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あの日から、彼は私と同じくらい早起きして、一緒にキッチンに立つ事が増えた。
卵焼き以外も、スープだったり、ちょっとした副菜だったり、少しずつ彼も手料理を披露してくれる様になっていた。
しかもそれはどれも美味しくて、どうして今まで隠していたのか問いただしたけど、聞かれなかったから、だけらしい。
確かに、私は彼から話してくれるのを待っていただけなのかもしれない。
それを思い直し、積極的に彼と会話する様にした。
そうして会話は増えたけど、相変わらず夜は別室。
それでも心は満たされていたし、一緒に夜を過ごすのもそんな遠い未来じゃない気がして、そこまで気にならなくなった。
部屋着のまま朝を過ごすのに慣れ、彼のエプロンのリボン結びが上手になってきた頃、珍しく日中に圭一さんから電話がきた。
「もしもし?」
『もしもし、今大丈夫?』
外なのだろか、時折車が走る音が混じる。
「大丈夫よ。珍しいね、こんな時間にかけてくるなんて。」
『…ああ。ええと、その、』
なぜか言い淀んでいる圭一さんは、これまた珍しい。
私は不思議な気持ちで彼の言葉を待つ。
ややあってから、意を決した様に彼は言った。
『友人が、うちに来たいと言ってるんだ。
それで…』
「ああ!おもてなしすればいいって事ね!」
なるほど、だから言いにくそうにしていたのかと身構えていた体の力を抜く。
『突然すぎるからだめだと言ったんだが、近々転勤するから今日がいいと言われて…』
「大丈夫よ。私、旦那さんの友人をもてなすのが夢だったの。」
昔からうちは来客が多かった。
父が色んな友人知人を呼んでくるので、母はその度にもてなした。
どんなに急でもきちんと対応する母に、父も鼻高々といった感じで、母も何もできない私でも、あの人の役に立てる唯一の機会だからと嬉しそうに言っていた。
私も母に見習い、普段仕事せずに楽させてもらっている分、頑張らねば。
『…ありがとう。
18時くらいに帰るから。』
「分かった。
あ、苦手なものはないかだけ聞いといてくれる?」
『相手は佐藤だ。
そんなの気にしないでいい。』
「お友達って佐藤くんなのね。
でも聞いてね。私は気にしないから。」
電話を切って、時計を確認する。
まだ13:00。軽く掃除して、買い物に行ってそれから…
私は頭の中でタイムスケジュールを練りながら、パタパタと動いた。
そして約束の18時丁度。
「ただいま。」
「お邪魔しまーす!」
ドアが開いた音の後に、二人の声が耳に届く。
「はーい。」
私は急いで手を洗って、玄関に向かった。
「佐藤くん!いらっしゃい。」
玄関で靴を脱いでいる最中の佐藤くんに声をかける。
「お久しぶり、かほりちゃん。
結婚式以来だね。」
「はい、その節はどうもお世話になりました。」
圭一さんと佐藤くんは中学からの友人で、もっとも懇意にしている人だ。
私達の結婚式にはもちろん参加してもらったし、滅多にない圭一さんの飲み会の相手は、大抵佐藤くんだ。
ちなみに私と圭一さんは4つ離れているから、佐藤くんも年上なんだけど、くん付けにしてくれとお願いされたので、お言葉に甘えてそうさせてもらっている。
「ごめんね、突然。
こいつが中々招待してくれないから。」
「いいんですよ。
圭一さんも、多分私に気を遣ってだと思いますし。」
私がにこやかに答えると、佐藤くんは突然真顔になって圭一さんの肩にポンと手を置いた。
「…本当羨ましいな、お前。
こんな素敵な奥さんもらっちゃって。」
「いいから行くぞ。」
私が佐藤くんの招待を快く引き受けたのには、もう一つ理由がある。
それは私と一緒じゃ見られない、からかわれる圭一さんを見られるからだ。
「なんかいい匂いするな〜。」
リビングに入るなり、嬉しい言葉を聞けて私もテンションが上がる。
「嫌いな物は特にないと聞いたので、色々作ってみました。今日は楽しみましょう。」
「やったー!楽しみー!」
「佐藤、そこに座っててくれ。」
圭一さんが佐藤くんをソファに誘導し、冷蔵庫に向かう。
私の準備が出来るまで、そこで晩酌してくれる様だ。
一応、つまめる物を作っておいて良かった。
