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「誤解のないように言っておきますけど、私、別にお見合い自体が嫌で逃げてきたわけじゃないの」
舌を噛まないように注意しながら朱花はそっと口を開いた。
馬の手綱を引く隣りの男は、さも興味がなさそうに相槌を打っている。朱花も運び屋の男も御者台に座り、前方を見据えたままだ。
ちなみに、先ほどまで朱花は馬車の中にいた。ひとりで窓の外を流れる景色を楽しんだり、歌を口ずさんだりしていたのだが、ついに退屈に耐えられなくなって男に話しかけたのが一時間ほど前。けれど御者台に座る男と馬車の中にいる朱花とではあまりに距離がある。声なんて聞き逃すことのほうが多い。さらに朱花は前方──つまり男に向かって話しかけるのだが、返事をする男は前方──つまり朱花に背を向けたままだ。声なんて聞こえるわけがないし、男が声を発しているかも怪しい。
と、いうわけで。
(前に移っちゃえ)
男が昼飯の軽食を買っている間に勝手に御者台に移ったのだ。それが十五分ほど前の話。
「え、なに。お前が運転すんの?」
軽食抱えて戻ってきた男の第一声がこれだ。言いつつ馬車に乗り込もうとするものだから、慌てて引き止めたのだが──。
「動かせないなら後ろに乗れよ。そこ邪魔なんだけど」
「だって声聞こえないし話が出来ないんだもの」
「だからって貴族のご令嬢が普通御者台に乗るか?」
「乗らないの?」
「乗らないだろ。しかも動かせないんだろ、乗って何の意味があるんだよ。早く後ろ行け」
「じゃあ動かし方教えてくださいな。そうすればここにいてもいいんでしょう?」
「お前が動かせるようになったら俺必要ないだろ。ってかなんでそんなにそこにいたいんだよ。俺は中で眠りたい」
「待って、馬車に乗ろうとしないで! だって暇なんだもの。歌も歌ったし景色も見たし瞑想もしてみたけど暇なの。もう何もすることがなくて・・・」
「ひとりしりとりでもしとけば?」
などと散々揉めに揉めて、結局朱花が押し切ってこの形になった。後ろの馬車は今、無人の空箱と化している。
「それで? 見合いが嫌じゃないなら何で逃げたんだよ。反抗期か」
一応、こちらが話しかければそれに反応してくれるので退屈はしていない。男は相変わらず倦怠感は纏ったまま、酷く億劫そうに馬を操縦している。
朱花は言葉を選びながら慎重に口を開いた。
「お見合いが嫌というか、家が決めたお見合いが嫌なの」
「家が決めないで誰が決めるんだよ。そういうもんだろ、高貴な家の見合いって」
(それはそうかもしれないけど・・・)
どう言えば伝わるのかがわからない。朱花は衣の裾を握りしめる。
「私だって、お父様やお母様が言ったのなら素直にそれに従ったよ。ううん、お父様とお母様はそんなこと絶対に言わない」
朱花の父と母は恋愛結婚だ。どちらも生家は高貴な家柄。お家のための見合いなんてして当然な家だ。けれど父と母は恋愛をして結婚という貴族にしては非常に稀な手順を踏んでいた。国民の大半を占める庶民にしてみれば普通の、ごく一部の貴族からしてみれば異質な恋愛結婚。
そんな彼らの口癖はいつだって「愛するひとと添い遂げられればそれが最上級の幸福」だった。だから彼らは朱花が望まないかぎり見合いを進めてきたりはしなかった。
けれどそんな朱花の両親は一年前に朱花をおいて儚くなってしまった。突然のことだった。視察で訪れた村の地盤がずっと続いていた雨期のせいで緩み、壮大な土砂崩れとなって両親の乗っていた馬車を襲ったのだ。
「名前、言えばわかるかしら。私の名前はね、柏朱花っていうの」
男が大きく目を見開く。
「柏・・・? 宰相の柏家か?」
朱花は微笑みながら頷いた。
春翔国には王がいない。先の戦で王も、王族も、その尊い血脈を絶ってしまった。国の象徴たる王がいなくなれば、大抵の国は荒れる。だが、春翔国はそうはならなかった。王が存命だったころのような政治体制で、仕事の国と周辺諸国に名を馳せたまま。
それもこれも、宰相を中心に貴族が尽力したからだった。だからこそ、柏家の宰相夫婦が亡くなった一年前、国民は悲嘆に暮れたのだ。
そして宰相夫婦が亡くなって、その仕事と家を継いだのが、朱花を養子とした養父母たち。彼らは母の生家の人間で、母自身も実は彼らの養子となったという事実があった。
