第1話
ガラス張りの温室一面には大輪の薔薇が咲き誇り、その一角には試験管やフラスコ、あらゆる実験結果から導かれた方程式と、その方程式を崩さないための温度調整をする場所を設けた。
薔薇の芳醇な香りが立ち上がるのを目視してから、レイディアはスポイトで予め抽出しておいた薔薇の香油を数滴発酵させたアルコールの中に入れて混ぜる。
薔薇の形を催した専用瓶に液を詰め、上部を抑えると、液体は細かく噴射された。
「完成したわ!」
レイディアの歓喜の声に、研究員たちの拍手が湧く。
そう、レイディアはあの時ウィルの言葉から連想した。
人間の嗅覚はその人のイメージを作り上げることができる。
真っ黒な髪に金の瞳が特徴的なレイディアの顔は、無駄に整っているせいできつく見られがちだ。薔薇園があることを知っている第三王子からすると、レイディアの顔はさぞ華やかで刺々しい薔薇のイメージだろう。
しかし、レイディアが昨日入ったお風呂はミルク風呂である。薔薇園など花に興味がないレイディアは近付いていないため、薔薇の香りなどするはずがないのだ。
現代の貴族達は入浴の際に薔薇を浮かせたりして香りを保っていた。しかしそんな薔薇本体では香りなど持続しないだろう。
そこで、レイディアは匂いの根源となる部分は何処なのか、屋敷の薔薇園を半分以下にして辿り着くことができた。
そして、続いてはそれの量産であった。どうすれば量産できるのか、薔薇を増やすしか方法はないのか、答えはいたって簡単だった。
薔薇の香りを抽出した液体を量産するためには、菌を増やせばいいと考え付いたのだ。
しかし、菌はそう簡単には増えてくれない。温度調整がここでかなり重要になってきた。
そこで完成したのが、いつでも何処でも薔薇の香りを身に付けていられる。
持ち運び簡単で若い貴族が欲しがりそうな見た目を兼ね備えた『香水』の完成だった。
「しかし、レイディア様。こちらをどう販売するおつもりなのですか?」
研究員たちの質問に、レイディアはもう策が出来ている。と笑ってみせた。
革新的な商品は皆が好まなければ消える脆いもの。出だしを間違えれば、これまでの苦労は水の泡になる。
「ーーー私が広告塔になります」
周囲が一斉にどよめくのがわかった。
それもそのはず、令嬢が商売するのに表に出るのも、ましてや宣伝することも前代未聞だからだ。
レイディアはウィリアムの言葉を思い返す。
「皆が動揺するのも無理はないでしょう。この派手な顔付きで碌な経験はしてきませんでした。しかし!他の貴族令嬢様方は可憐で淑やか極まりない!悲しくも私以上に薔薇の似合うご令嬢はいないことでしょう」
レイディアは熱弁に語り、ニッコリと口角をあげた。
「悪い噂でも良い噂でも、より話題性を生むほうが商品価値として高くなると思いませんか?」
華奢な指先で薔薇を持つレイディアの酷く妖艶な笑みに、コソコソと様々な言葉が飛び交う。
「悪い笑みだ」
「レイディア様の笑顔はどうも人一人殺してそうなほど酔狂で美しい」
褒められてないと聞き漏らさなかったレイディアは発言した研究員にひと睨みし楽しそうな表情で細菌の観察一週間の刑を宣告したのだった。
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「年頃の貴族令嬢は化粧と同等に香りにも積極的になるでしょう。そこで、まず半年間のターゲット層は若い貴族令嬢に限り販売することにします」
太陽がてっぺんに昇った午後の昼下がり、レイディアは香水開発により携わってもらった重役たちを収集して考えた商法を説明した。
「現段階では薔薇の香りしか販売はしません。1ヶ月を目処に新作を発表して、香りの種類を増やしていきます。若い貴族令嬢はより新しいものを好み、自分だけの香りを欲しがることでしょう。」
レイディアは、その光景を予想しただけで高笑いが出そうになったのをグッと堪える。
