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「かほり…かほり!」
部屋に入るなり、私は無言でリビングへと向かう。
彼が焦った様に私の名を呼ぶけど、振り向きたくなかった。
だって、彼とどう向き合えばいいのか分からない。
「かほり!待って!」
彼が私の手を取った。
その瞬間、一気に頭に血が上って、無意識にその手を振り払った。
ハッとして彼の顔を見る。
「どうしてそんな顔するの…?」
泣きたいのはこっちの方なのに。
今まで見たことのない彼の悲しい表情に、意味が分からなかった。
「かほり…ごめん」
”ごめん”、一番聞きたくなかった言葉だ。
「なんの…ごめん?」
「………」
彼が黙って俯く。
私を出世の材料にした事?
本当の事を言えずに浮かれさせてしまった事?
それとも、まだ言えない事でもあるの?
自分で考えて悲しくなる。
せっかく止まっていた涙は、また堰を切ったように流れ出した。
両手で顔を覆い、静かに泣く。
本当は泣き叫んで暴れたかった。
「かほり、今俺が何を言っても信じられないと思う。
でもこれだけは言いたい。俺は君を愛してる」
思わず体がぴくりと反応する。
反応してしまう自分が、憎い。
「本当に愛しているんだ、かほり。
俺に、もう一度、チャンスをくれ」
切実な声色に、頭がぐちゃぐちゃになる。
そんなに愛してくれているのなら、私に触れて欲しかった。
そうやって甘い言葉で、私を繋ぎ止めようとしているだけなんじゃないの?
「…今は、混乱してて…ちょっと、時間が欲しい…」
「…分かった。とりあえず、君は休んだ方がいい。
後片付けは、俺がやっておくから」
そう言って、彼は私を支える様に肩を抱くと、私の部屋まで誘導し、ベッドに座らせた。
「もし、少しでも俺の思いを信じる事が出来たら、教えてほしい。その時に、全部話すから。
いくらでも、待つから」
私は頷きも首も振る事もしなかった。
ただ、俯いたまま。
扉がパタンと閉まる。
そこからまた私は泣いた。声をあげて泣いた。
彼にも聞こえているだろう。むしろ聞かせてやりたかった。
私がどれだけあなたに愛してもらいたかったか。
今まで努力してきた事も、全部無駄だった。
そもそも最初から無理だったのだ。
そんな事にも気付けないなんて、やっぱり私は世間知らずなお嬢様。完全な独りよがり。
それでも彼を信じたい気持ちはあった。
最初はそうだったとしても、少しずつ私を愛してくれていたと。だから、ああ言ってくれたのだと。
じゃないとここ数日の彼の行動と、佐藤くんが教えてくれた話の辻褄が合わない。
あれが演技だなんて到底思えない。
でも何かが許せなくて、不安で、本質を見抜けなかった自分が情けなくて、とにかくぐちゃぐちゃだった。
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どうやら意識を失う様に眠ってしまったらしい。
いつの間にか朝を迎えていた。
ずっと泣いていたせいで、瞼が重い。
髪もぼさぼさ、涙で肌も乾燥して、きっととんでもない顔をしているだろう。
時計を見ると、もう8:00近く。
さすがに彼も出勤しているだろう。
重たい体をなんとか動かして、ぼーっとした頭のまま、お手洗いに行く。
再びリビングに戻ると、テーブルの上に彼が作ったのであろう朝食と、“夕飯は俺が作ります。今はゆっくり休んで。”と書かれたメモが置いてあった。
男の人にしては綺麗な字。彼の性格をあらわしているようで好きだった文字をそっと撫でる。
今日のメニューは味噌汁と、ご飯と、あの卵焼き。
ラップを外して、卵焼きを摘んで食べた。
私とは味付けの違う、しょっぱい卵焼き。
初めて食べさせてもらったあの朝を思い出して、じわりと涙が出た。
その時、インターホンが鳴った。
こんな朝早くから誰だろう、それにひどい格好なのにどうしようと思いながら確認すると、真子ちゃんが心配そうな顔をして立っていた。
深夜、どうしようもなくなった私は、真子ちゃんに簡単なことの経緯と、どうすればいいか分からないといった旨のメッセージを一方的に送りつけていた。
その後、返信も何も確認していなかった。
心配して駆けつけてくれたんだ。
「真子ちゃん…」
『ちょっと、あんた大丈夫!?』
通話ボタンを押して、真子ちゃんの声を聞いた瞬間にまた涙が溢れ出した。
走って玄関まで迎えにいき、扉を開ける。
「わっ!ひっどい顔!
