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「お邪魔するよ」
落ち着いた声が扉の向こうから聞こえてきたのは、朱花が寝台を整えているときだった。
「あ、はーい」
掛け布の皺を伸ばして大雑把に畳みながら返事をすると、着替えを手に女将が姿を現した。
彼女は部屋を片付けている朱花を見て驚いたように目を瞠り、やがて相好を崩す。
「ああ、お客様に仕事させちまうなんてねぇ」
「いえ、無銭なのでこれくらいは」
朱花は曖昧に微笑んだ。
家にはたくさんの使用人がいたけれど、幼い頃から自分の寝室は自分で整えるのが普通だった。その習慣が体に染みついて、外泊先でも無意識にやってしまっていたらしい。
(・・・そっか。旅館では女中さんがお部屋の片づけしてくれるのね)
腕を組んで難しい顔で考え込む朱花に、女将が苦笑する。
「無銭って言っても、こっちは荷運びお願いしてんだから。対等な取引だよ。・・・で、紅雲の旦那はどこにいるんだい? 着替え届けに来たんだけどねぇ」
「あ、少し前に出ていっちゃいました」
そういえば朱花も紅雲も纏っているのは旅館の浴衣だ。
(馬車に荷積みにでも行ったのかな。だったら呼びに行った方が・・・)
「お待ち。アンタが着替えてから呼びに行った方がいいよ。この部屋で一緒に着替えられないだろう?」
腰を浮かしかけた朱花を女将が制する。
「ほら、手伝ってあげるから・・・ってどうかしたのかい? おでこ、赤くなってるよ」
それは紅雲に思い切り弾かれたからだ。おかげで微睡みは完全に吹き飛んでしまったのだが。
ありのままを話すと、女将は途端に笑いだした。
「あはは! そうかいそうかい。昨夜襲われたとかはないんだね」
「? おしゃべりしてました。紅雲さん、仕事柄色々な場所を知っているようでしたので」
(あ。そういえば、いつの間にか眠っちゃってたなぁ・・・。まだ聞いてないこととかあるのに)
少しだけ残念だ。
(昨日みたいに御者台でおしゃべりできるかしら)
女将に手を貸してもらいながら浴衣から自分の衣に着替える。中衣を着て上衣を纏い、帯を巻けば完成だ。
「・・・女将さんは、少しだけ母に似ている気がします」
(あ)
ぼそりと零したのは、完全に無意識だった。
顔を上げた女将が、目元を和ませる。
「そうかい。アンタを見てる限りでは、お母上も大層美人なんだろうねぇ。光栄だ」
「はい。とても、美しいひとでした」
父が母を見初めた気持ちがわかるくらいには。
器量よし、見た目よし、性格も穏やかで、たおやかで。
(あ、まずい。・・・なんか泣きそう)
つんと鼻の奥が痛い。目に張った薄い透明な膜が、弾けてしまいそう───
「私、紅雲さん呼んできますね!」
叫ぶように言い残して部屋を出ていく朱花を、女将は呆気にとられながら見送った。
***
カチンと小気味いい音を立てて刃を鞘に収めた紅雲は、呻いて倒れている男たちのうちひとりの衿を掴んで引き上げた。
「柏宰相代行に伝えろ」
ぼそぼそと声をひそめて言葉を落とす。その音を逃すことなく拾い上げた男は忌々しそうに紅雲を睨んだが、生憎とその程度の眼光に怯んでやるほど紅雲は小心者じゃない。
「・・・っ、ふざけるなよ・・・」
「別にふざけてねぇさ。どうする? 選ばせてやるよ」
男が血に濡れた歯をぎりぎりと食いしばった。首元に当てられた鞘の下には、冷たく研ぎ澄まされた刃が隠されている。
男が舌打ちして僅かに頷いたのを見て満足気に笑った紅雲は、ふいに得物を大きく払った。乾いた音を立てて得物に弾かれた短剣が転がっていく。後方で倒れている男が悪足掻きで投擲してきたのだ。
「それじゃ、よろしく頼む」
弾いた短剣を一顧だにせずそれだけを言い置いて男を解放した紅雲は、視線を感じて顔をあげた。
(げっ)
蛙に潰されたような声を漏らさなかったことを心底褒めようと思う。
胸の前で両手を握り合わせて大きく目を見開いている朱花の満面には、驚愕が広がっている。
驚倒の色が引いたらそこに浮いてくるのは恐怖だろう。いくら普通のお嬢様とは感覚がいくらかずれているとはいえ、四、五人の男たちが口から血を吐き出して呻き、倒れ伏しているのを見れば恐れ慄くに決まっている。
