③
止まっていた時は、いくら願おうとも、いつまでも止まってはいられない。そもそも、本当のところは、一秒だって止まってなどいないのだし。
しかし本来は止まっていないはずの時が止まって、一体どのくらい経ったのか?
思考停止状態で止まっていた三人の時が、再び時間の流れを意識し、その動きを再開させたきっかけは、外から聞こえた見知らぬ男の声だった。但し、芦の部屋を訪ねてきたわけではない。隣の部屋を訪ねてきたのだ。チャイムの音とともに聞こえた声は、その人物の素性を知らせていて、それが聞こえてしまったからこそ、芦達は我に返らないわけにはいかなかった。
感じていた嫌な予感が予感で済まなかった、その事実を知ってしまった以上は。
「こんにちは! 黒熊引っ越し業者です!」
「はーい」
訪ねてきた男に、暢気に返される隣人の返事。
しかしその暢気な声は、薄い壁越しに聞こえてしまう三人に、とてつもない感情の波乱を巻き起こすものだった。特に、井雲にとっては。
咄嗟に、三人は指し示していたかのように、みーさんを見た。それはまるで、縋るような眼差しだったのだが、当のみーさんは視線の意味が全く理解出来ていないらしく・・・、もしくは、全く違う意味に解釈したようで、三人の視線を誇らしげに、心持ち胸をそらして受けると、再び力強く頷いたのだ、もう、言葉がなくても全て伝わるほどの力で。
瞬間的に、三人は視線を交わした。それは、既に慣れてしまった確認作業で、誰が部屋に残り、誰が動くか・・・、つまり、誰がみーさんの面倒を見る係りになり、誰が実働部隊として事態の確認を行うのか、という確認だった。
いつもなら暫しの時間を要する確認だが、しかし今回は短時間で決着する。理由は今回の事態の直接的な原因になっているのが井雲で、事件が起きている位置的に芦もまた、当事者の一人と数えるしかない状態だったからだ。つまり、留守番、みーさんの世話役には宇江樹が決定した、というわけで。
確認を終えた三人は、すぐさま行動に移る。宇江樹はともかく、基本的に芦と井雲は腰が重い人種なのだが、この場合、居ても立ってもいられない状態で、動かずにはいられなかったのだ。その為、宇江樹がみーさんを囲い込むような体勢をとって、他の二人にくっついていかないように保護するのと同時に、一番焦っている井雲を先頭に、二人はドアに向かって駆け出す。
別段駆け出すまでもない距離しかないのだが、それでも気持ちが急いている二人は競うようにドアに取り付くと、一度背後を振り返ってみーさんの状態を確認し、それから慌しく外に飛び出した。勿論、飛び出してすぐにドアを閉めることは忘れない。これだけは、どれだけ急いでいても反射的に動けるように、身体が生命維持活動に似た重要さで覚えているのだ。
しかしきっちりとドアを閉め、とりあえず背後の心配事を全て片づけた後の二人の目の前に広がる光景は、無情すぎるほど無情な現実だった。予測されてしかるべき現実で、実際、予測どころか確信までしていた現実でもあったのだが、それでもまだ、信じたくないと藁にも縋るような気持ちでいた二人は、掴んだ藁がやっぱり藁に過ぎなかったことを哀しいほどに突きつけられてしまったのだ。
所詮、藁が神様に叶うわけがないのだ、と。
──何故ならすぐ傍、お隣では、誤解しようのないほど分かりやすく、引っ越し作業が行われていたのだから。
「あ、すみません! 煩かったですよね?」
「い、え・・・、そういうわけじゃ・・・、」
「先にご挨拶しないとって思っていたんですけど、急に決まってしまって、とにかく急いで荷造りしないとって・・・、大して荷物ないんで、すぐに終わると思うので・・・、もう少しだけ待ってもらっていいですか?」
「いやっ、全然、音くらい大丈夫なんですけど・・・、なぁ?」
「え? あっ、そうそう! 俺達、そこまで繊細じゃないし!」
「いや、でも、本当にすみません」
「全然気にしないでください! でもっ、あの・・・、引っ越しちゃうんですか?」
