私の仕事は他人のものを奪うことで、誰かを救うことじゃない。
◇
次の日、ニナは外に出る気にならなくて、昼頃まで家の中にこもっていた。その時、玄関のドアをコンコン、と叩く音がする。ニナは、ドアに向かって尋ねた。
「どちらさま?」
「はあい、私よお」
甘く語尾を伸ばす声が聞こえて、無視しよう、と決めた。
「やっだ、無視するつもりい!?」
「……」
「ニーナー!?」
「……」
「ニナちゃあん! 入れてくれなきゃ破壊するわよお」
ニナは急いでドアを開けた。ミヤの特技は怪力だ。安アパートのドアくらいひとたまりもないだろう。
「あら、元気ないじゃなあい?」
「あんたはいつも元気ね」
ドアを開けるなり、不躾な声を浴びせられて、ニナはチクリと嫌味を言った。
「やだあ、羨ましいのお? なんなら今からうちに来てくれても」
「行かない」
「なんで?」
それは、もう一度ミヤに説明したはずだった。
「……前にも言ったでしょ。今は盗賊やっていたいの」
「『私は幸せになっちゃいけない、顔向けできなくなる』だっけえ?」
「……よく覚えてるじゃない」
「私には『会いたい』に聞こえたけどねえ」
「は?」
予想外の台詞に言葉を失う。
「次会う時のことを考えてるから、『顔向けできない』のよね?」
違う、という言葉が喉から出かけて止まった。ニナは、会うつもりはなかった。ただ、もし、あの世でも何十年後でも、いつか会う日が来るなら――。そんな「もしも」を捨てきれなかった時点で、「会いたい」と言っているようなものだ、と気づいてしまったからだ。
「手掛かりが見つかったんでしょお?」
したり顔でそんなことを言われる。情報源は一つだ。
「ケイのお喋り」
「あらあ、喋って欲しくなかったのお? 探すんでしょお」
「だって、私は彼の代わりに助かって」
「ふうん」
「そもそも話にあった子がキリト兄さまかわからないし」
「そうねえ」
「それに……」
「ああ、もうグチグチうるさあい!」
ピッ、とミヤはニナの前に紙切れを差し出した。
「ここに今夜のオークションの時間と目玉商品の特徴が書いてあるわあ」
ミヤはシンプルな二択を突きつける。
「知りたいの? 知りたくないの?」
――そんなの。
「知りたいに決まってる!」
――でも。
「でも、怖い!」
ニナは悲鳴のように叫ぶ。
「今回も見つからないかもしれない。彼じゃなかったら、私はまたがっかりしなくちゃいけない」
不安が堰を切ったように口から飛び出す。
「見つかったとしても、彼は私を恨んでるかも。ううん、絶対恨んでる。それに、盗賊をやってる私を軽蔑するかもしれない」
「うん、そ・れ・で・?」
ミヤは、ニナに全部吐き出させた。その上で、最後はお前が決めろ、と突き放す。
――一つ一つ、身勝手すぎる不安を吐き出して、最後に残ったものは。
「それでも、彼に会いたいの」
気づけば、熱い雫が頬を伝っている。あの日以来、初めてのことだった。
「お願い、私に協力して……!」
よくできました、と言ってミヤは微笑んだ。
◇
――神様なんていない。
あの日、九歳のニナは思い知った。
――神様なんていない。
だから、十四歳のニナは欲しいものは自分で手に入れるしかないのだ。
ニナは、酒場の喧騒の中を進む。ミヤが隣に来て声をかける。
「ニナ、ケイや他の盗賊仲間を集めたわよお」
「ありがとう」
昼頃、ミヤがもたらした情報から、キリトと今夜の目玉商品の特徴が一致していると分かった。そうと決まれば、やるべきことは一つだった。
ニナは、十数人の盗賊たちが集まった卓の前に立ち、彼らの注目を集めた。
「私に力を貸して。どうしても、盗みたいものがあるの」
「いいわよお」
ミヤがすぐに同意してくれる。他にも、ニナに借りがある者はちらほらと。だが、ここで簡単に頷くような優しい人間は少数派だ。
「報酬は?」
場に緊張感をもたらしたのは、ケイだった。口は笑っているが、目は笑っていない。ニナを値踏みするかのように、真っ直ぐ視線を向けている。
ニナは余裕を見せるように口端を引き上げた。
「今夜の狩場は高額のオークション会場。私が欲しいものはたった一つ。それ以外なら好きに持って行っていいわよ」
――私は善人じゃない。盗賊は盗賊のやり方でしか生きられない。
ケイの瞳が弧を描いて、合格、というように頷く。
「乗った」
◇
オークション会場である屋敷の門の前で警備をするコーシは、欠伸を噛み殺した。隣に立つ先輩が、目ざとく見つけて注意してくる。
「コーシ、警戒を怠るな」
「だって、正面から何が来るっていうんですか」
この街の警備隊は腐り切っている。オークションの主催者が長官に賄賂を渡しているため公然と開催を身逃されているのだ。
つまり、オークションを狙うのは正義の味方ではなく、盗賊などの後ろ暗い奴らばかり。そんな連中が、正面からやって来るわけもない。この屋敷には、門、別棟、塔、主催者のいる棟と警備する場所があるが、最も狙われにくいのが、屋敷の正面に位置するこの絢爛豪華な門だと言えた。
「それに、盗賊たちは昨夜来たじゃないですか? さすがに二日続けてはないでしょう」
「まあ確かに、そうだな」
「そうですよ」
そうだそうだ適当に働こうハッハッハッ、と顔を見合わせた時、正面口から大きな爆発音が聞こえた。
――ドン!
