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はこび屋  作者: 一朶色葉
episode1
6/17

「これはね、愛するひととするものなのよ」

 父と母は仲が良くて、子どもの目も憚らずに抱擁やら口づけやらを交わすひとたちだった。そのあまりの仲の良さが羨ましくて「おとうさま、おかあさま。しゅかもちゅーしたい」とねだった時に、母は困ったような顔でそう言い、自分は構わないと朱花に顔を近づけようとする父の顔をぎりぎりと片手で押しとどめていたのを覚えている。

(・・・あれ?)

 目一杯に見開いた視界は、端整な顔で占められていた。耳から輪郭をなぞって顎を捉えた手は、今は後頭部に回されている。吐息が交わったかと思えば、今唇に触れる僅かに冷たく柔らかいものは───。

(あれ?)

 瞬きを繰り返して、朱花は内心で首を傾げる。何でこんなに顔が近いのかとか、何で大きな手が後頭部を押さえつけているのかとか、綺麗な顔だなぁとか。

 諸々の疑問感想は、至近距離にある紅雲の眸がついっと細められたことで遥か彼方に疾走していった。もう帰って来そうにもない。

(あの、紅雲さん)

 声を出そうと試みても、口を塞がれているためにそれが叶わず。

 それなら一度離れればいいと妙に冷静な頭からの指令に、朱花の腕は素直に従って紅雲の胸を軽く押した。

 意外にも、唇に触れていた冷たい熱はあっさりと離れてくれる───かと思ったのだが。

「あ、の・・・!?」

 再び触れてきた熱は、さっきより熱く感じられた。

 言葉ごと塞がれた唇に驚きを隠せない。びしりと石化した朱花をからかうように、するりと舌が唇を撫でて離れていく。

「・・・先、戻っとく」

 低い囁きと、くしゃりと頭を撫でる手。

 部屋を出ていく背を朱花は茫然と見送る。パタンと戸が閉まる音に、肩が過敏に反応した。

 微動だにしていなかった体が動いたことで、凍結していた頭が目まぐるしく動き出す。同時にぼんっと顔から火を噴いた。


(なにいまの!? だってお母様は愛するひととするものだって───!)

 ───〝・・・別に、ただ働きする気はねぇけど〟


「・・・」

 ふっと、頭が冴えた。

 ああ、そうだ。彼は言っていたではないか。

(あれはたいかあれは対価。あれは、対価───)

 ズキン、と。

 冷静になると同時に胸の最奥が痛みを訴える。

(・・・あれは対価、なのに)

 何故、こんなにも締め付けられるような感じがするのだろうか。痛くて痛くてたまらない。カッと目頭が熱くなって、薄い膜が目を覆った。

(ああ、駄目だ私。昨日から、泣いてばっかり・・・)

 ズキンズキンと痛む胸元を押さえつける。苦しい。痛い。

 それなのに、先ほどまで唇に触れていた熱が思い出されて。

 ガラガラと、足元が崩れていくような感覚がした。



 欲求のままに触れたとき、理性の鎖がちぎれる音がした。

 部屋を出た紅雲は、そのまま扉にもたれかかって顔を片手で覆う。

(まずい)

 逃亡した理性が戻って来たのは、彼女の華奢な手が弱弱しく胸を押したときだ。拒むように強く押し返されていれば、本能の暴走のままに細い肢体を組み敷いていたかもしれない。

 拒むでもなく、嫌がるでもなく。

 そう。まるで口を塞がれて喋れないからとりあえず離れようとしたと言わんばかりに。

 戻って来た理性はすぐに仕事をするわけでもなくようやく本能を制したときには、離れるのを惜しむように彼女の唇をするりと撫でていた。

「はあ・・・」

 昨日は厄介なものを拾ったとばかり思っていた。厄介なものを拾ってしまったから早く離れるべきだ、とすら思っていたというのに。

(まずいな。宰相夫妻に怒られそうだ)

 離れることをこんなに惜しんでしまうだなんて。

 我ながら呆れるほど、この短期間で随分とあの娘に依存してしまっているらしい。




***




 恐ろしいほどの静寂だった。

「・・・・・・」

 道に転がる石を蹴る馬の蹄の音と、ガラガラと車輪が回る音がする。視界の隅を流れる景色をぼーっと眺めながら、朱花の手には無意識に力が籠っていた。膝の上で衣に皺が寄る。

(・・・なにか、言えばいいのに)

 昨日は一方的に朱花が喋っていたのだが、それを棚に放り投げて、紅雲は一言も発しないことに少しいらついてしまう。

(対価だから、気にしちゃだめだ。対価だから対価だから対価だから)

 気にするなと言い聞かせるたびに、胸の奥が鈍い痛みを訴えてくる。

(早く隣町につけばいいのに。・・・・・・ううん、嫌だ。訊きたいことがたくさんある)

 紅雲の顔が見られない。昨晩の話の続きを訊きたいのに。もうすぐ隣町についてしまうのに。

(いやだ。いやだ嫌だ)

 話がしたい。声が訊きたい。でも、何でもないように接されると、心が悲鳴を上げてしまう。

(なんで? なんであんなことしたの? 本当に対価ってだけなの───?)

