第三章「第一の事件」――その四
木が邪魔で、星はほとんど見えない。
周囲に人口の建造物がほとんどない大自然ということで、雑音も少し期待していたのだが、夏というのがいけなかったのだろう。木々の上には緑の葉が生い茂り、天井を覆い尽くしていた。
唯一合宿所の建物の近く、林が切れているところから、いくつかの星と三日月がのぞいている。雲一つない空で、夜だというのに空はあまり暗くはなかった。
しかし、見える星が少なすぎる。小一時間眺めて飽きないほどのものではない。
「……ま、いいけど」
と、雑音は呟いた。
別に雑音は本当に星が見たくて外へ出てきたわけではない。目的があって外へ出てきたわけではない。ただ、あの場所にあまりいたくなかったから、居るのが少し苦しかったから……。
なぜ雑音は、あそこにいるだけで居た堪れなくならなければならないのか?
その理由は、実は雑音にも明白で、明確なことだった。ただそれを認識してしまうと、もう後戻りができなくなってしまいそうで、苦しむだけのような気がして、言葉にしないだけだった。言葉にしないだけで――――分かっている。
――香々美が左を見る視線が、気に入らない。
ふいに、ぎいという木がきしむ音がした。そして土を踏みしめる足音がこっちへ近づいてくる。
視線をやると、それはナガツキだった。
白装束にエプロン、足元はスニーカーという、さっき洗い物をしていたときのままの格好。青白い髪を夜風に揺らしながら、こっちに向かって微笑んでいる。
「星は見えますか?」
「いや、ほとんど見えないね」
雑音は素っ気なく言う。
ナガツキはすたすたと雑音の隣へ歩を進め、並んで空を見上げた。そして星を見つめたまま口を開き、
「あの、小林様。一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「え? あ、ああ。構わないけど」
雑音は慌てて、視線を空に向ける。
ナガツキはその様を横目で見つつ、含み笑いしながら、
「小林様は、何でこの『幽霊研究会』にお入りになったんですか?」
「……僕がこの部活に入った理由? いや、別に、ありきたりなことだけど――」
雑音は頭を掻きながら、
「――幽霊に会いたかったからだよ」
「……幽霊に、会いたい? …………会って、どうなさるつもりなんですか?」
「どう……ってこともないけどさ、ただ、幽霊――というより、死者の魂――っていうのが本当に存在するのか確認して、そしてできれば、その魂と話せないかな――と、思って……」
「……どんな話をしたいんですか?」
「別に…………今の気分とか、聞きたいかな」
相変わらず空を見上げたまま、口元を歪める笑みを作って雑音は答えた。
「……じゃあ、ナガツキさん。僕からも一つ聞きたいんだけど」
「はい? 何でしょう?」
「誰かに決められた通りに生きる人生って言うのは、どう思う?」
「……誰かに決められた人生?」
「そう――」
雑音は、ナガツキの方へ向き直り、
「――例えばナガツキさんは、香々美に仕えるという目的で、今この時を過ごしているよね? 自分で決めたことじゃなく、ただ偶然香々美に呼び出されたから、そういう生き方をしている。そこには君の希望なんてないでしょ? そういう生き方は楽しい? そういう生き方に不満を持つことはない?」
雑音の質問に、ナガツキは「そういうことですか」と呟いて、
「確かにわたくしは、自分の意思を優先して行動することはありません。言われるがまま、なすがまま、主の幸せを最優先して行動します。しかし、だからと言って自分が不幸だとは微塵も感じません。生まれた時から何かの型にはめられて窮屈な思いをしているのは、誰だって同じです。それを前提にして、どれだけの喜びや楽しみを得ることができるか。それが幸せな人生ということではないでしょうか。人生を他人に決められることと、生きることが楽しいかどうかは、関係ないのではないでしょうか」
「……なるほど、それは正論だね」
雑音は嘆息しながら呟く。
雑音の声が切れたところで、ふわっと、やや強い風が吹き抜けた。ナガツキの髪が揺れ、林が揺れ、周囲から植物のざわめきが沸き立つ。頬の熱を奪っていく風。景色を撫でるように、吹き抜けていく。
風に流れる髪を耳元で押さえるナガツキ。その横顔をちらっと見ると、気持ちよさそうに目を細めている。そのたなびく長髪が、まるで風に揺れる草木のように見えた。彼女が植物の精霊であることが、雑音にも――何となく――理解できる。神秘的という言葉が当てはまる。会長は、その雰囲気に惹かれたのだろうか?