電話にも出ないから、もう私あんたがなんかやらかすんじゃないかと思って!」
「真子ちゃーんっうう〜〜」
人目を憚らず、真子ちゃんに抱きついてわんわん泣く。
真子ちゃんは優しく背中を撫でながら、リビングへと付き添ってくれた。
「どう?ちょっと落ち着いた?」
「うん…しんば、いかけて、ごめん…」
ソファに座らせてもらって、ティッシュも貰う。
私の事が心配で、勤務も遅番にしてもらったらしい。
その優しさで、また涙が出た。
「あんたが圭一さんに好かれようとたくさん頑張ってたの、知ってたからさ。なんていうか、辛いね」
真子ちゃんは相変わらず、私の背中を優しく撫で続けてくれる。しばらくそうしていると、
「…本当、最低な男だね」
突然空気が変わった。
ハッとして真子ちゃんの顔を見る。
「出世のために、かほりを利用するなんて。
こんなに泣かせて。そんな奴さっさと別れなよ。
他にもいい人はいるよ」
まさか真子ちゃんがそんな事言うとは思わなくて、呆気にとられる。
そしてすぐに思った。そんなの無理だ。
いくら真子ちゃんの助言でも、聞けない。
「……出来ないよ…私あの人の事が大好きなの、愛してるの」
また涙が溢れる。
結局私はあの人の事をどうしようもなく愛しているのだ。
「…冗談よ。まあ腹は立つっちゃ腹立つけど」
後半ぼそりと呟く様に言う真子ちゃんのおかげで少し和らいだ。
親友も怒ってくれている事が、なんだか嬉しい。
「今は、ただ混乱しているだけ。
何を信じればいいのか分からないんだよね?」
こくりと頷く。
「私は、圭一さんがあんたに愛してるって言った事は、本当だと思う。」
「………うん」
「それを信じて、圭一さんと話しな。
大好きなら、愛しているなら、ちゃんと向き合ってみな」
真子ちゃんの言葉が、深く心に沁みる。
どうしてだろう、自分でもどこか分かっていた事なのに、真子ちゃんに言われると、素直にそうしようと思える。勇気を貰える。
私は本当にいい友達に出会えた。
あの時、自分を信じて、高校を変えて、良かった。
だから今回も、自分を信じて、あの人を信じて、もう一度話してみよう。
「真子ちゃん、ありがとう。大好き」
「私もよ。頑張ってね。どうか幸せになって」
私達は最後にぎゅっとハグをして、真子ちゃんはお仕事に向かった。
「…お風呂、入らなきゃ」
そうと決まれば、後は行動を起こすのみ。
身支度を整えて、彼を待とう。
夕方。そろそろかなと思っていた頃に、ドアを開ける音がした。
帰ってきた。今までにない緊張感に、手が震える。
リビングのドアが開いた。
圭一さんと、目が合う。
「お帰りなさい」
「…ただいま。」
きっと長期戦になると思っていたんだろう。
昨日の今日で、私が自分を待っていた事に驚いた様子だった。
「お買い物、行ってきてくれたの?」
「あ、ああ、メモを見た?
