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春翔国は、ひとの数だけ職種があると謳われるほど商業盛んな国だ。
崇めるは職業の神、旭神。先の戦でその血脈を絶った国王は旭神の血を汲む家系だと言われ、さらには国全体が神の加護を受けているとまで言われている。
起業しようとする人間を支援する仕事支援局なんてものまであり、春翔国は仕事に命を懸ける仕事人間の国であると周辺諸国に名を馳せているのだ。
かと言って、朝から晩まで働かされるなんてことは一切ない。国が定める労働法の中には、きっちりと八時間労働を義務付ける文面があり、やむおえず残業する場合、雇用主は残業代を従業員にしっかり払わなければならない。これは労働と金銭の公正な取引であり、それに背く場合はどんなに権力ある貴族でも容赦なく罰せられる。
そういった全面的支援あって、春翔国は諸国に名を馳せるほどの国になったわけなのだが───。
「あの、お金がなくてもどんなものでも運んでくれる運び屋さんはあなたですか?」
時たま、首を傾げるような仕事も存在するのである。
***
「で? 何を運んでほしいんだよ」
大きく枝を広げた桜の木からひらひらと薄い桃色の花が零れ、柔らかく地面に落ちていく。
そんな風情ある景色にそぐわない倦怠感を隠そうともしない男に、柏朱花は首を傾げた。
(体調が悪いのかしら。ひどくダルそう)
錆鼠色の衣の衿元はゆったりと広げられ、短髪の黒髪を無骨な手が掻き揚げる。商売人とは思えないほど客に対して遠慮会釈がない。思わずじっと見つめると、不快気に柳眉が寄せられた。
「なんだよ。言っとくが、金がなくても運んでやるってわけじゃない。それ相応の対価はもらうからな」
「対価? タダじゃないの?」
「アホか、タダ働きなんざ冗談じゃない。大体労働法にあるだろ、働くならそれ相応の労働金を貰えってな。で、何を運ぶんだよ。物によっては結構高くつくけど」
ふああっと欠伸をしながらの問いに、朱花は思い悩んだ。本当にこの男に依頼しても大丈夫だろうかという思いが胸に渦巻く。
(高くつくって・・・。どうしよう、やっぱり少し安易すぎたかしら)
金は使いたくない。というか持っていない。一文なしだ。かといって対価として支払えるような物も今は持っていない。
被いていた衣が風になびく。その上に落ちてきた桜の花びらに、男は目を細めた。
「何か訳ありか・・・」
「えっ」
「顔を隠してるのは見られたら困るから。ああ、外国人で髪色が珍しい場合もあるか。だがその肌の色からして生粋の春翔国女人だろう。となればやはり誰かに見つかるとマズイ、だな」
春翔国の女は肌が透けるように白い。それ故に、この国の妓館は他国からの客の方が多いのだ。
つらつらと並べられる言葉に、片頬が引き攣る。けれど男はそんなことお構いなしだ。
「衣も結構値が張るだろ。高貴な身分だな。身分の高い女が顔を隠して忍んでまで何かを運びたいとすれば・・・恋文か?」
ニヤリと口角を吊り上げる男の顔は、悔しいことにかなり整っている。髪と同じ黒い眸。少しだけ日に焼けた肌。並の女が放っておかない相貌に浮かんだからかうような表情は───腹立たしさを掻きたてる。
「残念でした! 運んでほしいのは物じゃなくて私です!」
「は?」
負けず嫌いな性格から言い返し、ついでにニヤリと意地の悪い笑みをし返してから気づいた。呆気にとられた男の顔に満足したことは言うまでもない。だがその勝利の余韻に浸るには、自分の犯した失態が邪魔をする。
(あ───!)
「ち、ちがっ・・・くもないけど、ええと・・・」
もう少し遠回しに言うつもりだったのに。自分の愚かさを全力で呪いたい。
「なんだ、恋文じゃなかったら駆け落ちか」
「違いますっ! その逆よ!」
「逆? 見合いが嫌で逃げ出したか」
「うっ・・・」
乗せられたと気づいた時にはもう遅い。さらに朱花は隠し事が大の苦手だ。
ついつい視線を逸らした彼女に、男が顔を背けて肩を震わせる。
「・・・お前、騙されやすいだろ」
からかうような口調に、朱花の機嫌が地の底まで落ちたのは・・・・・・言うまでもない。
***
運び屋の男が言ったことは、的を射ている。まず第一に、朱花の家は身分が高い。それ故に舞い込んで来た見合いが嫌でただいま逃走真っ最中。だから誰から情報が漏れるかわかったものではないので、顔を見られるのが非常にまずい。
(なのに自ら墓穴掘ってどうするの、私──!)
