①
「帰りたい・・・」
「あ? なに? 急に。まぁ、いいけどさ、俺も帰って来たし、今日はうーさんもいるし」
「何か、至急の用事でも思い出されたんですか? 大丈夫なんですか?」
「そういう意味の、帰りたい、じゃなくてさ・・・、」
家で寝泊り出来る生活がしたい、そういう帰宅をしたいって意味なんだけど、
「俺、もうそろそろ結構な期間、家で寝泊り出来てないっていうか、家には荷物取りに帰るだけの状態が続いてるんだけど・・・、」
「まぁ、そう言われてみれば、そうだけど・・・、別に特に問題なくない? 荷物取りに戻るのが面倒とか?」
「二つの家を行き来するってことですから・・・、確かに、お手間ですよね。あの、よければ僕が、荷物運びでも・・・、」
「いや、うん・・・、うーさんの優しさ溢れる提案には涙が零れそうになるんだけど・・・」
「え? 俺のコメントに対しては何もないの?」
「ねーよ。優しさないじゃん。ってか、うーさんには悪いんだけど、そういうんじゃなくてさ、まぁ、確かに行き来するのも大変だけど、そういうことじゃなくて、ただ単に、俺には俺の家があるんだから、そこで生活出来るようにしたいっていうか・・・、それに家賃払って部屋借りているのに、これじゃあ荷物置き場の料金払っているようなもんじゃん。家賃払っている分は、ちゃんと生活してーよ、あの部屋で」
今のままじゃあ、トランクルームの料金が家賃レベルの高さってことになるじゃん! ・・・という切々とした井雲の訴えに、芦と宇江樹の二人は、ようやくその訴えの主旨を理解した。そして理解したのと同時に、思う。そりゃ、そうだよな、と。
現状、芦が夜勤のバイトに行っている間は、井雲が芦の家で寝泊りし、みーさんの面倒を見るという状態の為、殆ど毎日、井雲は芦の家にいるのだ。つまり、ほぼ住んでいる状態。芦のバイトがない日は井雲も自分の家に帰れるが、週の殆どを芦の家で過ごす状態には変わらない。
以前、この状態を認識した際に、当然の如く宇江樹から手伝いの申し出があったのだが、正社員として忙しく働いている傍ら、父親の動向を常に気にかけ、後までつけるという半ば正義のストーカーと化している宇江樹に、これ以上の負担をかけるわけにもいかず、また時間的にも難しかった為、みーさんの日常的な世話は芦と井雲でしていた。
それには、芦も井雲も納得しているのだ。宇江樹に父親の、というより、あの宗教の動向を見守ってもらわなければ困るのだし、そういう重要な役目を果たしている人間に、これ以上の負担をかけるわけにはいかないと、それは本当に、本当に思っていて。
ただ、それとは別に、ただでさえ財政状態が切迫しているのに、一番大きな支出となっている家賃が無駄になっているという現状が、井雲には耐え難くなっていたのだった。
井雲の財政状態を誰よりも知っている芦は、その気持ちを完璧なまでに察した。井雲の財政状態をそこまで詳細には知らないが、半分は優しさ、もう半分は真面目さで出来ている宇江樹は、その気持ちを思わず涙ぐむほど思いやった。二人の様子を見た井雲は、自分の言いたいことや気持ちを分かってくれたらしいその様子に、嬉しさと安堵を覚えた。これが友情か、と。
しかし当然のことだが、察したり同情したり、喜んだり安堵したりしたところで、問題というものは解決しない。解決というのは、具体的な方法があって、それを実行して、初めて齎されるものなのだから。
そして毎度のことなのだが、この三人は問題解決に至るまでの道を、真っ直ぐ歩めない。つまり、蛇行してしまう三人組で、しかも最終的に目的地に辿り着けるかも分からないほど長々蛇行する三人組でもあった。
