第3章ー1 ホンジュラス空軍と菅野直
後半、第3章の始まりです。
菅野直、日本空軍の最終階級は大佐止まりであり、第二次世界大戦後半の撃墜王の一人ではあるが、日本では、軍事に強い人でないと知らない人が多い人物である。
だが、ホンジュラスでは、最も知名度が高い日本人である。
何故なら、彼が1940年代後半、ホンジュラス空軍の指導に当たったことが、約20年後の「サッカー戦争」において花開き、「雷電」の最後の花道を作ることになったからである。
菅野大佐(以下、この話においては、最終階級で書く)が、ホンジュラス空軍の指導に当たった経緯については、主に流布している説は、2つある。
1つは、菅野大佐自身が、自叙伝において述べている話を基にした説であり、もう1つは、「サッカー戦争」の直後に、日本空軍の複数の関係者に対するインタヴューが行なわれ、それをまとめたものによる話を基にした説である。
「サッカー戦争」以前、菅野大佐は、撃墜王の一人とはいえ、第二次世界大戦後半になって、戦場に赴いたこともあり、どうしても知名度は低かった。
それに愛機が「雷電」なのも足を引っ張った。
第二次世界大戦初期の名戦闘機、「零戦」の方が、どうしても知名度が、日本国内では遥かに上である。
「雷電」が名戦闘(爆撃)機だというのは、そんなに日本国内では知られていなかった。
だから、「雷電」乗りの撃墜王、というのは、その意味でも知名度が低くなったのである。
だが、「サッカー戦争」で「雷電」が活躍したことから、急に「雷電」の知名度が高まり、更に、それに伴い、菅野大佐の知名度も高まった。
そのため、菅野大佐が、ホンジュラス空軍の指導に当たることになった経緯については、直接の当時の書類が残っておらず(何しろ、「サッカー戦争」が起こる20年以上前の話なのだ。)、どうしても本人や関係者の記憶に頼ることになる。
そして、上記の2つは、微妙に矛盾したことを述べている。
「ホンジュラス空軍が、「雷電」を導入することになったのだが、併せて、これまで、P-35だったか、P-36を運用していたし、第二次世界大戦の各種戦訓を、直接教えてほしい、ということを日本空軍に対して要請してきた。それで、自分が手を挙げて、空軍本部もそれを認めて、ホンジュラスに行くことになったのだ。自分の得た戦訓を、直接、外国で指導できる。スペイン語を学ばないといけなかったけど、嬉しくて仕方なかったね」
これは、菅野大佐自身の言葉である。
だが、日本空軍の複数の関係者の証言によると、ホンジュラス空軍から、日本空軍に対し、要請があったことまでは同じだが、後半部が異なる話になる。
「菅野大佐は、正直に言って、素行に少なからず問題があり、少し持て余された存在だった。かといって、第二次世界大戦の撃墜王だ。それなりに処遇しないといけない。そこに、ホンジュラス空軍から指導教官を派遣してほしい、という話が届いた。ホンジュラスなら小国だし、外国なので、少々の問題を起こしても、内々で話を済ませることができる。これ幸いと、菅野大佐を、ホンジュラスに派遣することになった」
真相は闇の中だが、どちらにしても、菅野大佐が、ホンジュラス空軍に派遣され、その指導を行うことになったのは事実である。
そして、菅野大佐は、4年余り、ホンジュラス空軍を鍛え上げることになり、見事な成果を挙げた。
更に、「サッカー戦争」の後、「ホンジュラス空軍の偉大なる父」として、菅野大佐は、知名度を高め、ホンジュラス空軍名誉大将の地位を、ホンジュラス政府から贈られることもなるのである。
だが、実は、菅野大佐は、ホンジュラスに派遣された早々、トラブルを現地でいろいろ起こしてもいる。
彼らしい逸話である。
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