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朝の予感がして、目が覚めた。
思った通り、カーテンの隙間から白み始めた空が見える。
時計を確認すれば、まだ5:30。
今日も、目覚ましより先に起きてしまった。
一度起きると寝れない私は、布団をめくって体を伸ばす。
左の薬指が、朝日に反射してきらきら光る。
私は手を下ろして、その光源をじっと見つめた。
シンプルな銀色のリングに、小さなダイヤが埋め込まれている。
小さく息を吐く。
そして、この同じ指輪を嵌めている人物が眠っているだろう、隣の部屋を見つめた。
今日も、あの人は来てくれなかった。
再び息を吐いて、切り替える様にベッドから降りた。
クローゼットからワンピースを取り出して、袖を通す。
顔を洗うため、部屋から出た。
洗面台で洗顔し、歯を磨く。
再び部屋に戻って鏡台に腰掛け、アイロンにスイッチを入れる。
その間に軽い化粧をして、アイロンが暖まったら肩までの長さの髪を内巻きにしていく。
そして最後に小ぶりのイヤリングをつけて、部屋を出た。
リビングの大きな窓のカーテンを開く。
こちらの方角はまだ朝日は入ってきていない。
眼前に広がる、目覚め始めているビル街。
それを高いところから一望する私は、所謂勝ち組というやつなのだろう。
私はちっともそうは思わないが。
台所へ向かい、エプロンを肩にかける。
冷蔵庫から必要な材料を取り出し、サラダの葉を一枚一枚洗っていく。
洗った後は、今度は水気を拭う。これもまた一枚一枚。
最初のうちは前日の夜に仕込む様にしていたが、どんどん朝起きるのが早くなって、手持ち無沙汰になったのでやめた。
それでも時間が余るから、ゆっくりゆっくり、正直無駄とも思える作業も黙々とする。
トマトのヘタを取っていたら、あの人の部屋から物音が聞こえた。
そろそろ起きてくるのかもしれない。
私は今している作業を一旦辞めて、コーヒーの準備にとりかかった。
ミルに、お気に入りのブレンドされたコーヒー豆を入れ、挽いていく。
ゴリゴリ、ゴリゴリ、と粉になっていくこの作業は嫌いじゃない。辺りにコーヒーの香ばしい匂いが広がる。
ゆっくりとお湯を回し入れる。
私は特別な資格を持っているわけではないが、何度かそういった教室に通ったり、毎日やっているおかげで、我ながら美味しいコーヒーを淹れられる様になったと思う。
一番言って欲しい人には、何も言われないけれど。
同じ銘柄のカップを二つ用意して、同じ量注ぐ。
テーブルに並べようとした時、ドアを開ける音がした。
「おはよう、圭一さん」
「…おはよう」
私がアイロンをかけた白いシャツとズボンを身にまとい、その人は部屋から出てきた。
少し色素の薄い髪を撫で付け、銀縁の眼鏡がきらりと光る、私の、夫。
「丁度コーヒーを淹れたところだよ」
「ありがとう」
出勤する前につけるネクタイをリビングのソファにかけて、彼がダイニングテーブル腰掛けた。
コーヒーを啜りながら、タブレットを開く。
(今日も気難しそうな顔してる…)
もう跡がついてんのじゃないかしら、と思える程寄っている彼の眉間の皺を盗み見ながら、オムレツの準備にとりかかる。
今日はパン食。ご飯食の日もある。特に決めてない。私がその時食べたい物を作る。
彼に聞いてもどうせなんでもいい、としか返ってこないから、もう好き勝手やる事にした。
近所のベーカリーのパンを厚切りにして、トースターに入れる。
それからオムレツを手早く調理。
一つの皿に、サラダとオムレツを盛り付けて、あとはパンが焼けるのを待つだけ。
ひと段落ついたところで、先程淹れたコーヒーを飲んだ。
うん、今日もおいしい。
私は少し酸っぱめなのが好き。
チン、と音がしてパンを取り出した。
それを皿に乗せて、テーブルへと運ぶ。
「お待たせ」
「ああ、いつもありがとう」
彼はいつもそう言ってくれる。
私はこの瞬間がお気に入りだったりする。
二人で向かい合って手を合わせ、食べ始める。
朝は特にテレビをつけない。
皿にフォークが当たる音だけが響く。
「今日は、遅い?」
「いや、いつも通りかな」
「じゃあ、手巻き寿司にしちゃおっかな」
「いいんじゃないか?」
彼はいつもそう言う。
あなたが手巻き寿司好きなの知ってるんだから。
もっと喜んでもいいのに。
