第三話
家に着いた。着いてしまった。
自転車を停めて、ドアの前に立つ。
鍵は持っていない。確かいつもインターホンを鳴らして、母親にドアを開けてもらっていた。
家に入る勇気が出ない。
しかし、いつまでもこうしているわけにもいかない。
覚悟を決めて、インターホンを鳴らす。
とっとっ、とドアの向こうから小走りで母親が近づいてくる足音が聞こえる。
ひどく緊張して、手汗をかいていることに気づいた。
ドアが開き、母親が出てくる。
「おかえり。遅かったね?」
何と応えればいいか分からず、適当に、ん、みたいな返事をした。
衝撃を受けた。母親が若く、そして自分よりも背が高い。そんな当たり前のことにびっくりした。
母親は訝しげな表情をしながらこちらを見てくる。
怪しまれないようにそれっぽい質問を投げかける。
「今日の晩御飯何?」
「カレー。匂いで気づかなかった?」
「おお・・・言われてみればそうだ。」
若干ドジは踏んだが、何でもないような顔をして家に上がる。
後ろに視線を感じながら、居間に向かってテレビをつけようとする。
「手洗いうがい」
ぴしゃりと指摘を受けて、忘れてた、なんて言いながら洗面所へ向かう。
これでツーアウトだ。もうワンアウトでチェンジである。何のチェンジかは自分でも分からない。
やべーよ超不自然だよ俺、なんだこれは、なんで実家でこんなに緊張しなきゃならないんだよ。
手を洗い終えて、今度こそ居間でテレビをつけようとして、横に当時遊んでいたゲーム機があることに気付いた。あまりの懐かしさにソフト一つ一つを手に取って見ていく。ああ、こんなので遊んでたな。いつの間にかゲームなんてやらなくなったし、そもそも今じゃやる暇もないけど。そんな風にゲームソフトをじっくり吟味する作業は、俺に冷静さを取り戻させてくれた。
そうこうしている間に、兄と父親が帰ってきた。今度は普通に対応することができたと思う。
見計らって、母親が食卓に家族の食事を用意していく。
俺はそれに素直に感動する。
仕事を始めてからはめったに実家には帰らなくなっていた。言い訳かもしれないが、仕事が忙しくてプライベートに気を回すのも面倒で、彼女もここ数年できていなかった。だから誰かにご飯を準備してもらえるのも、誰かと家で一緒にご飯を食べるのも本当に久しぶりだった。
家族全員が食卓につき、いただきますを言って食べ始める。
いただきます、なんて言うのも久しぶりだった。
カレーはめちゃくちゃ美味しかった。ただのどこの家庭でも出るような、なんなら一人暮らしの人でも気が向いたときに作る、一般的なカレーだ。ただそれがすごく美味しかった。誰かが手をかけて作ってくれたっていうのが本当に嬉しかった。
食事中の会話は特に弾んではいなかったが、ついているテレビ番組のことについてみんなでぶつくさ言いながら食べていた。ほんのそれだけが、嬉しかった。満たされた。
誰かと一緒にご飯を食べることがとても幸せなことだと、改めて実感させられる。
晩御飯の後はすぐに風呂に入った。
湯船に浸かると、心の底にある凝り固まった何かがほぐれていく気がした。それから今日のできごとをぼんやりと思い返していた。
楽しくて、温かくて、ほっとした一日だったなあ・・・。
全てが新鮮だった。一度経験したことがあるはずなのに。どうしてだろう?大人の俺に無くて、少年の俺が持っているものがたくさんあるからだろうか。考えてみればおかしな話だ。大人になって、自由が増えて、色々なことができるようになっていたはずだ。
大人の俺は免許を持っている。車は持っていないがレンタカーを借りれば好きなところに行くことができる。お金だってそんなにあるわけじゃあないが、上手く休みを利用すれば旅行にだって行ける。その気になれば世界中どこへでも行くことができる。
お酒も飲めるし、タバコを吸ったっていい。最近風当たりは強いけどな。
きっとそんなことじゃ、自由が増えるなんてことでは満たせない何かを少年の俺は持っている。
下らないことで笑い合える友達?違うな。俺は同僚と仲が悪いわけじゃない。喫煙所で会えば、年甲斐もなくバカな話で盛り上がる。最近疎遠になりかけているが大学時代の友人だって会おうと思えば会える。
生活を共にする家族?確かにこれはいない。しかし実家に帰れば、両親には会えたはずだ。帰らなくたって、便利な世の中だ、連絡を取る手段なんていくらでもある。寂しいなら、面倒だが彼女を作る努力をすればよかった。
少しずつ分かってきた。
俺はいつからか、心の中の何か大切なものを感じ取る機能を、動かさなくなっていたのかもしれない。それが今日、こんな訳の分からない体験をして久しぶりに動いているのかもしれない。
風呂から上がると父親がコンビニでアイスを買ってきてくれていた。そういえばこの人は普段は無口で無愛想だが、こうやってたまに甘やかしてくれたのだ。俺はこの恩を今返せているだろうか。確か初任給で何か贈り物はしたが、それ以降は何もしていない。
その後は兄とゲームをした。実はもう兄とは何年も会っていない。最後に会ったのがいつかも思い出せない。久しぶりに話した兄がすごく懐かしく愛おしくなった。今あの人は何をしてどこで生きてるのかな。
そうしているうちに、母親に寝なさいと指摘を受ける。
名残惜しい気も少ししたが、素直に自室のベッドにもぐりこんだ。
心境は完全に変わっていた。
こんなに簡単に人の心とは変わるものか。
俺は、元の時代に戻りたかった。
読んで頂き、誠にありがとうございます。