客の私情を探ろうとする男もどうかと思うが、簡単に事情を露見させてしまう自分もどうかと思う。
さあっと顔が青ざめているのが自分でもわかる。朱花の素性がばれた上に家の捜索の手がこの場所にまで及んでいたらと考えると、なかなかにぞっとする状況だ。
(だだだいじょうぶ、大丈夫。まだ私の身元がばれたわけじゃないし、早くここを離れれば・・・)
朱花は被いていた衣を剥ぎ取る。そして男に押し付けた。
「これでお願いします! 私を遠くまで運んでください!」
これ以上探りを入れられて墓穴を掘る事態になる前にと、朱花は商談を成立させようとする。男が言っていたように、被いている衣は上質なものだ。
これでどうにかここから離れられる。そう思っていた朱花の耳に思わぬ言葉がもたらされたのは、衣を押し付けた直後だ。
「断る」
「え・・・」
自ら上質だと言った布を朱花に押し返す男の顔に、さきほどまでの笑みはない。腕を組んで〝客〟をじっくり眺め、彼はおもむろに口を開いた。
「依頼を受けるか受けないかは俺が決める。そして、働きに応じた対価も俺が決める。その衣は確かに上質だが、この町を出るには足りねェな」
遠くに行きたいんだろ、と。
朱花は眉間にシワを刻んだ。
(足りない? これが?)
これは、義兄に質入れされそうになっていたものだ。もともとこれの持ち主だった母が譲ってくれたもので、義兄はこの衣を見るなり、嫌っていたはずの朱花に掌返して近づいてきた。
世間知らずの朱花が「金にはとことん汚い」と思うほどの義兄だ。その義兄が良く言えば見定めたこの衣が、この町を出るに足りないものだとは思えない。
ありありと不審を満面に押し出した朱花に、男が喉の奥で笑った。ククッと低い声が漏れる。
「そう不満そうな顔すんな。お前にとってそれがどれほど価値あるものか知らないが、俺にとっては価値がない、ただそれだけのことだよ」
「じゃあ、何なら価値があって、何なら対価としてくれるの?」
少し拗ねたような声色に、男は何度も瞬いた。黙考暫し、朱花を指さす。
「その髪。それなら価値がある。隣町に運んでも釣りが───」
言葉が不自然に止まった。大きく瞠目した男が、驚愕を浮かべる。懐から取り出した懐剣で、朱花が躊躇いなく髪を切り落としたからだ。
しばらくの間唖然としていた彼は、腰に届くほどだった朱花の髪が肩口でサラサラ揺れるのを見て口元を歪めた。
「・・・まさか躊躇なく切り落とすなんて思わなかったよ」
「どうして? 切らないと対価として払えないじゃない」
首を傾げて眉をひそめる。対価としてふさわしいのがこの髪だと言われたから切ったまでだ。切らずに毛根から引っこ抜かれる方が、切るより御免だ。
(きっと、もの凄く痛いもの)
背でゆったりと髪を結っていた紐が、するりと解けて落ちていく。それを拾い上げて切った髪を束ねている間、男はずっと意外そうな顔をしていた。
(不思議・・・。今まで私の一部だったのに、切った途端私じゃないなにかみたい)
そこはかとなく不気味にすら見える。
「ねえ、運び屋さん。この髪、どうするの?」
何となく気になって聞いたことだった。だって運び屋は男だ。鬘にしたとしても、それは彼が使うものじゃない。
男は僅かばかり渋い顔をする。
「それは切り落とす前に訊くことだろ。俺がやっぱり必要ないって言ったらどうすんだよ」
「あら、どうもしないわ。だって必要あろうがなかろうが、これを払ったら私を遠くまで運んでくれるんでしょう?」
(それに、長いとどうしても邪魔だもの。すっきりしたし・・・家の目を欺くためにもちょうど良かったし)
家の人間は〝髪の長い〟朱花を捜すはずだ。正面から見ようが後ろから見ようが、長い髪は大きな目印になる。そして春翔国の身分が高い女は、髪を伸ばすのは当然で、長い髪が美しいと信じて疑わない。だからこそ〝肩ほどの長さになった〟朱花は捜索対象から一度外れることが出来る。
あっけらかんと言う朱花に、男は明らかに脱力したようだった。もともと纏っていた倦怠感が、さらに増したように見える。
「これはとんだお転婆だな・・・」
きょとんとする朱花を前に、男はげんなりと呟いた。