「ごちそうさま」
彼は手を合わせた後、皿を流しに持って行き、それを洗う。
最初の頃は置いといていいのにと、彼を止めていたけど、やると言って聞かないので、もう素直にやってもらう事にした。
彼は洗い終わると、洗顔と歯磨きに向かう。
私はのんびりパンを齧りながら、今日何するんだっけと頭を回らす。
私は仕事をしていない。所謂専業主婦。
おかげでこうやってゆっくり朝食を食べられる。
私が食べ終わる頃に、彼のネクタイを縛る音が聞こえた。そろそろ出勤するみたいだ。
お皿を流しに持って行き、彼を見送るために玄関へ向かう。
壁にかけてある鞄を持つ。
そんな事しなくていい、と彼は言うけど、一つでも妻らしい事をしたくて、これだけはやらせてもらっている。
「行ってくる」
「はい、行ってらっしゃい」
そう言って彼に鞄を差し出す。
しかし、なぜか彼はそれを受け取らなかった。
代わりに私の顔をじっと見つめる。思わず心臓が跳ねた。
「…卵ついてる」
「うそ!やだ!」
慌てて口元を拭う。
けど取れていないのか、彼の訝しげな顔が変わらない。
「とれた?」
「いや」
そう言うと、彼が手を伸ばし、私の口元を拭った。
まさかの展開に体が固まる。
「あ、ありがとう。ティッシュ持ってくる」
彼の手についた卵を拭うため、慌てて取りに行こうとしたが、彼がそれをぺろりと舐めた。
「別にいい。ほら、鞄」
「え!?あ、う、うん。はい、行ってらっしゃい…」
扉がパタンと閉まる。
私は呆然とした頭でリビングに戻り、ソファに突っ伏した。
何!!!!今の!!!!!!
処理しきれない悶えを、クッションを叩いて発散させる。
あの気難しい顔、いつもありがとうと言ってくれる気遣い、ああやってたまにやってくる突拍子のないスキンシップ…ああ、好き!
私はあの人が好き。好きで好きでたまらない。
けれど、これは片想い。
夫婦だけど、これは私の片想いなのだ。
その証拠に、彼と結婚してもうすぐ半年。
触れてくれないどころか、一緒のベッドで寝た事もない。
それは、私たちの出会いにまで遡る。
私はとある経営グループの社長の一人娘で、それはもう蝶よ花よと育てられた。
何という時代錯誤な話だが、いつか親が決めた人と結婚する事になっていたし、私もそう思っていた。
来る日に向けて花嫁修行と、幼稚園から大学まで一貫の、お嬢様学校に通う日々。
一度反抗して、高校の2年間だけ普通の学校に通わせてもらった。
かなり両親と揉めたけど、その2年間は私にとってかけがえのない財産となった。
大学を卒業し、小さな楽器店に就職。事務員として働いた。
そして3年が経とうとした頃に、私は夫と出会った。
彼はうちの会社の社員で、社長である父のお気に入りだった。
私は一人娘なので、婿入りして今後会社を引っ張ってくれる様な優秀な人材を探しており、彼に白羽の矢が立った。
彼との結婚は、お見合いだ。
この様に大事に大事に育てられた私は、男性に対して免疫がなく、一度も恋愛関係を持った事ない。
特別に行かせてもらえた高校の2年間で何人かから告白してもらったけど、よく分からなくて全てお断りした。恋愛にまつわる話といえばそれくらい。
そんな私の目の前に現れた彼は、とても紳士的で、そんな愛想のいい人ではないけれど、誠実な言葉と行動に惹かれてしまうのには。時間がかからなかった。
私は喜んで彼との結婚を受け入れた。
とんとん拍子に話が進み、無事結婚。
誓いのキスを頬にされたのは不服だったけど、わたしは幸せの絶頂だった。
ところが
『もう少し、お互いの事を知ってからにしましょう』
結婚して初めての夜。
うきうきでベッドメーキングしていたら、彼は私にそう言った。
実は父が、私の想いに気づいてか半ば強引に事を進めたために、私達はまともなデートをせずに結婚に至った。
よく考えたら、確かに私はこの人の事を深く知らない。
『そう、ですね』
きっと彼の事だから、私の事を大事にしてくれているんだ。そう思って、来る日に向けて私は待ち続けた。
けれど、それから半年経った今も、彼は私と一緒に寝てくれない。
もうさすがに敬語を使うのはなくなったし、お互いの生活リズム、嗜好も分かってきた。
気難しい顔をしているけど、たまに抜けている所や、手巻き寿司が好きな事も知っているのに。
お互いの事を知ったらっていつ?