「圭一さん、これ。」
「こんな物まで用意してくれてたのか。ありがとう。」
にこりと微笑んだ圭一さんは私からつまみを受け取ると、ビールと共に佐藤くんの所へ向かう。
(わ、機嫌良い。)
あんなにぶつぶつ言ってたくせに、本当は佐藤くんを招待できて嬉しいのね。あの軽快な足取り。
「…ほんと、素直じゃないんだから。」
おもわず呟きながら、私は夕飯の最終準備にとりかかった。
「おおー!すげー!」
配膳が終わり、二人を呼ぶと、テーブルいっぱい並んだ私の料理を見て佐藤くんの目が輝いた。
頑張って良かった。
「本当にすごいな。大変だったろ。」
圭一さんも驚いた表情を見せていた。
「初めてのおもてなしだったから気合い入っちゃった。
いっぱい食べてくださいね!」
私と圭一さんが並んで、佐藤くんは向かいに座る。
「うっまい!さっきのつまみも美味しかったけど、本当に料理上手だね、かほりちゃん。」
「ありがとうございます!」
やっぱり面と向かって美味しいと言ってもらうのは気分が良い。
あの人も、このくらいはっきり言ってくれればいいのにな、と思いながらちらりと横を見ると、圭一さんと目が合った。
彼はなぜか気まずげに目を逸らす。
だけど私はそのままじっと彼を見つめた。
「…いつも美味しいです。ありがとう。」
「いいえ。」
まあ、圭一さんにしては出来たほうかな。良しとしよう。
「ふ〜ん。もっと素直になれよお前〜。」
しかし、なぜか佐藤くんが納得してない様な顔をしていた。
私が首を傾げていると、佐藤くんが内緒話の様に手を口に当てる。
「こいついっつも酔っ払う度に、かほりちゃんの料理褒めてたよ。」
「お、お前!」
慌てた様に圭一さんが佐藤くんを止めようとする。
しかし、私は聞き捨てならない話を聞いた気がして、その圭一さんを更に手で止めた。
「それだけじゃないぜ?
俺なんかのために尽くしてくれて申し訳ないとか、俺にはもったいないとかなんとか…」
「ふ〜〜ん?」
圭一さんはもう、どうにでもなれといった感じでそっぽ向いていた。
なにこの嬉しい情報。
私はにやにやしながら圭一さんを見た。
相変わらずあっちを向いているけど、明らかに耳が赤い。
仲良くなったのはつい最近で、それまでどちらかというも素っ気ない感じだった。
まさか本当はずっと前から、私に感謝してくれていたとは。
「だから絶対かほりちゃんのご飯食べたかったんだよねー!確かにケイが絶賛する訳だわ!」
「…佐藤くん。私の実家から拝借してきた秘伝のワイン飲みます?」
「あざーーっす」
これは表彰ものだ。最高な話を聞けた。
その後も中学の頃の秘蔵話を聞かせてもらい、私は大いに楽しんだ。
「いやー本当おいしかったよ!ありがとうかほりちゃん。」
「はい。新天地でも頑張ってくださいね。」
佐藤くんは、来月転勤が決まっている。
これを機にこれからも遊びに来てもらいたかったけどしょうがない。
むしろ行ってしまう前に会えて良かった。
「ん、ありがとう。」
最後にワインを結構な量飲んでしまったからか、佐藤くんは結構酔っ払っている様だった。
少し足取りが怪しい。
「圭一さん、下まで送ってあげて。
タクシーもそろそろだと思う。」
「そうだな。」
「すまん、ケイ。かほりちゃん、ちょっと旦那さん借りるわ。」
「はい、お気をつけて。」
少し圭一さんに支えられる様にして、佐藤くんは出て行った。
扉が閉まる。
私はほっと息を吐いて、大きく伸びをした。
結婚して初めての来客。
きっと満足していただけたのではないか。
いや、それ以上に私が大満足だったのだけど。
(まさかあの人があんなに私に感謝してくれていたなんて…)
テーブルの片付けをしながら、何度もあの話を反芻する。にやにやしながら作業していると、佐藤くんが座っていた所に、スマホが置かれていた。
「これはまずい!」
私は慌てて二人の元に向かう。
どうにか間に合ってと願いながら、エレベーターで下まで降りた。
エントランスに出ると、幸いタクシーは来ていない様だった。
二人の背中が見える。声をかけようとした時、とんでもない話が聞こえた。
「お前から最初、出世のために結婚するって聞いて驚いたけど、うまくやってんじゃねえか。」
(……え?)