丁度、引っ越し業者と話していたらしい隣人の青年は、呆然と佇む二人の姿に気づいたらしく、慌てた様子で駆け寄ってきて、とても丁寧に頭を下げてくる。
その誠実な仕草に、元々腹を立てていたわけではない二人は、慌てて『怒ってません』アピールをするのだが・・・、聞かないわけにもいかない問いが残されていたので、殆ど決死の覚悟で井雲が切り出した。
その顔には、悲壮な覚悟とどうしようもないほどの罪悪感が滲んでいる。
「あっ、はい、そうなんです。ちょっと、急に決まったんですけど」
質問と釣り合っていない深刻な表情を浮かべて、同じく質問と釣り合っていない深刻な声で問いかけてくる井雲の様子に不思議そうな顔をしながらも、親切な隣人・・・、間もなく、元がついてしまう隣人の青年は、とても丁寧に教えてくれる。
話す度に顔色がいっそう悪くなる芦と井雲の様子に、次第その表情を心配そうなものに変えながらも。
弟が実家を出て、一人暮らしをし始めたこと、
部屋が少し広くて、家賃もその分高いので、一緒に暮らそうと誘われていたこと、
いくら兄弟とはいえ、同居していると息苦しいかもしれないと思って躊躇していたこと、
──それなのに、何故かつい先ほど突然気が変わり、思い切って引っ越し業者に電話したら、急遽の引っ越しとなったこと。
「もう、結構前から誘われてはいたんですけど、やっぱり、兄弟とはいえ二人暮らしって、色々あるからと思ってずっと躊躇してたんですよ。ほら、この部屋って、広さのわりに家賃も安いじゃないですか? 気に入っているし、だからあまり同居する気はなかったんですけど・・・、何故か突然、気が向いたんですよね。別に何かきっかけがあったわけでもないんですけど、なんか、閃いた、みたいな」
「・・・閃いちゃった、んですか」
「そうなんですよね。何かが降ってきた、みたいな」
「・・・降ってきちゃった、んですね」
「そうなんですよ。自分でも、何でなのかが全然分からないんですけどね。それで、とりあえず弟に電話したら、もう今すぐ来てくれ、今日からでも家賃折半しようって騒ぐんで、業者さんに電話したらとんとん拍子で進んじゃって・・・」
「あっ、あの! でも、そんなに急に引っ越しってオーケイなんですか? 大家さんは・・・」
「それが、さっき電話したら、あまり例にないことだけど、まぁ、いいですよって。家賃も、今日まででいいって。まぁ、敷金から修繕費は引くよとは言われてますけどね」
「い、いいんだ・・・」
「たぶん、大家さん側が損になるとは思うんですけど・・・、なんか、大家さんもなんだか協力してあげたい、みたいな気持ちになったっていうんです。何故か突然、心の広さが拡張された感じなんだよね、って」
「・・・拡張、されちゃったんですね」
「・・・スゲェな」
「あの・・・、大丈夫ですか? なんか、凄く顔色が悪い気がしているんですけど・・・」
「・・・大丈夫です」
「・・・もう、大丈夫にするしかないんで」
「そ、そう、ですか? えっとぉ・・・、それじゃあ、僕、作業に戻らないといけないんで・・・」
「あっ、すみません! 忙しい時に」
「いえ、こちらこそ、急な引っ越しで騒がせて、すみませんでした」
「あっ、全然、大丈夫です!」
「作業、頑張って下さい」
とても親切な隣人は、元隣人になるべく、作業に戻っていった。
芦と井雲は、多少引き攣った笑顔で、その隣人を見送る。見送って・・・、すぐ隣の芦の部屋のドアに縋りつきながら、震える声を零す。もうどうしたらいいのか分からないという感情に、激しく揺さぶられながら。
「・・・俺が、ここに引っ越したがったばっかりに、これなのか」
「・・・凄いよな、神様って。凄いよな、みーさんって」
「どうしよう、これ、マジ、どうしたらいい?」
「まさか、ここに住みたいっていう願いで、隣がこんなに急遽、空き室になるとは・・・」
「確かに住みたかったけど! ここ、超良い物件なんだもん! そりゃ、住みたくなるだろ!」
「キミ、ここに引っ越し希望なの? 芦君の友達だよね?」
