商売編~魔物の王、ジークの実力
その日の夜は生臭いほど生暖かかった。雲行きが怪しく、梅雨の季節のように湿っぽい。
「……ん?」
Aランク冒険者のハボックは深い昼寝から目を覚ます。そして急いでベッドから下りると、トイレへ駆け込む。
「……ふぁ」
トイレが終わり、あとはベッドに戻るだけ。まだ夜になったばかりだ。
そんな物音一つしない時だったが、大きな欠伸を一つした後、肌身離さずの剣を抜く。
「誰か居るのか!」
ハボックはじっとりと嫌な汗をかきながら、部屋を見渡す。
「気のせい? 誰かに見られている気がするが……」
ベッドに座り込むとため息を吐く。そしてベッドの近くに備え付けられた水をゴクゴクと飲む。
「どろが混じってやがる! 何が最高級の宿屋だ」
ペッと床に唾を吐きだし、水差しを壁に叩きつける。胸騒ぎを止めようと、ベッドに横になる。
「ジークがあんなに強かったとは……」
ハボックは目を瞑って呟く。するとガタガタと体が震える。
「殺される!」
ガチガチと歯を鳴らし、体を丸める。
「あいつは俺を恨んでる! ちくしょう! あいつが悪いのに!」
いくら酒を飲んでも恐怖が消えない。朝の出来事が脳裏にこびりついている。
最強だと思っていた剣が、ジークの手で、小枝のように折れて行く。悪夢以外何物でもない光景だった。
「やっぱり! やられる前にやるしかねえ!」
ハボックは剣と鎧を着こみ、準備を済ませると、部屋を飛び出す。
「皆寝ちまったのか? 嫌に静かだ」
廊下に出るとすぐに異変に気づく。
朝まで、うるさいほど賑わう冒険者たちの声が、全く聞こえない。
「ちょうどいい! 殺しの現場を見られなくて済む!」
ハボックは狂ったようにクツクツ笑いながら廊下を歩く。
寝息一つしない、死んだように静かな廊下を、一人で進んだ。
「……なんで誰も歩いていない?」
高級宿場を飛び出して、大通りに出る。
町は、国は、異常な雰囲気だった。
日が落ちたばかりなのに、誰一人歩いていない。ロウソクの火すら見えない。
朝まで賑わう酒場も、くぐもった声で濡れる娼館も、家族団らんとなる家屋からも、人の気配がしない。
道端でうずくまる浮浪者も、路上でお尻を振る娼婦すらも居ない。
世界で一人ぼっちになったかのような静寂さだ。
「……都合が良い! 都合が良いんだ!」
ハボックは湧き上がる恐怖を無視して大通りを進む。
足は震えている。冷や汗で体は濡れている。
だけど進む。
引き返すことなどできない。
「まさか、闇討ちを仕掛けて来るなんて思わなかったよ。手間が省けたから良いんだけどね」
大通りを半分過ぎたところでジークが現れる。
ジークは大通りの真ん中で、腕組みして待っていた。
「ジーク!」
ハボックは剣を抜く。
突然、体が動かなくなった。
「な! な!」
息ができないほど、胸が押しつぶされるほどの重圧。
筋肉が極限まで緊張し、関節がミキミキと軋む。
数秒で死に至るほどの、猛毒の殺意だった。
「ジル母さん! 僕の獲物だ! 殺気を緩めて!」
ジークは真っ青で悲鳴も上げられないハボックを見ると、慌てて振り向く。
「す、すまない。剣を抜いたからつい」
景色が揺らぐ。そして不可視の術をかけていた魔王ジルが姿を見せる。
「ま、魔王ジル!」
殺意から解放されたハボックは、舗装された道に手をついて、息を切らしながら震える。
「なんじゃ、でかい口を叩く割には肝の小さい男じゃ」
「殺意を向けただけで死にそうになるとはのう。ジークは剣を向けられても怯まなかったのに!」
さらに姿を隠していたリムとタマモが現れる。
二人とも、怒っている。
黄金に輝く九本の尻尾や、月明かりよりも明るく煌めく銀色のオオカミ耳が見えている。溢れる殺気で隠し切れないのだ。
「九本の尻尾に銀色のオオカミ耳! まさか九尾とフェンリル!」
ハボックは動けない。ただ震えることしかできない。
「正直、私は今も反対だ。億が一でも指先を切ったらどうする? それでジークが泣いたらどうすればいい?」
影が蠢き、ブラッドが姿を現す。目が真っ赤に染まっている。怒りの炎のようだ。
「きゅ! きゅ! 吸血鬼! し! しかも完全なる深紅の髪! 始祖じゃねえか!」
ハボックは蛇に睨まれた蛙のように、ピクリとも動けない。
「あいつは何を怯えている?」
「己が今までどれほど己惚れていたのか、ようやく理解したのでしょう」
「お前、弱い! ジークのほうがかっこいい!」
「ジークに剣を向けたっていうから、どれくらい根性あるのかと思ったが、期待外れだ」
無数の蠅や蝶、蛾、蟻、蜘蛛、蚊が集まり、ベルが姿を現す。