母はもともと貴族だったが貧乏貴族の生まれで、しかし器量も頭も良かった為に遠縁の家に養子として引き取られた。母は父と結婚する際養子縁組を解消していたから、朱花自身が彼らと関わることはそれまで一切なかったのだ。けれど両親が亡くなってその葬儀も終えたとき、彼らは朱花の前に現れた。宰相柏家の継承権を持った朱花の前に───。
彼ら自身がもともと名のある貴族。さらには宰相夫人の遠縁で、解消されたとはいえ宰相夫人の養父母だった人間だ。周りの貴族は玉のように愛されてきた朱花が世間知らずだと知っていたからか、彼らが身寄りのない朱花の養父母となることに賛成の意を示した。朱花が名のある貴族の次男や三男を婿養子として迎え、家を動かせるようになるまでの策として。
「それでお前は養父母が持ってきた見合いが嫌で逃げ出した、と」
朱花は拗ねたように口を尖らせた。
「だって、見合いだなんだと言いつつ、私と相手の結婚は決定事項だと聞いたんだもの。とりあえず会ってみなさいって言われたけど、会うだけじゃ済まないんでしょう?」
「仕方ない気もするけどな。早めに柏家を立て直したいって話なら。ってか、なんでそんなに結婚が嫌なのかわからねーんだけど」
「だって!」
淡々とした抑揚のない語調に、朱花は声を荒らげた。運び屋の男が目だけを朱花に向け、再び前方に視線を向ける。
「ま、両親の幸せな恋愛結婚を目の当たりにすれば、最初は愛のない見合い結婚が嫌ってのもわからなくもないような気もするけど・・・」
なんとも歯切れの悪い言い方だ。
ポリポリと痒くもない頬を軽く掻いて、運び屋はおもむろに手を伸ばした。
「だから、んな泣きそうな顔すんな」
大きくて無骨な手が頭を叩く。撫でるなんて優しいものじゃない。叩く、だ。
無造作に頭を掻きまわされて、朱花はそこで初めて自分が泣きそうになっていることに気づいた。薄い透明な膜を張る眸を目一杯に見開いて、朱花は叫んだ。
「これは鼻水!」
「お前の鼻水は目から出んのか」
冷静なつっこみが来た。彼の目がいささか死んでいるように見える。
(だって、あのひとたちは母様を馬鹿にしてた)
───〝生活に困ってたとこを助けてやったってのに、とんだ恩知らずだよ。結婚するなり縁を切っちまうなんざ。あの子と一緒になんてなったから、柏宰相も死んじゃったのさ〟
いつもいつも、冒涜の言葉ばかりを吐いて。その言葉を飽きもせず朱花に聞かせて。そして最後は侮蔑を孕んだ目で、唇に嘲笑を浮かべるのだ。
───〝あんたはあの女みたいになっちゃダメだよ〟
(誰があんなひとたちの思い通りになんてなるもんですか!)
朱花は目の端を流れていく景色をキッと睨み付けた。目の膜が弾けてしまわないように、力を込める。
その様子を、運び屋は感情の宿らない眸で眺めていた。
***
春翔国の首都、勾胡は広い。王宮がある勾胡の中心部から隣町までの移動は、馬車で半日ほどかかる。馬を駆っての全力疾走ではもっと短いはずだが、運び屋の男は絶対にそれをしなかった。なんでも「こんな街中で馬の疾走は嫌でも目立つ」だそうだ。
「おい早く来い、朱花」
御者台から降りて地平線の彼方に沈んでいく夕陽に見惚れていた朱花は、急に手を引かれてつんのめった。
「わっぷ!」
「ぐっ・・・」
危うく転びそうになってつい一歩踏み出し、突っ込んだ先は男の胸。抱き止められたというには鈍い音がして、男が呻いた。───頭突きを食らわせたのだ、男の胸に。
「・・・っ、お前なぁ。もう少し落ち着けよ、ご令嬢だろが」
「異議あり! 今の私は悪くない! 被害者よ!」
「ひとの胸骨折りかけといて被害者になろうとすんな」
「あなたは骨折られかけただけでしょう。私は転びかけた上に頭がい骨割れた!」
「割れてねぇだろ嘘つくな」
額をべしべし叩かれる。力加減されているのだろうが、痛いもんは痛い。
むくれる朱花の額をひと通り叩いて満足したのか、運び屋の男は朱花の腕を引いて歩き始めた。
「どこ行くの? 運び屋さん」
「もう日が暮れるからな。今日この町を抜けるのは無理だから一泊する」
「外泊! 私外泊初めてなの。着替えとかあるのかしら。ねえ、知ってる? 運び屋さん」
「場所によるだろうな。まあ、今夜泊まるところはちゃんと準備されてるから安心しろ。・・・ああ、それから」
ぴたりと、男が足を止める。
思わずまた彼の肩口に頭突きを食らわしそうになり、朱花は慌てて足を止めた。
「運び屋じゃなくて紅雲な、俺の名前」
肩越しに、黒い眸が一瞥してくる。
紅雲。紅い、雲。
「紅雲さん・・・」
名が、今頭上にある温かい空を表しているようで。
唇に名を乗せて、朱花はふわりと微笑んだ。