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変な拾い物をしてしまったかもしれない。
ゆったりと湯につかりながら、紅雲は深々と息をつく。最初の印象からして、彼女はどこかおかしかった。
(外見と内面の差が、な・・・)
黒々とした艶のある長い髪と少しだけ幼い相貌。あのくらいだと歳は十六、七だろうか。黒水晶を思わせる大きな眸が印象的で、小さめの唇は血色よく潤いがある。上質な衣の下に髪と素顔を隠して近づいてきた彼女は、対価だと言って自分の姿を隠す唯一の術を引き渡そうとしてきた。───あんな、今にも泣き出しそうな顔をして。
(渡せないものなら、最初から言えば良いのに)
唇をきゅっと引き結んで、眉根をぐぐっと寄せて、彼女は衣を押し付けてきたのだ。
別に客が泣きそうな顔をしていたからと言って紅雲が気にかけてやる必要は一切ないのだが、それでもその衣を受け取るのを、自分の中の何かが邪魔をした。
───〝これを払ったら私を遠くまで運んでくれるんでしょう?〟
ずっと大事にしてきたはずの髪を躊躇なく切り落として。けろりとした顔で。
退屈だからと隠れていたはずの馬車から御者台に移動してきて、聞いてもいない身の上話をし始める。かと思えばまた、泣きそうな顔をして。
───〝外泊! 私外泊初めてなの〟
むくれて、笑って、ころころと表情が変わる。無邪気で天真爛漫。放っておけない。些細なくだらない話でも、聞いてやればどんな顔をするだろうか。相槌を打てばどんな反応を返してくるだろうか。そんなことばかりが気にかかって、結局は彼女の話にとことん付き合っている。
ああ、まずい。とても厄介な拾い物をしてしまった。
「どうしたもんかな・・・」
呟きとともに深々と息をついたときだ。
コンコン、と。
控えめに、けれど確かな音で浴場の扉が叩かれた。
「旦那。急かして悪いがね、出来るだけ早く出てくれないかい?」
扉の向こうから落ち着いた声がした。
紅雲は眉をひそめる。
「女将? 何かあったのか?」
「ちょいとばかりね、頼みたいことがあるのさ。だから早く出てほしいんだよ」
それだけを言い残して、足音が遠ざかっていく。
(なんだ?)
言葉足らずな女将を不審に思いつつも、湯から上がった紅雲は手早く体を拭いて用意された新しい衣を纏い脱衣所から出た。
白髪まじりの髪を後ろに束ねた女将は、紅雲を見るなりほっと安堵したようだった。
パタパタと足音を鳴らして近寄ってきて紅雲の袖を掴み、───あろうことか隣の女湯に引き入れようとする。
「おい、女将! 俺を変態にする気か!?」
「心配しなくても他の客はいやしないよ」
そういう問題じゃない。
だが声は落ち着いているものの、女将はどこか興奮状態だった。焦燥が顔にくっきりと浮き出ている。どこからそんな力が出るのかと疑うほどの力で、紅雲の躊躇すら振り落として女湯に引きずり込んだ。
こうなれば外に出ようと足掻くのは無駄な気がする。というか外に慌てて飛び出して他の客にでも見られれば、変態の烙印を押されることは必至だ。
「何があったんだよ、おか」
とりあえず事情を訊こうと口を開いた紅雲は、目に飛び込んで来た光景に唖然とした。
───数人の女中が取り囲む中に、力なく瞼を閉じた朱花がいる。
「はぁああ!?」
思わず飛び出たのは驚愕の言葉だ。いや、言葉にすらならなかった。間抜けな音だ。自分でもどうかと思うほど頓狂な声が出たものだ。
女中にぐったりともたれかかっている彼女はピクリとも動かない。浴衣から覗く肌は上気してほんのり赤く、僅かに汗ばんでいる。
「どうやらのぼせてしまったみたいでねぇ。流石にアタシらじゃ運べないし、主人呼ぶわけにもいかないし」
「なんでだよ。別におっさん呼んでもらっても良かったんだけど」
「馬鹿言うんじゃないよ。若い娘が男に肌晒すなんて恥さね」
「俺は男じゃないってか」
目を据わらせる紅雲に、女将は首を振りながらやれやれと肩を竦めて見せた。
「鈍い男だね。アンタ、あの子の裸を他の男に見られても良いっていうのかい?」
「・・・・・・」
(いや、見られても良いかって言われれば)
それは駄目だと思うが、それ以前に。
(別にコイツ、俺のってわけじゃないんだけど)
弛緩した細い体を抱き上げ、紅雲は眉をしかめる。軽い。軽くて細くて、しっかり掴んでいなければするりと抜けてどこかに消えてしまいそうだ。
泡のように、羽のように。
(しっかり掴んでおくって、なんだ。・・・ガラでもねぇ)
胸に広がるのはモヤモヤしたものばかりだ。
自分でもよくわからないその苛立ちにも似たものを抱いたまま紅雲は女湯を出る。後ろから女将や女中もついてきているから、間違えても自主的に女湯に突撃した捨て身の変態とは思われないはずだ。
「じゃあ、後は頼んだよ、紅雲の旦那。その子、団扇で扇いでやんな」
凛と背筋を伸ばして女将は離れていく。先ほど紅雲を女湯に引きずり込んだ際の焦燥が嘘のように落ち着き払って、「女将、団体でのご予約が」などと女中の話を聞きながら廊下の向こうに姿を消した。
「・・・ったく」
少しだけ苦しそうな寝息を零す朱花を見下ろして息をつく。
(目離すとすぐこれだ)
昼は軽食を買いに行っている間に勝手に御者台に移って来ていた。今はのぼせて意識を飛ばしている。何故こうも落ち着きがないのか。
王族がいない今、彼女はこの国最高の淑女であるはずなのに。世間一般に認識されている『高貴な家柄のお嬢様』とはあまりにかけ離れている。
(・・・まあ、両親があれだとなぁ)
どうやらこの仕事が終わるまで、自分は彼女の天真爛漫さにとことん付き合わなければならないらしい。
短くなった朱花の艶髪が紅雲の歩みに合わせて軽く揺れる。
彼女はまだ、目を覚まさない。
***
部屋について整えられた寝台に朱花を寝かせ、女将に言われたように団扇で扇いでいると、軽いノックとともに入室の声がかかり女中が姿を現した。
何故か手には荷物を持っている。しかもかなり見覚えがあるものだ。
(見覚えあるっていうか・・・・・・俺の荷物、だよな?)
眉をひそめる紅雲に、女中はしれっと言ってのけた。
「団体でのご予約が入りましたので」
だからなんだ。
素で突っ込まなかった自分を素直に褒めてやりたい。というか女将といいこの女中といい、ここの従業員は言葉足らずな説明しかしないのか。
浴場で早く出ろと急かされたときのことを思い出して、紅雲の額に青筋が浮かんだ。もれなく半目でもある。
「急な雨で周遊していた方々が避難して来られたのです。それで部屋がひとつ足りなくなりまして、こういう処置をとらせていただくことになりました」
つまり「部屋がないからお前はこっちでもいいだろ」と。
(良いわけあるか!)
「おいちょっとま」
「今日お召だった衣は女将が洗濯していますので、明朝お届けに参ります」
「いやだから話をき」
ふいに押し付けられたものに、紅雲の言葉が止まった。訝しげに受け取った紙を見ている間に、女中はそそくさと部屋を出て行ってしまう。
紙に連なっていた文字は、女将のもの。
『寝込みは駄目だよ』
ぐしゃっ。
紅雲は無言で紙を握り潰した。