今夜は俺が作るから、君は座ってて」
そう言いながら、彼が冷蔵庫に材料をしまっていくのを私は静かに見つめ、口を開いた。
「圭一さん。先にお話しましょ。
こっち、来て」
圭一さんの手が止まる。
そしてそっと冷蔵庫を閉めると、私の所に来てくれた。
「ここ、座って」
圭一さんをソファに座らせる。
彼は何も言わずに私の言う事を聞く。
「目、瞑って」
しかし、この突拍子もない指示には、さすがに彼も困惑した様だった。それでも一瞬で、素直に目を瞑る。
私は彼の前に膝をつき、銀縁の眼鏡をそっと外す。
「…なにを」
そして彼の言葉を塞ぐ様に、キスをした。
びくりと彼の体が震える。
そんなのお構いなしに、私はそのまま押し付ける様にキスをして、彼の背中が背もたれについても尚、し続けた。
最初困惑していた彼も、行き場のなかった手を私の腰と頭に添えて、いつしか夢中で私の口を貪った。
はあはあ、という二人の吐息と、時折唾液が混ざり合う音。
初めての筈なのに、どうすればいいのか分かる。
私なりに彼に答え、彼も私を更に翻弄した。
そうしてどちらかという事もなくそっと離して、至近距離で見つめ合う。
「…なんで」
「ずっと…こうして欲しかった」
枯れていた筈の涙がまた頬を伝う。
「かほり…!」
そのまま強く抱きしめられ、私は声を押し殺して泣く。
今のキスで分かった。彼も、ずっと私に触れたかったのだと。
「どうして触れてくれなかったの…?」
「触れれないよ…俺なんかが…」
彼の言葉の意味が分からなくて、私はやはり、あの事を聞かなければならないと思った。
意を決して、口を開く。
「本当に、あなたは出世のために私と結婚したの…?」
自分で言ってて虚しかった。
彼もしばらく黙っていたが、私を抱く手に力が籠った。
「…正しくは、そう、思おうとした」
ついに、私は真相を知る時が来たのだ。
ぽつり、ぽつりと彼が話す。
「…正直、君との結婚の話が持ち上がった時、かなり困惑した」
指先が冷えていく。
私は、この事実を受け入れなくてはならない。
「仕事にやりがいを感じて、社長にも認められたのは嬉しかった。
だけど、この会社を背負う事になるとまでは思わなかったんだ。
責任、重圧、色んな物が一気にのしかかった。
でも相手は、社長の娘。断れるはずもない。
急に自由を奪われた気が、した。
だから、俺は出世のために結婚するって思う事にした。
自分を捨ててやる、そう思ったんだ」
私のせいだ、と胸が痛んだ。
私が彼を想ってしまったために、父は強行した。
彼を追い込んでしまったのは、私だ。
「ごめん…なさい。私の、せいで…」
すると、彼がにこやかな表情で私の口に人差し指を当てた。待って、と言わんばかりに。
そしてその手で私の髪を耳にかけ、優しく撫でながら口を開く。
「君が、最初から俺を慕ってくれていたのは知っていた。
そんな君を騙す様で心苦しくて、でも俺にはどうしようもできない。
こんな暗い感情を持ったまま結婚した俺が、純粋に俺を想ってくれる君に触れられる訳がない。
でも君が不安に思っている事も知っていたから。
もう少し時間を置いてから、もう少し、もう少しと俺は逃げていた」
撫でていた手が、今度は私の唇に降りて、親指で撫でられる。
ぞわりと、背中が粟立つ。
「それでも君は尽くしてくれた。俺なんかのために。本当に申し訳ない気持ちと、次第に愛しさが膨らんだ。
それはどんどん膨らんで、君に触れたくなった。きっと俺が望めば、君は喜んで自分を差し出すだろう」
顎をくいと持ち上げられ、額にキスをされた。
チュッというリップ音が響く。
「でも、この暗い感情が君に知れたら?
半ば八つ当たりで君と結婚した事が、知れたら?
君を知ったら、俺はもう君を離せない。
でも、君は俺から離れてしまうかもしれない。
そう思ったら、ますます君に触れられなかった」
そして再びぎゅっと強く抱きしめられる。
彼の暖かい体温が、心地よい。
「だけど、ここ最近の君は本当に可愛くて困った」
ぱちり。一瞬でぼんやりしていた頭がはっきりした。
彼の胸にもたれかかっていた私はむくりと起き上がり、彼を見る。
「いつもきっちりしている君が、ある日寝癖で現れた時は、思わず抱きしめたくなったよ」
一気に熱くなる頬。
「そ、それは…」
「その後もまるで子どものようにはしゃぐ君を見て、もう抑えられない事を知った。
愛しい。君がたまらなく愛しい、と」
彼の右手が私の頬を包み込む。
私も愛おしくて、その手に、自分の手も重ねる。
「ここ数日は本当に楽しかった。
どうしてもっと早くこうしなかったんだろうって。
君をいっぱい不安にさせた。
本当にごめん。意気地のない男で」
声を出したら、また涙が出そうだ。
代わりに、首を横に振る。
「こんな形で君が知ることになってしまって、本当に申し訳なかった。
いつかは自分で話すつもりだったんだ。