暫しの沈黙。それは蛇行への序章だったのか、それとも助走だったのか。どちらでも大して変わりはしないのだが、それでも彼らはゆっくりと進み出しはした。いっそもう暫し立ち止まった方が良いくらいの進みだとしても。
最初の一歩目は、まだ良かったのかもしれない。宇江樹の優しさが溢れすぎる、「家賃の負担を僕も・・・、」という一言で、その優しさが辛すぎる他二人が、縋りつくように止めはしたが、それでも何らかしらかの解決策を模索した結果の一歩だったのだから。
しかしそこから先、話は何故か井雲の家賃がいくらなのか、また、それが井雲の財政状態をどれだけ圧迫しているのかを具体的な数値で見ていくという方向に話は流れ、支出で無駄なものはあるのか、そもそも収入はいくらなのかという根本的な収支に対する考察になり、基本的には営業と商品開発が担当業務とはいえ、経理等の事務も多少は分かる宇江樹が、税金対策の話まで始めたのだから、もう当初の方向性は見失われ始めていた。
挙句の果てには、ノートに収支を具体的に書き出し、支出を抑える為にすること等の対策案を書き出してしまったのだから、もう主旨は完全に最初の問題から離れている。
そもそも、井雲の財政状態が逼迫しているのは事実だが、その改善案を求めていたのではなく、無意味に払っている状態の家賃が虚しいので、無駄に払っている状態を改善したい、つまり有意義な家賃にしたい、というのが、当初の井雲の要望だったのだ。井雲の支出が抑えられ、財政状態が改善されたとしても、当初の問題の解決とは関係しない。
ただ、それでも大幅改善され、家賃程度の支出なんか気にしないというレベルにまで達するなら、全ての問題が解決したのかもしれないが・・・、当初の問題から脱線して持ち出された問題は問題で、あまりに根が深く、解決は難しかった。
・・・根が深いというより、根しかないという解決不能な問題だっただけなのかもしれないが。
「・・・オマエ、よく今まで生活出来てたな」
「・・・俺も今、改めてこう、数字にされてみると、自分にこんな底力があったなんてっていう、感動を覚えるな」
「・・・あの、根本的な問題として、そもそもいつ財政破綻が起きてもおかしないというか、もう起きているというか・・・、とにかく、どうにかしないといけない状態ですよね? これ、芦さんがコンビニのバイトを止めてしまったら、もうアウトですよね?」
「あぁ、食費という一撃が加えられたら、俺はもう、死ぬしかない感じだな」
「これ、やっぱり、一番でかいの家賃なんだから、これを何とかしないと駄目だろ?」
「・・・って、だからそもそも、家賃なんだって!」
「・・・あ、そうだった」
「・・・でしたね」
問題は、力強くそれた先で繋がっていたらしい。
書き出してしまった解決しようがない問題を突き詰めているうちに、芦が指摘した一言。それを聞いた途端、問題を提起した本人である井雲が、我に返ったかのように声を上げた。突然上がったその声は、少し前の井雲なら、全力の大声を上げただろう。
しかし進歩がないようで、多少の進歩を遂げている三人は、口にしてしまいそうになる大声を咄嗟に押さえ、押し殺した声で強く訴えるというスキルを身につけていた。
理由は勿論、突然大声を上げるとみーさんが吃驚するからだ。そして吃驚したみーさんの注意が楽しんでいるワイドショーから三人の騒ぎに移ってしまうと、場合によっては、二次災害のような事態が発生してしまう為、三人はせめて二次災害という被害を出さない為のスキルを身につけたのだ。
・・・相変わらずみーさんがワイドショーという人間の恥を楽しんでいる点、また、彼等が二次災害扱いしているそれが有り難いご利益である点、更には二次災害を抑えたところで、収まる気配のない日常的に訪れるご利益がある点等の問題はスルーして。
