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ふわふわと、舞い上がる心地がする。
(あれ・・・?)
吹く風に羽が舞い上がるように目を覚ました朱花は、二、三度瞬きをした。
見慣れない部屋だ。寝台の傍にはどこからか引きずってきたのか無人の椅子がある。そっと動かした手が何かに触れ、朱花は無意識にそれを掴んだ。
(・・・団扇? え、なんで? こんなのあったかしら)
もともとそこにあったわけではなく、紅雲が女将から半ば無理やり押し付けられたものなのだが、それを知らない朱花はひたすら首を捻るばかりだ。
上体を起こして、改めて部屋をぐるりと見渡してみる。見慣れないが、見覚えがないわけではない。
(ああ、そっか。私今家出中で)
少しだけ、頭がふらふらする気がする。足が地についていないような心もとない感じだ。
寝台から足を下ろして立ち上がろうとしたとき、くらりと眩暈が襲った。倒れそうになり、慌てて寝台に手をつく。
(私、いつ寝たのかしら)
記憶がない。旅館について湯につかりに行ったはずなのに───。
(ん?)
眩暈が収まるのを待って顔を上げた朱花は、部屋の隅に畳んで置いていた身を隠すための衣の傍に、自分のものではない荷物が並べられていることに気づいて眉を寄せた。
荷袋から何かが飛び出ているあれは、紅雲が持っていたものだ。
好奇心から近づいて、荷袋に収まっていないそれに手を伸ばす。
(あ、でも・・・荷を勝手に漁られるのは、あまりいい気持ちはしないわね)
躊躇するように手を引いたときだ。
ガラッと閉ざされていた扉が開く。片手に盆を持った紅雲が大股で入ってきた。
相変わらず倦怠感を纏ったまま姿を現した彼に声をかけようとして、朱花は凍り付いた。戸外に目をやった彼の視線が、あまりにも冷たいものを孕んでいたからだ。
「・・・っ」
息を呑んだ朱花に気づいた紅雲が、怪訝な顔をする。
「ああ、起きたのか・・・ってどうした? 団扇握りしめて」
「え?」
問われて左手に視線を落とす。気づかなかった。
とりあえず持っていた団扇を寝台に置いて、朱花は首を傾げる。
「紅雲さん。私、湯を浴びに行っていたと思うのだけど」
「のぼせて倒れたんだろ。ったく、初めての外泊で浮かれるのはわかるけど、もう少し落ち着けよ」
「うっ・・・」
正論だ。ぐうの音も出ない。
寝台脇の棚に盆を置いた紅雲がふいに何かを投げ渡してくる。
「え、わっと!」
(・・・ちまき?)
慌てて受け取ったそれは、僅かに表面がざらついた竹皮にくるまれた軽食だった。同じものを持っている紅雲が寝台に腰かけてちまきを食し始めるので、朱花もそれに倣って竹皮の包みを開ける。作りたてなのか、開けた瞬間食欲をそそる匂いとともに湯気が立ち昇った。
一口食んで、口腔に広がるしいたけと生姜の香りに口元がほころぶ。リスのように両頬を膨らませてちまきを堪能する朱花に、紅雲が柑橘水を手渡した。
「気分は?」
「ふぁいふぉうふ」
「口の中のもん無くしてから喋れや」
自分の分をすっかり平らげてしまった紅雲は、呆れ目で朱花を睨む。
質問してきたくせになんて理不尽な。
たっぷりと時間をかけて咀嚼してから嚥下し、柑橘水で喉を潤してから朱花は口を開いた。
「運んでくれたの?」
何故か紅雲は思い切り顔をしかめた。
(え。・・・も、もしかしなくても重かったとか!?)
一応女の子なのでそこは深刻な問題だ。重いとか肩が痛いとか腰が痛いとかぎっくり腰になったとか言われた日には、こっそり泣く自信がある。
肩を強張らせてごくりと生唾を飲み込む。全身に緊張を走らせて紅雲の一挙一動を注視していると、彼はおもむろに口を開いた。
「そのことでお前に言っとかないといけないことがある」
(き、来た・・・!)
「俺もこの部屋に移ることになったから」
「は?」
何度も口を開閉させては言いづらそうに言い澱み、意を決したように開かれた形の良い唇から零れ出たのは覚悟していた言葉とはまったく別の次元から投げ込まれたものだ。
しかめっ面で表情をぎこちなくさせる紅雲には悪いが、朱花の今の感想といえば───。
「は?」
同じ言葉が口をついて出た。同時に肩の強張りが解けていく感じがする。
「いま、なんて?」
「だから、俺もこっちに移ることになったんだよ。雨の音、聞こえるだろ? 急な雨で旅客が避難してきたらしい。部屋が足りなくなったとかで───」
紅雲の言葉はまだ続いていたが、朱花には途中から聞こえていなかった。
(え? この部屋に泊まることになった? 私が重いから運ぶの疲れたとかではなくて?)
