1
第2部に入ります
戻ってきました!
男という生き物は、心と体が不一致なことが多々あるという。特別に好いているというわけでもないのに、女に触れるのは何故なのか。普段の距離が近いからといって好きとは限らないとはどういうことなのか。
生まれてこの方十七年。こんなにも頭を悩ませるのは初めてで、まさか自分でもこんな事に悩む羽目になるとは考えもしなかった。
だからいま、この状況にひたすら困り果てているわけなのだが。
「親父。コイツに余計なこと吹き込むなよ」
頭上から降ってくる声。後ろから腹に回された意外にも逞しい腕。顔は見えないけど見なくてもわかる。呆れ顔だ。
(だからなんでこんなに距離が近いの──!)
顔には微塵も押し出さず、朱花の頭は大混乱だった。
***
時を少し遡る。
旭神を崇める春翔国の首都勾胡の中心部には露店立ち並ぶ広場がある。そこをすこし逸れた脇道に、広場の喧騒とはまるで無縁と言わんばかりにささやかに露店を展開する店主がいるのだ。
「おやぁ、これまた別嬪さんが来たもんだ。なんだい、お嬢さん。それ、気に入ったのかい?」
後ろに流している前髪にちらほら白髪の混じった、立派な口髭を蓄えた店主が目元を和ませて示すのは、朱花が魅入っていた赤く丸い石だ。ところどころに白く線が入っている。
(夕暮れ時の空みたい)
思い出すのは夕暮れの名を持つ青年のことだ。優しい色合いは何とも魅力的で、すっと引き込まれてしまう。
「そいつは赤瑪瑙だ。綺麗だろう」
「はい、とっても」
つい笑みを漏らすと、店主が一瞬ぽかんとした顔になって、瞬きの間に表情筋の全てを緩ませた。
「あんたならお安くしとくよ。ああ、そうだ。これ、オマケにつけてやろう。ひとつ食べてみるかい?」
差し出されたのは茶色く四角い見慣れない物体。首を傾げると、店主はまるで毒見でもするかのようにひとつ自分の口にいれて見せた。
(あ、甘い・・・)
つられて口に入れたそれは見た目に反してどこまでも甘い。口に入れた途端に溶けてしまう。初めての感覚を舌の上で堪能していると、とんでもない爆弾が投下された。
「これは西国からの輸入品なんだが、ちょこれいとというらしい。甘いだろう? あんたみたいな若い娘さんは好きだろうと思ってさ。これ催淫作用があるらしいんだが」
「げほっ・・・っ・・・・・・ごほっ」
吐き出さなかったことを褒めて欲しい。なんてものを食べさせてくれるんだ。
抗議しようと咳き込みながら口を開いた時だ。
「親父。コイツに余計なこと吹き込むなよ」
するりと腹に回された手が、店主から朱花を引き離した。とんと背中に当たる温もりに息を呑む。
(いつの間に・・・っていうかなにこれ! なんでこんなに距離が近いの!)
引き剥がそうと腕を掴むと、何を勘違いしたのか引き寄せる力が強くなる。一瞬ふわりとした浮遊感が襲い、それに戦いている間に背中側全体に温もりが押し付けられた。背後から抱きしめられているのだ。
「こ、紅雲さ」
「おやぁ、またまた美人さんだ。この娘あんたのか、運び屋の旦那」
離してーと叫ぼうにも店主の声に邪魔されて喉の奥で声が絡まる。
(し、心臓に悪い・・・!)
そろそろ本気で離して欲しい。全力疾走を止めない心臓が胸骨も皮膚も破って飛び出してきそうだ。
「・・・・・・」
なかなかえげつない想像をしてしまった。
自分の想像力の良さに心底げんなりする。もっとも、もしそんな事態に陥ったとき、朱花は確実にこの世にいない。死亡理由が『ドキドキのし過ぎで心臓発作』とか絶対に嫌だ。
(ってそうじゃないの、落ち着いて柏朱花。取り敢えずそんな状況にならないためにも現状を打破する必要が)
「朱花?」
「・・・っ」
低い声で名前を呼ばれて、「離してー」と叫ぼうとした声が再び喉に呑まれた。耳元で彼が何かをいう度に息がかかってくすぐったい。
(み、耳元で喋らないで・・・!)