二人して芦の部屋のドアに縋りつきながら、額をドアに押し当てながら、互いの顔すら見ずに交していた会話は、急に聞こえてきた年配の男の声によって急遽、中断された。
聞き覚えがあるような、ないようなという中途半端な記憶がある声に、二人揃って慌てて振り向けば、そこには一体いつの間に現れたのか、やっぱり見覚えがあるような、ないような声の通りの年配の男が立っている。
穏やかそうな顔に、多少の驚きを滲ませてはいるが、優しげな笑みを浮かべて近づいてくる人の正体を先に思い出したのは芦だった。よく芦の部屋に出入りしている為、数回、見かけたことがある程度の井雲よりは関係がある芦が思い出すのは、当然といえば当然だったのだが。
「あっ! 大家さん! お久しぶりです!」
「うん、お久しぶりだね。元気かな?」
「はいっ、元気です!」
家賃の支払は振込みの為、平素、顔を合わせることもあまりないのだが、それでも一応、記憶には残っていたらしい大家の登場に、顔だけを振り向けた状態だった二人は勢い良く身体ごと向き直り、何故か直立不動で立ち尽くす。
芦がその直立不動のまま挨拶している傍らで、突然、家賃収入を減らすような真似をしてしまったという自責の念が激しく込み上げている井雲は、額から汗が止め処もなく流れ始めるのを感じていたのだが、拭う心の余裕すら持てないまま、立ち尽くしている。
するとそんな井雲の不審な態度に気づかないのか、それとも気づいていても気にしていないのか、大家は芦ではなく、井雲にその視線を移して口を開いたのだ。何かを、期待するような眼差しで。
「もしかして、この部屋に入居希望なのかな?」
「・・・え? あ、えっとぉ」
「いや、住みたかったって声が聞こえたからね」
「あ、まぁ、そう・・・、ですね。ここ、良い部屋なんで・・・」
「そうか! じゃあ、良かったらどうかな?」
「・・・え? それは、その・・・、住んでいいって、ことで・・・?」
「もう聞いたかもしれないけどね、急に引っ越しが決まっちゃったから・・・、ほら、空き室にすると勿体無いでしょ? これから募集かけないとって思っていたんだけど、丁度良いなって思ってね。変な人に入られたら困るけど、キミ、よく芦君の部屋に来る子でしょ? 芦君も、もう何年もトラブルなく住んでくれているから、その芦君のお友達なら間違いないかと思ってね。だから、良かったらどうかな?」
「あのっ、それは・・・、」
「急な話だから、礼金は要らないよ? 敷金だけでいいからさ」
二人の全身から噴出している汗は、尋常な量ではなくなっていた。これが超常的な力ではない、ただのラッキー現象であるなら、井雲はすぐさま頷き、芦もその幸運を共に喜んだことだろう。しかし二人は・・・、否、外の声が聞こえてしまっているだろう宇江樹を含めた三人とも、この現象が普通のラッキー現象ではないことを痛いほどはっきり、知っていた。
これは間違いなく、お堂に収納しきれないご利益だと。
数秒、半端ない汗を流しながら、二人は躊躇した。しかしそれ以上は、迷えない。あまりに迷い続けてしまえば、今度は敷金まで取り上げられてしまう可能性があるからだ。
・・・敷金まで取り上げられるという表現を、通常、するかどうかは別として。
しかし、そういう可能性があり、また、これがご利益だと分かっている以上、受取拒否なんて偉そうなことを出来るわけもなく・・・、何より、これは井雲自身が欲しがってしまったご利益でもあるわけで。
「・・・あの、じゃあ・・・、宜しくお願いします」
「そうかっ、良かった! こちらこそ、宜しくね。じゃあ、あとで契約書一式持ってくるから・・・、あ、今日はまだ、芦君の部屋にいるかな?」
「あ、当分います」
「それなら、後で芦君の部屋に持って行くね」
「・・・はい、お願いします」
井雲は、半笑いのようなおかしな表情で、頭を下げた。
芦もまた、半笑いのようなおかしな表情で、頷いた。
人間、どうしようもない事態が発生した場合、半笑いしか出来ないように出来ているらしい。