「まさか」
コーシと先輩は正面に向き直り、煙がもくもくと立ち上る中、こちらに駆けて来るいくつもの人影を見た。
先頭を走る男が煙から抜けて、姿を現す。
「さて、行こうか」
長身の男が、ヘラリと笑った。
◇
「皆、上手くやっているかしらあ」
「きっと大丈夫。ケイに指揮をお願いしたし」
それもそうねえ、とミヤは顎を引いた。
ニナ達が考えた作戦はシンプルなものだった。ケイ達が正面口で騒ぎを起こし、その隙にニナとミヤで目当てのものを盗み出す。
「私達も行こう」
「はあい」
――五年前は私が助けられた。今度は私が、あなたを助ける。
騒ぎを起こすのはケイ達の仕事だ。ニナとミヤは、できるだけ見つからないように会場の最深部へと向かう。
ミヤはオークションの常連客だ。目玉商品がどこで保管されるのかをよく知っていた。
――塔に、キリト兄さまがいる。
「何をしている!?」
屈強な警備員が二人、塔の扉の前を守っている。
ニナとミヤは、同時に男達の懐に飛び込んだ。ニナは、男が怯んだ隙に足払いをかけ、扉の前に躍り出た。後ろから、ミヤの余裕そうな声が聞こえる。
「ふふふ、ここは私に任せてくれていいわよお」
「ありがとう!」
無事にニナが塔に入って行くのを見届けて、ミヤは起きあがろうとする男を踏みつけた。
「可愛くない男って、優しくしなくてもいいから助かるわあ」
◇
ニナは階段を一人で走った。閉鎖された塔の中は、光が入らない。暗くゴールの見えない空間に、カツン、カツン、とニナが床を蹴る音だけが響き渡っていた。
――兄さまは、きっと恨んでいる。
一度は蓋をした不安が、顔を出した。
恨まれている、と思うのはニナの中に罪悪感があるからだ。
ニナは、ずっと後悔していた。キリトを行かせなければ良かった。どうせ逃げきれないのなら、二人で捕まれば良かった。ここで待っていろ、と言われても、言うことを聞かずに追いかければ良かった。
――ただ大人しく待つだけではなく、自分から迎えに行けば良かったのだ。
人形のように待つだけの人生じゃ幸せになれないと、他でもないキリトが教えてくれたことなのに!
無力なニナは、邪悪な大人を、理不尽な世の中を、神様を呪った。でも、本当は誰よりも自分を責めていた。
ニナは、首を振って雑念を振り払った。
――迷うな!