「どうした? 黙り込んで。・・・ああ、媚薬効果の話なら安心しろ。心拍数が上がるくらいの効果しかないから」
朱花の胸中の叫びは、やはり紅雲には届かなかったらしい。店主の言葉を補うように『ちょこれいと』について説明してくれた。ご丁寧に耳の側で。わざとなんじゃないのか、この男。
「こ、紅雲さん」
「ん?」
「・・・熱い」
「? ああ、悪い。確かに今日は気温が高めだからな」
ぱっと離れてくれた紅雲にほっと息をつく。
あついの意味が違うのだが、そこはあえて訂正しない。「あなたがくっついてくるせいで体が熱くなったんです」だなんて言えるわけがない。恥ずかしすぎる。
それにしても、何故こんなに距離が近いのか。彼が平気で抱き寄せたり触ってきたりする度に朱花は大混乱だというのに、当の本人は涼しい顔だ。
ちらりと紅雲を見上げて思案する。
(男のひとって往々にして体と心は別物だって言うし。特別好きってわけじゃなくても平気で触れるらしいし・・・)
体と心は別物だなんて、朱花からしてみればあり得ないのだが。
たとえばその辺にいる男につい今しがた紅雲がやったように抱き寄せられたりしたら、朱花はきっと叫ぶ。それも嫌悪感を全面に押し出しながらだ。痴漢被害者よろしくで叫んで振り払って逃げるはずだ。
(うん、無理だわ。このひと以外にそんなことされたってぞわっとするだけだもの)
紅雲にされても結果的に叫ぶわけなのだが、そこは事情を察してほしい。
(なんで、そんなに平気そうに触ってくるの?)
こちとら、芽生えた感情を自覚してからは声をかけるのだって随分な勇気がいるというのに。
「──朱花?」
「えっ?」
乙女思考に浸っていた朱花は紅雲の声で引き戻される。はっと我に返った朱花の頬を大きな手が包んで引き寄せた。
(え、うわっ待って!)
至近距離に黒の双眸が迫る。心配そうに覗き込んでくる彼には悪いが、朱花は一刻も早く解放して欲しいと願うばかりだ。
せっかく離れたことで落ち着いたはずの熱がぶり返してきた。顔から火を噴きそうになったが、深呼吸でそれを押しとどめる。
大丈夫だ。これくらいの近さはまだ許容範囲。これより近いときがあった。それに比べればまだ大丈夫。
(──じゃないわ! これより近いときってあの対価だよね!? あれは距離近いっていうか零距離っていうか!?)
現状よりもひどい例を上げたのが間違いだった。落ち着くどころか完全に自爆じゃないか。
「? どうした、ぼけっとして。もしかして気分でも悪いのか?」
「え、っとととと、だいじょ──!?」
どもりながらも平気だと伝えようとしたときだ。
こつん、と。朱花の額に紅雲の額が当てられた。
「・・・ちょっと熱いな」
「・・・・・・」
火を噴くどころの話ではない。驚きすぎてむしろ表情が固まった。声も出ないし体も動かない。人間、どうにも自分の許容量を超えると脳と体が仕事を放りだすらしい。十七年目にして初めて知った驚愕の事実だ。
「微熱ぐらいか。頭痛かったり変調は? ・・・朱花、聞こえてるか?」
(きこえてるからおねがいだからはなれてしゃべっておねがいだから)
降参を示した脳が頭の中で勝手に喋り始める。喉が固まってしまった朱花は無意味に口をぱくぱく開閉させるだけだ。
その唇に吐息が触れるたびに、体の自由を奪われていくようで──。
「あー、そろそろ勘弁してやったらどうだ? 運び屋の旦那」
呆れ果てたような店主の声に、ぶわっと涙が溢れそうになった。離れた紅雲が訝しそうに眉をひそめているが今の朱花にはそんな些細なこと気にかけている余裕がない。
(ありがとう神様仏様店主様──!)