樹木が舗装路を突き破る。そして樹木はラファエルへ変わる。
物陰に隠れるスライムが集まって青子となる。
雷が一つ落ちて、バトルが降臨する。
「虫の女王ベルゼブブ! 大地の精霊ラファエル! す、スライムに始祖なんていたのか! 額に赤黒く輝く角! 鬼神まで!」
ハボックは圧倒されるだけであった。目の前の光景が信じられなかった。
伝説の、恐ろしい魔物が、悪夢のように、続々と現れるのだ。
異変は終わらない。
ネズミが、蛇が、牛が、続々と人型となっていく。
ジークの母親たちが姿を現す。
「な、なんで接近禁止ランクの魔物が!」
冒険者ギルドが魔物につけるランクは、冒険者のランクに対応している。
Aランクの魔物はAランク以上の冒険者しか討伐できないという感じだ。
そんなランクに、一つだけ、特別なランクがある。
それが接近禁止ランク。
近づくことすら許されない、魔物の姿をした災害。
刺激してはいけない。もしも怒らせれば、世界が滅ぶ。そんな、神話やおとぎ話の中でしか語られない存在が目の前を闊歩する。
生暖かく臭う小水が、ズボンを濡らしていく。髪が恐怖で白髪へ変わっていく。
「母さんたち! もう! 僕一人で大丈夫だって言ったのに!」
対してジークはいつも通り、母親たちにふくれっ面を見せる。彼女たちの前では、まだまだ子供だ。
「皆、ジークが心配なんだ。分かってくれ」
彼女たちはジークに微笑みかける。ジークの前では、母親なのだ。
「しょうがないなぁ……邪魔しないでよ」
ジークはため息を吐くと、ハボックに向き直る。
「お前、何者だ!」
ハボックはカクカクと笑う膝を必死に押さえる。立っている。それだけで勇敢だ。
「僕は魔物の王で、母さんたちに育てられた魔物の子さ」
ジークはゆっくりと歩む。その表情に、いつものような温和な雰囲気はない。
数兆の魔物を束ねる、冷徹な魔物の王の顔だった。
「魔物の王? 魔物の子? あれ! マジだったのかよ!」
ハボックは剣を構える。
対してジークは腕すら上げない。ただ、無防備に見えるほどゆっくりと、歩くだけ。
「信じてくれなかったのは、仕方ないと思う。だから気にしてない」
ジークの表情が険しくなる。ハボックの足が自然と下がる。
「君は僕やヴァネッサに剣を向けた。明確な敵対行動だ。許してはおけない」
ジークがメキメキと拳を握りしめる。
「ぐ! ぐ!」
ハボックは必死に考える。生き汚いハボックは、こんな状況でも、何とか生き残る方法を探す。
答えは、無かった。
「てめえのせいで俺は女に振られた! お前が居なけりゃチームの女は俺の物だった! だから死ね! 死んで償え!」
ハボックは完全に発狂した。剣を振り上げ、ジークに突撃する。
剣は刀匠が鍛え込んだ名刀、鎧は100の剣すら受け止める逸品。
Aランクの魔物なら、簡単に殺せる。Aランクの冒険者でも、簡単に殺せる装備だ。
さらに身体強化の秘薬も飲んでいたので、常人では見切れないほどの速さだ。
「一つ」
ジークは静かに、一歩、足を踏み出す。
ビキリと地面に亀裂が走る。
ハボックとの距離は迫っている。しかし、眉一つ動かさない。怯えの一つもない。
「二つ」
さらに一歩足を踏み出し、拳を構える。
バキリと地面が割れる。
ハボックが目前で剣を振り下ろす。
「三つ」
三歩目と同時に拳を放つ。
ジークはハボックよりも遅く攻撃した。
それなのに、ジークのほうが、速かった。
ポンッと、ハボックの上半身は、跡形もなくはじけ飛んだ。
「終わった」
ジークは残されたハボックの下半身を見て、嫌な顔をする。死体を見て喜ぶ趣味は無かった。
「お疲れ様。頑張ったわね」
ジルは優しくジークを抱きしめる。
「ありがとう」
ジークはホッとため息を吐く。嫌いな奴でも、殺すのは気分が悪い。
「今日は一緒に寝ましょう。子守歌を歌ってあげるから」
ジルはワープでジークとともに、町から消える。
「要らぬ心配じゃったな」
タマモがパチンと指を鳴らすと、国中の明かりが戻る。
「役目を果たした。とても立派だ」
ベルの体から湧き出る虫が、ハボックの死体を跡形もなく食らいつくす。
「王としての責務。本当に大きくなった」
ブラッドがパチンと指を鳴らすと、死んだように眠っていた人々が目を覚ます。
「皆! 今夜はジークにおっぱいを飲ませるぞぃ!」
リムの号令で魔物たちは続々と姿をくらませる。
「……え? 寝てたのか?」
魔物たちが居なくなった後、人々は首を傾げながらも、いつも通りの生活に戻る。
今日も、ゴルドー国は平和だった。
難しかったが、楽しんでいただけたら幸い。