雑音がそんな思考にたどり着いたところで、
「……雑音様、悩んでらっしゃいますね」
いきなり、ナガツキが断定するように尋ねてきた。
「…………え?」
「自己嫌悪……と言ったら言い過ぎかもしれませんが、しかし貴方はそれに近い状態にありますね。そんな表情をしてらっしゃいます」
「……自己嫌悪、ねえ」
言われて、雑音は考え込む。…………これは、自己嫌悪なのだろうか? 否定はできないが、しかし当たっているともあまり思えない。ただ、『嫌悪』というのは正解かもしれない。
雑音が答えないのを肯定ととったように、ナガツキは続けて、
「貴方は一体何を嫌悪されてらしゃるのですか? 貴方自身の、貴方の人生の一体何が気に入らないのですか? 自信を持っていただきたいのです。わたくしは、貴方が十分素晴らしい方だと存じています。本当ですよ。わたくしにとっても、貴方といると心が安らぐというか。…………正直、主よりも貴方といた方が心地いいです」
「……心地、いい?」
「あ、いえ、その………………忘れてください」
慌てて、ナガツキは顔を背けた。おかげで、その時のナガツキの表情は、雑音には見えなかった。
翌朝、七時。
雑音は目覚ましのアラームで目を覚ました。布団から腕だけを伸ばし、頭の脇に置いてある時計の上辺を叩く。ようやくけたたましい音が止んだ。
しばらくベッドの中で唸った後、掛け布団を跳ね除けて上体を起こした。目を擦りながら、大きなあくびを一つする。
寝ぼけ眼で、ぐるりと周囲を見回した。
はて、いつもと様子が違う。部屋の広さも、家具も、このベッドも。そう言えば目覚ましの音も違ったっけな、とそこまで考えたところで、雑音はようやくここが合宿所のロッジの部屋の中であることに思い至った。
「そっか、そうだった」
とひとり言のように言いながら、雑音はベッドの上で一つ伸びをし、ふらふらと立ち上がる。窓に近づいてカーテンを開けると、外は快晴だった。
着替えを済ませ、部屋を出る。キッチンの方へ行くと、テーブルにはすでに八代が座っていた。
「あ、会長、おはようございます」
「ああ、おはよう、雑音君」
モーニングコーヒーを口に含みながら、爽やかな笑顔で答える八代。
雑音はその隣に腰掛けながら、
「会長、昨夜は大丈夫でした?」
「大丈夫……とは?」
「だから、何もコトを起こさなかったかってことですよ。ちゃんと安静にしてました?」
「あ、当たり前じゃないか!」
細目を見開き、、叫ぶ八代。
雑音はなおも疑う視線を八代に向けているが、内心では「まあ、そりゃそうだろう」と笑いを殺している。雑音にとって、これはいつものからかいの範疇であった。つまりは冗談である。
八代の反応に満足して、雑音がふっとキッチンの方へ視線を向けると、香々美と左が並んで朝食を作っていた。左はサラダを作っているのだろう、包丁で野菜を切っており、香々美は鍋を覗き込んでスープを混ぜている。二人とも淀みない動作で、てきぱきと料理に従事していた。
この様子を見て、雑音は、はあ、とため息をこぼす。
認めたくはないが、雑音にもぴったりと一枚の絵に収まる風景だと思える。まるで最初からそういう組み合わせだったとでも言うような、並んだ二つの背中。例えば左の位置に自分を当てはめてみても、雰囲気と言うか空気と言うか、そのようなものが不自然になるとしか思えない。相応しさ、とでも言うのだろうか。そんなものを気にするのもどうかと思うが、しかしそれがどうでもいいこととも断言できない。問題は他にも色々あると思うが。
雑音の中で、昨夜の気分がぶり返してくる。
ナガツキの意味深なセリフのおかげで、昨夜はむしろそっちが気になって香々美に関する思考がストップしていた。そのせいで、気分は良好とは言わずともニュートラルには戻っていたのだが…………。まあしかし、とりあえずウジウジ考え込むのは止めよう、ナガツキさんに励まされたばかりだし、と雑音は思い至った――――ところで、
「――あれ? ナガツキさんは?」
「ああ、それがまだ起きてこないのよ」
香々美が振り返りながら答えた。
「いつもは六時くらいに起きて私の朝食作ってくれるんだけど、今日に限って。まあ、いつもやってもらってるし今日くらいはって思ってそのまま寝かしてるんだけど、だけどそろそろ朝ごはん出来上がるから、ちょっと起こしてきてよ」
「……へいへい」
と気だるそうに言いながら、雑音は立ち上がった。にやけた顔を浮かべ「あ、それなら僕が!」と立ち上がる八代を無視して廊下を進み、ナガツキの部屋のドアの前にたどり着く。そして、
「おーい、ナガツキさん。朝ですよー」
と呼びかけながら、扉をどんどん叩いた。しかし、何の反応もない。
「ちょっと、ナガツキさん! 早く起きて」
さらに扉を叩いた。だが、相変わらず中から物音は何も聞こえない。
「もー! ちょっと、入りますよ! いいですね!」
叫びながらノブに手をかけ、雑音は部屋の中に入っていった。
八畳くらいの広さ。机もベッドも見覚えのある形状。雑音の部屋とまったく同じ造りである。
カーテンが閉められていて少々暗いが、そこに何があるのかくらいは分かる。部屋の奥のベッドを見たが、そこはもぬけの殻だった。寝た形跡はあるが、半分めくれた状態で、そこには誰もいない。
「え? いない?」
香々美はまだ起きていないと言っていたが、実はそのずっと前から起きていたのだろうか? すでにどこかへ出掛けてたりするのだろうか? しかし、ここらから出掛ける場所なんて思いつかないが。
わけがわからず辺りをきょろきょろと見回すと、部屋の真ん中の床の上、そこに――
――首を切られた白い人形が、横たわっていた。