「そんなに睨んでくれるな旦那。邪魔されたくないなら人目がないところでやるこったな。それからお嬢さん、そろそろ手ぇ離してくれないと俺は後ろの男に目だけで殺されちまう」
骨ばった手を握ってぶんぶん上下に振っていると、形容し難い顔で微笑まれる。その頬が引き攣っているのは気のせいではないのだろう。
「・・・見せつけてんだよ。邪魔するな」
「?」
背後で低く呟く声に朱花は首を傾げる。「何言ってんだあんた」と店主が呆れ返った声をだした。
「ひと月半振りに会ったと思ったらすっかり様変わりしちまって。姿かたちこそ変わらないが中身は別人か?」
「何言ってんだあんた」
「おい。ひとが言った言葉をそっくりそのまま返すんじゃねぇや」
顔をしかめる店主に紅雲はどこ吹く風だ。それどころか「何か運ぶ荷とかないか?」とさらりと話題を変えてしまった。
「俺は特にないが・・・・・・ああ、うちのが次旦那が来たら頼みたいことがあるって言ってたな」
「へぇ。柳夫人は中にいるのか?」
「ああ。今朝がた喧嘩しちまって不機嫌なんだが、旦那の顔見ればあれも喜ぶだろうよ。なにせあんたの顔はあれの好みの真ん中を射ているらしいからな」
「嬉しい限りだ。じゃ、ちょっと邪魔するぞ柳の親父。・・・朱花?」
勝手知ったる顔で店主の後ろにある戸口から家に入ろうとして、彼は訝しげに片眉を上げた。露店の前から朱花が動こうとしないからだ。
「どうした?」
「あ、えっと・・・。私、もう少し商品見ててもいいかしら。珍しいものが多くて」
「? ああ」
慌てて視線を陳列された商品に向けながら早口に言う。近くにあったものを手に取って眺めるふりをすると釈然としない顔で紅雲は奥に引っ込んでいった。
朱花はほっと息をつく。
(よかった・・・。紅雲さん戻ってくるまでに少しでも心臓を落ち着かせとかないと)
でないと次こそ確実に心臓を破壊される。
未だにバクバクいっている心臓を宥めるように深呼吸を繰り返す。胸元に手を当てようとして、商品──赤の瑪瑙玉を掴みっぱなしだったことに気づいた。
(・・・綺麗な色)
鮮烈な色だ。見る角度によって赤の彩度が変わるのがまた良い。
ところどころに薄く引かれた雲のような白線が赤を薄め、黄昏の空をそっくりそのまま閉じ込めたようにも思える。
「それ、本当に気に入ったんだねぇ。ああ、そうだお嬢さん。おねだりしてみればいい、あんたの好いひとに」
赤瑪瑙をためつすがめつしているとそんな提案がなされる。「好いひと?」と首を傾げかけ、店主が親指で家に繋がる戸口を示していることに気づいた。カッと顔に熱がぶり返す。本日三度目の赤面だ。
「可愛らしくおねだりすれば男はころっとほだされる。それが可愛い恋人からならなおさらだ」
「こいびと?」
なんだかんだで紅雲が自分に甘いことを朱花は知っている。見合いが嫌で家から逃げ出したところをほぼ無償で匿ってくれたし、義理の父母たちから朱花を解放してくれた。自由の身となって空っぽになった朱花が路頭に迷わないように今でも一緒にいてくれている。それこそ店主が言うように朱花がこの赤瑪瑙を欲しいと言えば買い与えるだろう。
でもそれは、朱花が彼の恩人の娘だからなわけで。
きょとんとする朱花に店主の方が驚いたようだ。何度も瞬きをしながら「違うのか?」と聞いてくる。
「紅雲さんは、恋人じゃないです。・・・あのひとが私に色々してくれてるのは私の両親に昔お世話になったからですよ」
そうだ。普通なら朱花の両親に返す恩を、両親が儚くなってしまったからその娘に返しているだけ。
(そしてそれに、私が甘えているだけ)
「私の、片恋なんです」
その甘さに甘えて。なんだかんだで優しい彼を、朱花が勝手に好きになっただけだ。
紅雲に触られると、心臓がありえないくらい暴れ出すと同時に物凄く安心する。当たり前のように触られるのが嬉しい。彼の不器用な優しさがどうしようもなくくすぐったくて。
(あのひとが私に甘い理由を知ってる。勘違いなんて絶対しない)
彼の名を映す瑪瑙玉を空に透かして目を細める。
「だから、あのひとの甘さを利用して──私は悪女になるんです」
「は?」
呆気にとられる店主に、朱花は嫣然と微笑んで見せた。