恨まれたって、罵られたっていい。今は、ただひたすらに、彼に会いたいのだ。
不安を無理やり押し殺して、長い長い階段を抜ければ、ぽつん、と一つの扉があった。
ニナは呼吸を整える。
ひんやりとしたドアノブに手をかけて、ゆっくりと回した。
その人は、無機質な部屋でベッドに腰掛けていた。両脚には鉄製の枷が嵌められている。それなのに、まるでそれが錯覚かと疑うほど、清廉な空気を纏った青年だった。
彼の翡翠の瞳が、ゆっくりとこちらを向く。
「ニナ……?」
彼は――キリトは、一目で扉の前に立ち尽くす少女をニナだと看過した。ニナの記憶より少し低いが、間違いなくキリトの声だ。
ニナは、助けにきたよ、と言おうとしたのに、一言も発せず、ただ涙を流していた。
「ニナ? 本物かい? 顔をよく見せて」
求められるまま、ふらふらと近づく。キリトは、ニナの両頬に手を添え、涙でぐしゃぐしゃになったニナの顔を引き寄せた。
「ああニナだ」
大切なものを見つけたかのように、キリトが目を細めるのを見て、五年越しに、ニナはやっと言葉を紡いだ。
「兄さまが、遅いから、迎えに来たの」
涙が邪魔で上手く喋れなくて、ニナはつっかえながら懸命に話した。
「まだ兄さまって呼んでくれるんだ。嬉しいな」
そう言って、キリトは本当に嬉しそうに笑った。
「私のこと、恨んでない?」
「恨む? どうして」
心底不思議そうな顔をするキリトに、ニナは震える声で付け足す。
「私だけ助かったこと、恨んでない?」
「誓って、一秒たりとも恨んだことなんてないよ」
ニナは、安堵して体中の力が抜けた。倒れかけたニナを座ったままのキリトが抱き止める。
「恨んだりするわけないだろう。いつか君を迎えに行く。ずっと、それだけを考えていたんだよ」
キリトに抱きしめられているから、ニナは彼の表情が見えない。
「君がいたからこの五年を生きてこれた。僕だって、ずっと、ニナに助けられているんだ」
彼が、ニナを抱く腕に力を込めるのがわかった。
「ニナ、迎えに行けなくてごめん」
――ああ、彼も一緒だったのだ。
ニナは自分だけ助かったことを。キリトはニナとの約束を破った後悔をずっと抱えて生きていた。
ニナはキリトの胸に顔を押しつけて、彼の言葉を受け止めた。彼の声に包まれるのがたまらなく心地いい。
「迎えに来てくれてありがとう。ニナ」
「うん」
彼が紡ぐ言葉が、ニナの中の罪悪感を溶かしていく。
「会いに来てくれて、ありがとう。ずっと、君に会いたかった……!」
「うん……!」
ニナは震える声で応えて、キリトの背に腕を回した。
お互いに痛いくらいに腕に力を込めて、再会の実感を貪った。ニナは、キリトの体に包まれて、例えようもない安心感が胸に広がるのを感じた。今も昔も、彼の腕の中が世界中のどこよりも安心できる場所だった。
◇
正面口にいたケイは、あらかたオークションの警備員達を潰したところで、会場の窓に大きな布がかかったことに気づいた。
――どうやら上手くいったらしい。
それは、ニナと決めていた合図だった。
「おーい、皆! ニナがお姫様を奪還した!」
仲間に声をかけると、おお、良かった、と声が上がる。皆、なんだかんだ心配していたようだ。鉄仮面と呼ばれるほど、感情を見せない十四歳の少女を。
「感傷もほどほどに。俺たちは盗賊だ! 心配の種も片付いたところで、心置きなくお宝をいただくとしよう!」
「おお!」
盗賊の中には、浮かれて口笛を吹く者もいた。会場内に入れば、騒ぎですっかり人気がなくなっている。いるのは、枷を嵌められて動けない商品くらいのものだ。
盗賊たちは、先に会場内の金品を奪った。その後、彼らは震えてこちらを見ている商品たちに目を向けた。
「ケイ、こいつらどうする?」
ケイはうーん、と考えるふりをする。普通の人間なら、震えて泣く少年少女を哀れに思うのかもしれないが、ケイは感情に任せて泣くだけの人間が大嫌いだ。
――人間なら頭を使わなきゃね。
状況判断は正しく、がケイのポリシーだ。
「ニナがなんでも好きなものを持って行けと言ったんだ。この商品も持って帰っていいんじゃないか? 金になる」
「やめろ! 私達は商品なんかじゃない!」
一人の子供がケイに歯向かった。少年か、あるは短髪の少女か。ケイは、少し驚いて目を丸くした。
「人形みたいなものだろう」
「違う、人形なんかじゃ……!」
顔を真っ赤にしたその子供に、ほんの少し興味を惹かれた時、盗賊仲間の一人が部屋に駆け込んできた。
「ケイ、大変だ!」
「どうした?」
「警備隊が来た!」
「はあ? 嘘だろ?」
この街の警備隊が来るわけがない。奴らは、オークションを知りながらも自らの利益のために見て見ぬふりをしている。本物のクズなのだ。信じないケイに、焦れたように男が叫んだ。
「本当だ! 都から来た、中央警備隊だ!」
「なんだと?」
「奴ら令状を持ってやがる。今日の午後、オークションのタレコミがあったらしい。証拠もあるって!」
ケイは、しばし考えて、ため息をついた。
「はあ、撤収するしかないね」
「ああ、神様……!」
先ほどまでケイに噛み付いていた少年が、助かったとばかりに肩を撫で下ろした。
去り際、それを見て、ケイは思わず呟く。
「馬鹿だな、神様なんていないんだよ」
ケイは、神様の代わりに一人の少女の姿を思い浮かべた。
「たまたま今日中央警備隊にタレコミがあって、たまたま俺たちが金品を盗り終わってさあ次は人間を、ってタイミングでたまたま登場ってそんなわけねえだろ」
これが偶然でないならば、可能性は一つ。
「あんのクソガキ、騙したな……!」
好きなものを取って行け、と言ったニナを思い出す。彼女の狙いは最初からこうだったのだ。俺達に金品は盗らせるが、商品――人間までは許さない。
――それにしても、中央警備隊がすぐ動くほどの証拠とはなんだ?