この声は間違いなく佐藤くんの声。
という事は、その相手は圭一さんという訳で。
さっきまでの最高潮に達していた幸せな気持ちが、一気にガラガラと崩れ落ちる。
と同時に、なんだか色々腑に落ちた。
どうりで半年も私に触れてくれない訳だ。
だって私は、ただの出世のための踏み台だったんだから。
頭が真っ白になって、今にも倒れそう。
体がどんどん冷えていく感じがした。
「…もうその話は良してくれ。
あの時の俺はどうかしてた。」
「本当だよ。お前、大切にしてやれよ。
あんな良い子他にはいな」
「佐藤くーーん!スマホ忘れてたよー!」
「ええ!?」
慌ててスーツのポケットなどを触る佐藤くんに、はい、これ、とスマホを渡す。
「わー危なかったー!ごめん、かほりちゃん!」
「いいえ!間に合って良かったです。」
圭一さんの顔が見れない。今見たら、きっと泣いてしまう。
「タクシー来たぞ。」
フロントライトが私達を照らす。
佐藤くんはそれに乗り込むと、じゃ、お幸せに〜とご機嫌に手を振って帰っていた。
「さ、行こう。今日は俺が片付けるよ。」
「………。」
「いっぱいもてなしてくれてありがとう。
佐藤もかなり君の事を褒めていた。」
「………。」
「かほり…?」
1ヶ月に何回かしか聞けない、私の名を呼ぶ声。
いつもなら嬉しいのに、今はさらに胸を締め付けられた。
「どうし…っ!どうした!何で泣いてるんだ!?」
やっぱり我慢なんかできなかった。
苦しい、苦しい、胸が苦しい。
ここ最近、楽しすぎて、もしかして彼は私を愛しているのではないかと思っていた。
でも、あくまで私と結婚してくれたのは、出世のため。よく考えたら当たり前だ。
圭一さんと結婚できる事に浮かれすぎて、少しでも私に好意を持ってくれていたから結婚してくれたんだと思っていた。とんでもないお花畑な頭。
そして今も触れてくれないのは、罪悪感から?
最近仲良くしていたのは、ただの気まぐれ?
その気まぐれのおかげで、私はもっともっとあなたの事を好きになってしまったのに。
分からない。分かりたくもない。
とうとう立っていられなくて、その場に座り込んだ。
「かほり、どうした?」
訳もわからず私の背中をさする圭一さんの手が暖かい。
「圭一さんは…出世のために、私、と結婚したの…?」
言いたくもない言葉。
けれど聞かずにはいられない。
否定して、そんな訳ないって。お願い。
けれど、彼は否定する訳でも肯定する訳でもなく、ぴたりと動きが止まり、なんとも言えない表情をしていた。
ああ、やっぱりそうなんだ。
佐藤くんが言っていた事は事実なんだ。
静かに確信して、ゆらりと立ち上がる。
「かほり…さっきの話を聞いて」
「…行こう。
ここだと目立つし…部屋、戻ろう。」
彼の手をどかして一人で歩く。
私は一体、どうすればいいんだろう。
私達は、これからどうすればいいんだろう。