「そこを見計らってターゲット層を貴族夫人へと広げます。そうですね、アドウッド公爵夫人から声を掛けましょう。あの方は今でも社交界を賑わす程の美貌の持ち主。美魔女とさえ噂されるあどけない顔付きは齢40には到底思えない程、アドウッド公爵夫人のお名前はフリージア、花言葉も公爵夫人にぴったりのところを見るに最初の専用香水を使っていただくのに相応しい方でしょう」
「そんな大物とどのようにしてコンタクトを…?」
重役の一人が怪訝な顔つきで手を挙げるのを一瞥してから微笑んだ。成功する考えがあったのだ。
「そこはなんら問題のないこと。まずは早速始動しましょう」
レイディアが広告塔として活動する最中、より真面目で研究の好きなドイルに香水制作の指揮を任せることにして、レイディアは真紅のドレスへと着替えるため会議室をあとにした。
長い屋敷の廊下を歩いていると、後ろから同じ歩幅で付いてくる人影に気がついた。
振り返らなくても分かる。
「覗きですか?ウィリアム様」
歩む足を止めると、後ろの人影は歩みを止めずにレイディアの前まで来た。
「堅苦しい呼び方はやめてほしいとあれほど言ったのに、つれないですね」
世間では病弱と噂される第三王子のウィリアムは見た目がとにかく中性的であった。女性のように白く透き通った肌と髪と瞳、瞳は片方だけが王族の印である紋が碧の瞳に浮かんでいた。
彼が言うにこの姿は生まれつきらしい。異質として生まれたウィリアム王子は存在を隠して生きてきた。日に焼けない肌、全身の色素が抜かれたその姿は息を呑むほど美しいかわりに危険も多いと陛下は考えての結果だろう。
ウィリアムとの初めての出会いは陛下から直々の御達しであった。
当初ウィリアムが王子など知る由もなかったレイディアは、ウィリアムの姿を大層気に入ってしまう。顔が整っていると、こうも着ているものまで違って見えるのかと思い、ある商法に辿り着いた。
それがモデル商法である。素敵な人が身につけているものは欲しくなる。
これは商法として活用できるのではないのか。
今までは素敵な貴婦人達が気にいると人気商品となっていた。そこでレイディアは宣伝効果を得られると考えたのだ。
「ーーーウィルのおかげで革新的なものを生み出せたわ。今日は何がなんでも失敗はできないの」
ウィリアムの愛称として、ウィルと呼んでいたあの頃。レイディアは革新的アイデアの核心を突いてくれたウィリアムの為にもと、絶対今夜のお披露目は成功させたかった。
「僕も手伝おうか?」
ボス戦へ挑むような面持ちで通り過ぎようとすると、ウィリアムの低いテノール声が静かな廊下に一層響いて聞こえた。
「何を言ってるの」
いや、ウィリアムが言いたいことは分かる。賢く美しいウィリアムの言いたいこと、それは注目を集めるのに自分を利用すればいいと思っている。
「ウィル、貴方の容姿は目を惹くわ。でも、陛下さえ悩まれていることを易々と実行するわけには」
第三王子のウィリアムは病弱故に、まだ社交界デビューもしていない謂わばミステリアスな存在。
第三王子の噂も尾ひれ背びれが付いており、凄く自堕落な性格のせいで肥満体型の不細工だから表を歩けないらしいという噂から、実は姫なのではないかと囁かれている始末。
それに比べれば、実際表に出たとき皆の想像を遥かに超えるだろう。
「僕は良い考えだと思うけどな陛下も僕が幼い子どもではないと思っているだろうし、もし危険なことがあれば対処するくらいの力はあるよ」
にっこりとした笑みを向けられたレイディアはどうすればいいのか項垂れていると、ウィリアムは追い討ちとばかりに耳打ちしてきた。
「話題性はいつの時代も最大の武器。だろう?」
そう。これはレイディアが掲げた方針でもある。しかし、それにウィルを巻き込んでもいいのか。それに悩んでいるのだ。
「僕がレイディアと社交界へ出れば、その香水を最大限に活かしたパフォーマンスをしてみせるよ」
目の前にはオッドアイを細めて笑うウィリアムの姿。レイディアは大きく溜息をついて、頭を抱えてから言葉を絞り出した。
「…忙しくなるわ」
苦悩の末レイディアが出した言葉に、ウィリアムは最大の笑顔を見せるのだった。
「レイディアと一緒なら本望だ」