答えはすぐに出た。撤収する最中、見たことのある少女が警備隊とともにいるのを目撃した。
――ミヤの側付きか!
恐らく、ニナとミヤは、オークションの被害者である少女たちを警備隊に送ったのだ。生き証人として。そして、今夜の作戦をコントロールする駒として。
うわあ、とケイは空を仰ぎ見る。誰も見ていないと知りつつも、自分を見事に出し抜いた女二人に白旗を挙げる。彼女らを侮っていた反省と、敬意を込めて。
「ああ、完敗だ!」
◇
それからしばらく月日が経って。
ニナは、身の回りの変化を如実に感じ取っていた。
オークションは中央警備隊によって解体され、商品の子ども達は保護された。腐り切った街の警備隊にも中央監査機関による改革が行われ、随分マシになった。
ニナは盗賊を辞め、ミヤの紹介で真っ当な仕事をしている。紹介する条件が、キリトに会わせること、だったのが少し不思議だった。ミヤは「ふうん、こういう男かあ」とキリトをじろじろ見ていた。
他にも、ケイがたまにミヤやニナに素を見せるようになったことなど、変わったことはたくさんあるのだが――。
何より嬉しい変化は、キリトが帰ってきたことだ。
「ニナ、近くに新しくお菓子屋さんができたんだって」
今日も優しくキリトがニナに話しかける。昼下がり、ニナとキリトは仲良くソファに並んでいた。
「ニナは甘いものが好きだろう」
ふふ、とニナは笑った。この青年の中では、自分はまだ九歳のままらしい。
「もうあんまり食べないんだよ」
「そうなのか」
困ったように眉をハの字にしたキリトを見て、ニナは溜飲を下げた。彼には笑顔でいてほしいが、たまには困った顔も見たいのだ。
「ニナと一緒に行こうかと思ってたんだけど……」
「やっぱり興味ある!」
ニナは勢いよく立ち上がった。キリトが行くのをやめた、と言い出さないうちに急いで支度をする。支度を終えて戻ってくると、キリトはまだソファにいた。
「じゃあ行こうか」
「うん!」
足を悪くしたキリトは、いつもは杖を持って外出する。でも、ニナと一緒にいる時は別だった。
ニナが差し出した手をキリトがそっと握った。
ニナは、もう手を引かれるだけの子どもじゃない。彼を支える強さを手に入れた、一人の女の子だ。
二人は、玄関に向かいながらたわいのない話をする。
「帰って来たら何をしようか」
「本を読んでほしい!」
キリトに問われて、ニナは間髪入れずに答えた。ニナの勢いに、彼はおかしそうにくすくすと笑う。少し恥ずかしくなるが、仕方ないのだ。キリトの声は本当に綺麗でずっと聞いていたくなってしまうから。
――でも本当は。
「じゃあ夜は本を読もうか。僕はニナと一緒ならなんでも楽しいし」
ニナも思っていたことを言われて、心があたたかくなる。考えていることは同じだった。当たり前に、キリトと未来の話ができるのが嬉しい。
ニナは、『これから』を考える。
二人で甘くて美味しいお菓子を食べに行こう。
帰って来たら、彼に本を読み聞かせてもらう。
晩ご飯は一緒に作って、味の感想を言い合って互いの腕を讃え合おう。
そうしてお腹が満たされたら、お喋りをしながら同じ布団で眠るのだ。
――それはあまりにも甘くて、幸せな光景だった。想像したニナは、思わず頬がとろけてしまう。
朝になれば、ニナとキリトは仕事に行くだろう。明日はきっとニナの方が早く帰るから、彼が帰って来たらこう言おう。キリトも、いつものように応えてくれるに違いない。
「おかえりなさい」
「ただいま、ニナ」
二人の日常は続いて行く。