*******
・・・部屋には、哀しいほどの沈黙が落ちた。理由は、改めて経緯と結論を話したことによって、宇江樹が現実を受け止めきれずに停止し、他の二名が改めて現実を受け止めて、潰れた所為だった。
しかし、当然、永遠に停止したり、潰れたりしているわけにもいかない。人は死なない限り、生きていかなければいかないからだ。
「・・・まぁ、良かったよな。結果的にはさ。隣の人だって、困っている感じじゃなかったし」
「隣はともかくさ・・・、いや、ともかくってのもアレだけど・・・、でも、大家さん、損しているよな?」
「オマエという、新たな借主現れたんだから、大丈夫だろ」
「でも、礼金なしですよね」
「・・・うーさん、それ、言わない」
「あっくん、うーさん・・・、俺は一体、どうしたら・・・」
再び落ちる、沈黙。
三人が三人とも、目を瞑ってその沈黙を感じていると、意識の彼方から、点けっぱなしにしているテレビの音声が聞こえてくる。
内容は、先日も話題になった、亡くなった有名芸能人の遺産相続問題の続報だ。あんなにも奪い合い状態だったくせに、相続税が莫大で、特に持っている土地が大した値段にならない地域の為、今度は押し付け合いをしているらしい。
押し付け合いをされる土地・・・、何となくタイムリーな話題の気がして、いっそう、場は静まる。その所為で、やけに感情剥き出しの罵り合いがはっきりと聞こえるのだが。
しかしそんな深い沈黙の中、重すぎる沈黙に耐え切れなくなったらしい芦が、とうとう音を上げるように、声を発した。
「引っ越し・・・、手伝うぞ?」
「・・・どれを持ってくればいいと思う?」
「・・・ゴミと荷物の選別は自分でやれよ。ゴミ以外なら一緒に運ぶから」
「あっ、あの! それを持って心がときめいたら、それは必要な物だって、整理のプロがテレビで言ってましたよ!」
「俺の心はときめきっぱなし、ドキドキしっぱなしなんだけど・・・?」
「・・・いっくん、それ、別のドキドキだと思う。たぶん、俺もしているヤツ」
「・・・僕もしているヤツですかね?」
「そうだと思う」
三人ともが、次第に前屈みになり、胸を両手で押さえ始める。
そこで鳴り響く轟音が、身体の上から両手で押さえた程度で収まるわけもないのだが、そうせずにはいられない心がそこにはあったのだ。ほんの僅かでもいい、押さえ込みたい、という心が。
しかしそうして必死で押さえ込んだところで、本人達の希望通り、多少なりもと押さえ込めるのは胸の轟音だけだった。野放し状態になっている耳は全ての音を拾ってしまい、特に、とても愛らしい、無邪気な声は何の躊躇もなく、耳に入ってきてしまって。
「みぃー!」
とても、とても嬉しそうな声だった。とても、とても素直に楽しそうな声だった。
前屈みになっていた三人は、半ば無意識に体勢を立て直し、弾かれたようにその声の先へ視線を向けるのだが・・・、勿論そこには、愛らしく無邪気な声の主であるみーさんがいて、いつも釘付けになっているテレビ画面に背を向けてまで芦達の方を向いて立っており、両手を挙げた万歳のポーズをとってにこにこと笑っている。
おそらく、井雲が隣に住んでくれて嬉しい、もしくは、井雲の望みを叶えてあげられて嬉しい、という気持ちの表れであるポーズ。
・・・たとえお堂の収納が限界を迎えていても、こういう、お堂に入れないで済む形でご利益は増えていくんだな。
にこにこと笑うみーさんに、三人は日本人ならではの曖昧な笑みを浮かべながら、同じことを思う。笑みは浮かべているし、顔はみーさんに向いているが、視線だけはここではない、どこかに飛ばしながら。
間違いなく、ある種の悟り状態に入っているのだろうが、人間固有の状態なんて、神様、ましてや幼いみーさんに分かるわけもなく。
大家さんが訪れるまで、部屋の中にはただひたすらに、そろそろ限界を向かえた三人の虚しい笑みと、人間の限界なんて知るよしもないみーさんの笑みが満ちていた。