現在も、みーさんは相変わらずテレビに噛りついている。ちなみに今日のテレビのお供は鈴カステラだ。理由は首からぶら下げている鈴にソックリの、チョコを練りこんだ黒い鈴カステラを発見してしまい、盛り上がって買ってきたところ、みーさんが気に入ってくれた為、新たに芦の部屋に常備されるようになったから。
これまたちなみに、今は芸能人の経歴及び、年齢詐欺特集が放送されていた。遥か昔にまで遡り、体系に区分して表示、解説している。
嘘はいけないだろう。しかしもう過ぎ去った昔まで掘り返し、態々体系別にして解説まで加えて公開する必要性がこの世のどこにあるのかと、その解説が分かっているのかいないのか、頷きながら聞いているみーさんを擁する人間三人は思わずにはいられない。思うだけで、相変わらず口には出さないが。
そして彼らは何故か待ち合わせでもしてたかのように数秒、頷いて見入っているみーさんへ揃って視線を合わせた後、やはり打ち合わせでもしていたかのようにそっと視線を外すと、最大の問題から緩やかに離脱し、井雲が提出した問題に帰還した。帰還したかったのかどうかは、ともかくとして。
「あの、家賃が無駄になっているとか以前に、とにかく今の家賃じゃ立ち行かないと思うので、引っ越さないと駄目ですよね? 井雲さん、何か部屋に対する条件ってあるんですか? 今の部屋に決めた理由って?」
「あー・・・、いや、俺、大学入る時に部屋決めたんだけど、ちょっと部屋探す時期が遅くってさ、でもその時期って、俺みたいに大学入ったり、社会人になったりで、部屋借りる人増えるじゃん? だから良い部屋全部埋まっててさ、でも引っ越しはしないとだから・・・、それで多少高くても我慢して、入れるところに入ったって感じだな」
「いっくん、どうしても大学入学前に引っ越すって話だったもんな。俺みたいに少し待てればもう少し選びようがあったんだろうけどな」
「そうなんですか?」
「そうそう、俺、大学入学して、少ししてから部屋探したんだよ。そうしたら、引っ越しシーズン終わってたからさ、掘り出し物みたいに今の部屋、見つけて」
「いいよなぁ・・・、この部屋。俺の部屋よりちょこっとだけど広いし、それなのに家賃は安いっていう・・・」
「えっ? 井雲さんの部屋、芦さんの部屋より狭くて、高いんですか?」
「そう、詐欺みたいな部屋なんだよ」
「あの、今まで引っ越しを検討したりは・・・?」
「日々の生活に流されて、頭に浮かんでは消えていきました・・・」
「・・・生活するって、大変ですものね。仕事が山積みになると、父の後を追う足も遅くなります」
「・・・あ、それでも後は追うんだ」
「・・・俺と比べちゃいけないレベルの勤勉さだな」
「いえっ! 勤勉だなんてっ! 息子として、これは僕がどうあっても、やらなくてはいけないことなので!」
「・・・」
「・・・」
井雲と芦、それぞれが部屋を選んだ時の簡単な状況説明から、話は宇江樹の少々重い決意へと流れ、芦と井雲は目を瞑り、暫しの間、瞑想するかの如く、黙った。
二人とも、思うことはかなりあって、それを口出したい気持ちも山のようにあったのだが、しかし口にするにはあまりに事情は重い気がして・・・、一瞬、二人の間で言葉にならない視線だけの会話を交わした後、この件に関しては一旦、全てを胸の内に納めることにした。
うーさんが抱えている重みに耐え切れず、折れそうになった時には、きっと二人で支えよう、そんな無言の誓いだけを交わして。
当たり前だが、とても美しい友情が交わされていても、無言なので気づけない宇江樹は、芦と井雲が沈黙しているうちに同じく沈黙しながら井雲の家賃問題を考えていたらしく、眉間に皺を寄せて小さく唸り声を上げて・・・、丁度、美しい友情が交された直後、半ば独り言のような呟きを洩らした。