けれどいくら待っても、彼の口からそんな言葉が飛び出してくることはなさそうだ。そのことに安堵すべきなのだろうが、朱花の感覚はその辺りが常人とは違う。
「あのぅ・・・。私を運んでくれたとき、腰痛めたりしませんでしたか?」
モヤモヤが臨界点を突破して、ついには自ら手を上げて尋ねてしまった。まさに捨て身の突撃である。
対する紅雲はどこか呆れ気味だ。
「はぁ? お前、俺のこと爺さんか何かとでも思ってんのか。お前運んだ程度で痛めるわけねぇだろ」
「か、肩は!?」
「だから・・・」
「ぎっくり腰とか!」
「おい」
「膝に負担かかっ」
「話を聞け馬鹿」
心配でついつい質問攻めにしてしまった朱花の口は、ついには紅雲の無骨な手によって塞がれてしまった。
(あれ・・・? 商人なのに)
浮かびかけた素朴な疑問は、もれなく額に青筋が浮いている紅雲の声によって掻き消される。
「いいか、よく聞け。お前を運んだぐらいでそんな爺みたいな症状に見舞われるヤツは正真正銘爺さんか日の下では生きられないモグラみたいな生き方してる色白虚弱野郎だけだ」
「・・・・・・」
「で。俺もこの部屋使うことになったけどって言ってるんだが?」
無骨な手が離れていく。近くで見ると、彼の手は大きくて皮が厚い。自分の頼りない手とはまるでかけ離れたものだ。
目をすがめる彼に、朱花は数回瞬きをした。
「・・・ここを使うの?」
「ああ」
「ここで寝るの?」
「ああ。移れって言われたからな」
「同じ部屋?」
「駄目なら出てくけど」
さすがにお前も年頃の娘だからな、その辺の配慮はする。
そう続けて前髪を掻き揚げる紅雲に、朱花は首を横に振った。
「・・・嬉しい!」
「は?」
青年の目が大きく見開かれる。理解できませんと言わんばかりの表情だ。というか実際に彼は「どういうことだ?」と口に出してきた。
「誰かと一緒に寝るのなんて一年振りだもの。お父様とお母様がご存命の頃はたまに一緒に寝て頂いてたの」
「ちょっと待て。親と俺は違うだろ。やめろ、そんな嬉しそうな顔するな。なんか色々と拙い気が・・・ってそうじゃなくて」
初めて見る紅雲の狼狽した姿に、朱花の顔はますます綻んだ。
顔を背けて何度も深呼吸を繰り返した彼は、引き攣った表情のまま朱花に向き直る。
「親と俺は違うよな? その辺ちゃんとわかってるだろ。大体、なんで今日会った奴と同室で嫌がるどころか喜んでんだよ」
「どうして? 怖い夢を見たときとか、隣に温もりがあるだけで安心して眠れるもの。そこにひとがいてくれると落ち着くでしょう? なんていうか、安らぎ?」
悪夢にうなされたとき、母は必ず抱きしめてくれた。父は頭を撫でてくれた。それは幼い頃からずっとだ。
どんなに成長しても、両親の優しさはずっと身に染みて心地が良くて。
(同じ部屋なら眠るまでたくさんおしゃべりできるもの! 今までのお仕事のこととか訊けるかしら?)
だって紅雲は運び屋だ。仕事で数々の場所を巡って、色々な思い出があるだろう。
朱花は喜色を満面に浮かべる。
紅雲はそれからしばらくの間、絶句したままだった。
***
眠った気がまったくしない。
翌朝、鈍い頭痛を覚えて目を覚ました紅雲は横で安らかな寝息を立てている朱花に一瞬だけ殺意を覚えた。
(・・・なんで手ぇ握ってんだよ)
片腕はしっかりと彼女の胸に抱きかかえられ、さらには親指をぎゅっと握られている。───眠れるわけがない。
体にかかる掛け布を引っぺがして、朱花の額を指で思い切り弾く。
呻きながら額を押さえて目を覚ました彼女を残して、紅雲は一足先に馬車へと戻った。
(さて、と・・・)
ふぁああと欠伸を零す。
眠れていない上に、さらに厄介事だ。
首を回して軽く伸びをしながら、紅雲は旅館の裏戸に目をやった。
「お探しは、柏家の娘か?」
がたん。
微かな物音とともに、体格のいい男たちが姿を見せた。それぞれの手に、短剣が握られている。
「柏朱花を何処に連れていくつもりだ」
「何処って言われてもな・・・」
確か、依頼内容は。
「とりあえず、遠いところ?」
首を傾げた紅雲に、男たちは眉を吊り上げた。
「ふざけるなよ、たかが商人風情が」
「いやふざけるなって、な」
こちらだって曖昧な依頼に困惑しているというのに。
短剣を振り上げて、怒りの形相で男たちが襲い掛かってくる。
紅雲は荷袋に収まりきっていない突起物を素早く引き抜く。
「───それじゃとりあえず、正当防衛ってことで」
鞘を払った得物が、朝日を弾いて鈍くきらめいた。