この場の惨状に震え、この惨状を作り出した紅雲に怯えるはずだ。その、黒々とした黒水晶のような眸を恐怖に彩らせ、透けるように白い肌を青ざめさせて。
紅雲はふっと笑みを漏らした。こんな状況にあってそれでもなお、彼女に恐れられるのは本意じゃないだなんて───。
(ああ本当に、厄介なもの拾った)
「朱花」
名を呼べば、躊躇いもなくこちらを見る黒水晶。そこに走るのは、想像した通りの色。
小さな唇が、震えながらゆっくりと動く。
「・・・こ、紅雲さん」
青ざめた彼女は、ぎゅっと両手を握り合わせたまま、再び口を開いた。
「旅館の浴衣で暴れたの!?」
「───は?」
朱花が慌てて駆け寄ってくる。
視界に映った男が呻きながら転がる短剣に伸ばした手を踏みつぶし、紅雲はもう一度言った。
「はぁ?」
「はぁ? じゃない! 女将さんが着替えを届けてくれたの。紅雲さん、着替えずに出て行っちゃったからわざわざ呼びにきたのに、こんなに汚して!」
ぱんぱんと紅雲が纏う浴衣の埃を払いながら怒る彼女に呆気にとられる。「なんて謝ればいいの、これ」とぼやく朱花に連行され部屋に押し込められた紅雲は釈然としないまま浴衣を脱いだ。
畳んで寝台の上に置かれていた衣を手に取り身に着けていく。帯を締め終わったところで、女将のもとに行っていた朱花が姿を現した。
木箱を抱えて戻って来た彼女は開口一番にさらりと爆弾を落とした。
「あ、紅雲さん。着替え終わったところ申し訳ないんだけど、脱いで」
「は?」
本日三回目の「は?」が出た。
朱花の口調は淡々としている。紅雲を寝台に座らせ、自分もその隣に座った彼女は、再び服を脱ぐように促して来た。
そこで初めて、朱花が持っている木箱が救急手当て箱だとわかる。
「左腕。怪我してるでしょう?」
渋々帯を緩めて袖から腕を抜く。手当の準備をしていた朱花は、紅雲の二の腕に刻まれた黒い烏の模様に目を瞠った。
けれど何も言わないまま、機械のような動きで手当てを進めていく。
(・・・なんだ?)
てっきり昨日のような質問攻めにあうと思っていた紅雲は拍子抜けする。そして、何か違和感を抱えて眉を寄せる。
(ああ、そうか)
朱花が部屋に入って来てから、一度も目が合っていないのだ。
「朱花」
名を呼んでみる。返事はない。
「朱花。何か怒ってんのか」
これには短く答えがあった。
「・・・・・・怒ってない」
「怒ってるだろ」
「怒ってません!」
悲鳴のような声を出して顔を上げた朱花は、唇を噛んで柳眉をぐぐっと寄せた。
(あ。泣く───)
見合いが嫌だと話して、両親の思い出を語っていた時と酷似した表情だ。
嫌な予感に身構える紅雲の前で、朱花は僅かに俯いた。
「・・・・・・さっきの、男のひとたち。・・・家に頼まれて、私を捜しにきたひとたちでしょう・・・?」
紡がれる声が僅かに震えている。
「なんでっ・・・。だって、紅雲さんは、私から私を護ってって依頼されてないのに・・・・・・っ・・・私は、遠くに運んでって、お願いしただけのに」
それなのに。朱花を護るために怪我を負って。
朱花はますます俯いてしまう。
「・・・別に、ただ働きする気はねぇけど」
気づけば、そんな言葉が漏れ出ていた。
そうして予想通り、彼女は驚いたように顔を上げる。紅雲は、その紅い唇に指を伸ばした。
「これ、何か塗ってんのか?」
「? ううん。紅は特になにもしてないけど」
唐突に変わった話題に戸惑う彼女に、低く囁く。
「じゃ、これを対価に貰おうか」
そう、ただ働きをするなんて、誰も言っていない。最初に言ったはずだ。「働きに応じた対価を決めるのは自分だ」と。
形の良い小さめの唇を指先でなぞる。朱花は先ほどまでの自分の思考を忘れたように困惑顔だ。
「えっと・・・。でもさすがに髪みたいに切って渡すのは、痛いから嫌なのだけど」
涙の余韻が残っているのか、眸に薄い膜を張ったまま、彼女は思い悩んでいる。
切らずに対価を渡す方法、を本気で考え込んでいる朱花に紅雲は微かに笑った。
(ああ。本当に、こいつは───)
「切らなくていい」
「え?」
戸惑う朱花の顎を持ち上げて顔を寄せ。
紅雲はその果物に似た紅い実に、本能のままに噛みついた。