…いや、どうだろう。あれがなかったら、俺は今も君を騙したままだったかもしれない。
それでも君は、こうして俺の所に戻ってきてくれた。
ありがとう。本当にありがとう。
君に感謝してもしきれない」
彼の顔が近付く。
至近距離で見つめ合う。
「好きだ。愛してる。かほり。
遅くなってごめん。逃げてごめん。
これからは、ちゃんと君と向き合うから」
「…はい」
掠れた声だったけど、私はなんとか答えた。
私の返事を聞いてにこりと笑った彼の目尻に、涙が浮かんでいる。
ああ、彼はいっぱい苦しんだんだなと思った。
「圭一さん。私もあなたが好き。愛してる。
もう、どうか苦しまないで」
彼を安心させたくて、目尻についた涙を指で拭って舐めた。
しょっぱくて、甘い。
「かほり…君は一体どこまで魅力的な人なんだ…?」
彼の目が男の目に変わる。
私は目を閉じて、彼を受け入れた。
また始まる、貪りあうキス。
「け、圭一さん、あの…んっ」
「ん?なに?」
どれくらいそうしていただろうか。
圭一さんは一向に私を離そうとしない。
唾液が漏れ出しベタベタするし、唇はじんじんと痺れてきたし、あろう事か彼の手は私の背中に直に触れ、さわさわと動かしている。
「ご、はんを…ふっんっ…たべなきゃ…」
「…こんな状況で、そんな事言う?」
やっと私の唇を解放し、彼がおでことおでこを付き合わす。
そして熱のこもった瞳でじっと見つめられた。
扇情的な彼の顔ってこうなんだと、ぼうっとした頭で思う。
「今すぐ、君が欲しい」
「ご、ご飯を、食べてから…」
ずっと待ち望んでたくせに、いざこういう雰囲気になると急に恥ずかしくなった。自分からあんなキスしといて。
「だめ」
「っきゃ!?」
しかし彼は問答無用で私を横抱きすると、スタスタと彼の部屋に連れて行き、すぐに私を両手でシーツに縫い付けた。
そしてまた始まるキスの応酬。
「ご飯は、後で。
また一緒に作ろう」
どうやらこれはもう、逃げる余地はない様だ。
覚悟を決めて、私はかろうじて小さく頷く。
彼は微笑みながら、私の服に手をかけた。
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ピピピピッピピピピッ
スマホのアラームが朝を知らせる。
私は自分の肩にかかった重たい腕を外して、スマホを手に取る。
時刻は7:00。
むくりと起き上がって、体を伸ばした。
少し冷えた外気が私の素肌を通り、思わずぶるりと震えてまた布団に潜り込む。
同じく素肌のまま眠っている夫は、子どものような顔ですやすやと眠っている。
「ケイくん。朝ですよ。
起きて」
けれど、彼は訝しげに眉を顰めるだけで、起きない。
今日も、明け方近くまで私を離さなかったせいだ。
加減を覚えてくれと頼むけど、彼は毎晩私を求める。
まるで触れなかった半年間を埋める様に。
おかげでこっちも寝不足だ。
「ほら、起きて。ケイくん。
仕事に遅れちゃうよ?」
「…んーーー…なんじ?」
「もう7:00。ほら、朝ごはん作ろう」
「うん…」
一緒に眠る様になって知った事だが、彼はあまり朝が得意じゃないらしい。
「…パンツどこ?」
「はい、これ」
ベッドのあちこちに散らばった自分達の着替えをかき集め、彼に渡す。私も手早く着替えてリビングに出た。
あくびをしながらコーヒー豆を轢いて、眠気覚ましの一杯を作る。
彼も仕事着に着替えて、ようやくこちらに来た。
キッチンに立っている私の横にきて、コーヒーを啜る。
「どう?目覚めた?」
「ああ、いつもありがとう」
お約束のセリフも聞けて私も満足。
二人でエプロンを着せ合って、朝食を作る。
「今日は遅い?」
「いや、いつも通りかな」
「じゃあ、今日は手巻き寿司にしようかな」
「やった。なるべく早く帰る」
すっかり素直になってしまった彼に、私は少々物足りなさを感じている。
あの素直じゃない感じも、可愛いと思ってたんだなーと今更ながら気付いた。
「じゃあ、行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい」
いつもの様に彼に鞄を差し出す。
それともう一つ。行ってらっしゃいのキスをするのも増えた。
チュッと彼の唇にキスをする。
だけど、
「…んっ!?」
頭を抑えられて舌を入れられたと思ったら、知らぬ間にそのまま壁に押し付けられた。
すっかり両思いになった事で浮かれた私が提案した事だが、たまにこうやって暴走されるため、少し考えものだ。
彼の肩を叩いてやっと解放される。
「…会社、行きたくないな」
「…じゃあ、休んだら?」
「…いや、行かなきゃ」
「…じゃあ、頑張って」
このやりとりもほぼ毎朝している。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
きっと私は、今夜も彼に愛されるのだろう。
最後まで読んでいただきありがとうございました。