最終話
風呂で考えていたことをもう一度考える。
俺は間違いなく、良い少年時代を過ごしていた。
温かい人たちに囲まれて生きていた。
そのことを別に忘れていたわけではなかった。が、自分にとっての幸せが何かということはずいぶん前から忘れていたらしい。
元の時代に戻ってやりたいことができた。
まずは実家に帰ろう。両親にほんの少しでも親孝行をしよう。
たまに同僚と飲みに行こう。愚痴をこぼしたり、くだらない話をしてもいい。
兄と連絡を取ろう。また一緒にゲームをするのも悪くない。
それから昔の友達にも連絡を取ってもいいかもしれない。生きているうちにもう何度かは会いたい。
彼女を作ろう。共に生きていく人が欲しい。
現実は間違いなくクソだ。疑いようがないくらいクソだ。
仕事も社会も全部クソだ。自分だってそのクソの一部に過ぎない。
でもそんなクソまみれの世界の中で、美しいものは、幸せは確かにあったんだ。
それに気付かなかったわけじゃない。
俺は、それを見つける力を、長いこと使わなくなっていただけだ。
そこまで考えて、
突然、意識が遠のき始める。
子供の頃、毎日見ていた天井が、ぼんやりと滲んでいく。
薄れゆく意識の中で、なんとなく予感というか期待のようなものがあった。
帰ったら、まず何をしようか・・・・・
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気が付くと、俺は自宅の暗い玄関にポツンと立っていた。
自宅と言っても、実家じゃない。大人の俺が住むぼろいアパートの汚い一室のことだ。
全身から汗が噴き出している。頭から水をかぶったんじゃないかってくらいに汗だくだった。
腕で額の汗を拭い、気付く。腕時計の針はちょうど12時を指していた。
とりあえずカバンを置いて外に出る。夜だ。
あの瞬間から全く時間が経っていないようだ。急いでスマホを出して日付を確認するも、日付はしっかり一日進んだだけであった。どうやら浦島太郎にはならずに済んだらしい。
つまりなんだろう。俺は白昼夢ってやつを経験したことになるのだろうか。夜なんだけどさ。
何はともあれ、アパートの階段を降りて、灰皿の元へ向かう。
タバコに火をつけて、思いっきり大きなため息を出す。
大変な経験をしてしまったという興奮と、戻ってこれたという安心感が入り混じって、とにかくタバコを持つ手がプルプルと震える。
一本吸い終わって、ようやく少し落ち着いてきた。
やりたいこと、やらねばならないことがある。
強い決意の火のようなものが心に灯っていた。
まだ若干震えが残る手で、スマホを取りだし操作する。
メールアプリを開き、新規作成。宛先は母親。「今度の休みに帰る」とだけ打ち込み送信する。
一つ一つやっていこう。ずいぶん長い間なおざりにしてきたことだ。
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暑い。
もうすぐ日付が変わる時間だっていうのにバカみたいに暑い。肌に張り付くワイシャツを濡らしているその成分が、俺の汗と、さっきまで満員電車の中で触れ合っていたおっさんの体液とが入り混じったものだと考えると、吐き気がこみあげてくる。今すぐ全部脱ぎ捨てて全裸で走り出したくなる欲求を抑えながら、俺は帰り道を歩く。
相変わらずいつものコンビニでいつもの発泡酒を買って、飲みながら歩く。
あれから何か変わったかと問われれば、そこまで劇的な変化はなかった。
やっぱり毎日クソみたいな仕事をして、満員電車で不快な気分を味わって帰ってくる。ただ最近パチンコはあまり打ってない。休日は他にやることがいくつかできてしまったから。
見た目だけの変化はそれだけだろう。
しかし、内面は変わったように思う。
最近はそんなに絶望していない。何より、考えて生きるようになった。
パスカルは人間は考える葦であるという。人間は弱くてちっぽけだが、考えるから尊いのだ、っていうことらしい。
前の俺は考えることを放棄しようとしていた。パスカルの言うことが本当なら、考えることをやめた俺などただの葦である。風が吹けばなびき、ほんの少しのことで折れてしまう。そこに尊厳はない。
それは、とても悲しいことだ。
自分で自身の尊厳を放棄する、それはつまり自分という人間の価値を否定するのと同じだ。
他人に認めてもらえるかも分からない自分の価値を、自分すら認めなくなったら、そんな自分なんて死んでしまってもいいとさえ思うだろう。
俺は、もう少し生きていたい。やりたいことがあるから。返したい恩があるから。
だから俺は考える。これからも考えて生きていく。
あっという間にまた自宅横のオアシスに辿り着く。
いつも通り缶とカバンを地面に置き、タバコに火をつける。
吸い込んで、吐き出す。
ここまで読んで頂いたこと、稚拙な文章に付き合ってくださったことを心より感謝申し上げます。
もしよろしければ、ご指導、ご鞭撻でも何か感想をくださると大変嬉しく存じます。