まだまだ彼の知らない所があるの?
そんな悶々としたまま、今日に至る。
「あんた、まだ旦那とヤってないの!?」
とあるカフェの昼下がり。
おしゃれな場所ににつかわない言葉がテラス席に響く。
「ちょ、ちょっと真子ちゃん!声が大きい!」
必死にシーと人差し指を口に当てる私を知ってか知らずか、全く気にせず真子ちゃんがストローでオレンジジュースを飲む。
彼女は例の高校2年間で得る事ができた、私の最大の財産。
真子ちゃんのおかげで、私は全くの世間知らずなお嬢様にならなくてすんだ。
自ずと、こういった相談は、もっぱら彼女にしている。
「こーんな料理上手で自分に尽くしてくれる可愛い子と暮らしてるのに、よく手を出さずにいられるわ。
見るからに堅物そうだったけど、まさかここまでとは」
「…ねえ、私って可愛い?」
「は?可愛い。どちゃくそに可愛い」
よかった。少しでも女として見てもらいたくて、スキンケアも頑張ってるし、朝もそれなりに身支度しているのだ。
当の本人は全く反応してくれないけど。
「あんたってそういうの素で、しかも本気で聞いてくんのよね。
憎めないキャラなのが羨ましい〜」
そう言ってケーキを口に運ぶ真子ちゃんに、私は意を決して今朝のことを話す事にした。
「で、でもね。今日、事件があったの」
「な、なに…。」
私のただならぬ雰囲気に真子ちゃんも真顔になる。
「私の口元に、朝食の卵がついててね。
私がうまくとれないから、彼が、親指で、拭ってくれたの。
しかも…その後、それを、舐めたのよ!ぺろって!!
ぺろって!!!」
「ちょ、かほり、落ち着いて…」
いけない、今度は私が興奮してしまった。
周りの視線がこちらに向いている様な気がして、体を縮こませる。
「一瞬そんな事か、と思ったけど…
ふーん、確かにそれはなかなかのキュンポイントだね」
「でしょでしょ!私顔から火が出るかと思っちゃった」
「ふうん、なるほどねー」
もっと共感してくれるかと思ったのに、何故か真子ちゃんはしばらく思案顔になった。
私が首を傾げていると、真子ちゃんが思い付いた様に言った。
「かほり、あんたさ、明日の朝寝坊しなよ」
「え!?」
まさかの提案に驚く。
「化粧も、髪もセットしなくていい。
なんなら部屋着のままでいいからさ」
「な、そ、そんな事できないよ!
食べさせてもらってるのに」
「まあまあ、素直に私の言うことを聞いてみて。
あんたって生い立ち的にしょうがないんだけど、ちょっと完璧すぎるんだよね。
少し隙を見せたら?
毎日頑張ってるんだから、一日くらいサボったって平気よ」
「そ、それでどうなるの?
圭一さんが困るだけじゃない?」
「どうせ、旦那も早起きなんでしょ?
大丈夫、やってみなって。
きっと新しい一面が見られるから」
私と違って真子ちゃんは恋愛経験豊富だ。
彼女がそう言うんだから、きっとそうなのかもしれないけど、なんだか複雑。
結局私が何言っても、大丈夫だからの一点張りで、その日は別れた。
彼はいつもよりちょっと早く帰って来た。
恐らく今朝、手巻き寿司にするから、と言ったからだろう。
そんなに楽しみにしてたくせに、特に何も言わずに黙々と食べる。
こんな頑なに仏頂面する人の新しい一面なんて、本当に見れるのだろうか。
そして今日も変わらず別々の部屋で眠る。
半信半疑で私は目を閉じた。