「おい」

「!」

 びくっと体が震えた。

 おそるおそる隣を窺ってみるが、紅雲は前を見たまま馬を操縦している。

「・・・お前、自由になりたいか?」

「え?」

 ばっと顔を上げて、思わず整った顔をまじまじと見つめた。彼はこちらを一瞥したが、朱花が目を逸らすと視線を前に戻してしまう。

「正直な話、今回の縁談が破談になったとしてもお前が柏朱花であるかぎり、いつかは家の為に結婚するだろうな。今現在、こうして逃げているからといってずっと逃げ切れるかといえばそうでもないだろ」

「それは・・・」

 朱花はぐっと唇を噛む。

(そんなこと、言われなくてもわかってるよ)

 朱花は柏家の娘だ。

 柏家は今現在この国の頂点にある。そんな家に生まれた朱花の役目は、誰かと身を結んで子を生み、柏家を未来永劫続かせることだ。

「・・・・・・わたしは・・・」

「家のことは考えんな。お前がどうしたいかだよ」

 まるで朱花の考えなどお見通しだと言わんばかりに、紅雲は言い放った。途端に、ぶつっと朱花の頭の中で何かが切れる音がする。


「そんなこと言われたってわからないんだもの! 私がどうしたいかは重要じゃない! 私は、お父様とお母様の柏家を守らないといけないの!」


 気づけば思わず叫んでいた。

 だのに紅雲は相変わらずこちらを見ようとはしない。それが、怒りに拍車をかける。

「私は何も知らないわ! 家がどうなっていたのかも、お父様たちが春翔国のために何をやっていたのかも! 本当は教わるつもりだった! でもお父様とお母様は何も教えてはくれなかったのっ・・・」

 ああ、駄目だ。止まらない。

「教えて貰えなかったからって知らないままでいていいいなんて、そんなわけないでしょう! 私は柏家を守るために知らないといけない! 心を偽らないといけない! 好きじゃないひとと結婚しなければいけない! 本当はこのまま、紅雲さんと───」

 言いかけて、朱花ははっとした。勝手に本心をぶちまける口を両手で覆って俯いてしまう。

(わたし、いま。なにをいおうとしたの・・・?)

 バクバクと心臓が疾走を始める。それなのに頭はやけにすうっと冷えていった。

(紅雲さんと、なに?)

 違う。違う違う違う。

(このまま時が止まればいいだなんて・・・違う! そんなこと思っちゃいけない。言っちゃいけない。もうすぐ勾胡から出るのに)

 もうすぐ、紅雲とはお別れなのに。

 溢れるな。静まれ、心。

(思っちゃ駄目だ。寂しいなんて、考えちゃ駄目だ)

 ぎゅうっと眉を寄せて唇を噛む。溢れ出しそうな感情を抑えるのに精一杯で、紅雲が鼻で笑ったことに朱花は気づかなかった。

「それで? お前は家を守るために今まで知らされなかったことを知らなくちゃいけなくて、好きでもない野郎と結婚しないといけなくて、心を偽らないといけなくて、それで? どうやら柏朱花はよっぽど不幸な家に生まれたらしいな」

「な、にを、言って・・・・・・」

「だってそうだろう? お前の親は、柏宰相夫妻は、柏家に生まれてきた〝継承権を持つ子ども〟を慈しんできた。すべては柏家を守るために。愛されてたのはお前じゃなくて〝後を継ぐ子ども〟だったわけだ」

 目を瞠る朱花に、紅雲は事もなげに言って片頬を吊り上げた。

 かっと頭に血がのぼる。

「違う!」

「何が違う。お前は〝家のために〟心を捨てないといけないんだろ。そう思って育ってきたわけだろう。・・・お前の親がどうしてお前に家のことを教えなかったのか、お前に強いることをしなかったのか。それも考えずにそう思ってきた。違うか?」

 両親は、朱花に何も教えてはくれなかった。

 花よ蝶よと育てられてきたけれど、彼らは家の一切を彼女に教えることはしなかった。

 ───それは何故。

 それは、愛おしい娘に、家に縛られることなく未来を歩み紡いでいってほしかったからではないか。

 がつんと、頭を殴られた気分になった。

(家のことは教えられてこなかった。・・・でも、それ以外のことならたくさん教わった)

 寝台の整え方。部屋の掃除。料理だって、母から習っていた。

 それらすべては、本来なら貴族の令嬢がしなくてもいいことだ。だって、朱花がやらなくても使用人がやってくれる。それでもそういったことを教えてくれたのは、娘が貴族としての未来だけを見ないように。

 娘に、貴族として生きる道以外も見せるために。

「・・・紅雲さん。私、本当は少しだけ、お父様たちのことを恨んでいたの。何故、急にいなくなってしまったの? 何故、何も教えてくれなかったのって。だって、私が家のことをちゃんと学んでいたら、あんなひとたちに頼らなくてもお父様とお母様の柏家を守れたかもしれない。ちゃんと、お父様たちの意志を引き継げた、かもしれないのに・・・」

 紡ぐ言葉は、どうしたって涙に濡れてしまう。

 一年前。両親が急に儚くなってから、ずっと思ってきたことだった。でもそれをぶつける相手は何処にもいなくて、ずっと心に溜め込んでいたことだった。

「・・・いろんな世界を・・・・・・見て、みたい・・・っ」

 自由に歩けと、両親が願ってくれたのならなおさら。

 被いた衣を顔の前で掻き合わせて泣き顔を見られないようにする朱花には、見えなかった。紅雲が朱花を一瞥して満足そうに目を細める。

 ぐしゃぐしゃに朱花の頭を掻きまわして、彼は言った。

「ああ、ほら着いた。勾胡と隣町の町境だ」

 掻き合わせた衣の隙間から見えたのは、険しい顔で馬車を見据える───義父母たちの姿だった。


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