第一章「出発前」――その二
「……う〜む……この式の最小値は……?」
指でシャープペンをくるくる回しながら、雑音は机の上のプリントを眺めている。
『幽霊研究会』の部室の一角。さんさんと照っている太陽の下で恋人探しに励んでいるセミの鳴き声をBGMに、ごくたまにカーテンを揺らす風の涼しさを頬で感じながら、乱雑に並べられた四つの机の一つに、雑音は陣取っている。
壁時計の針が示す時間は、九時十分。
土曜でも日曜でも、まして休日でもない純然たる平日に、午前中のこんな時間から高校一年生たる雑音が何の咎もなく一人部室にいられるのには明確な理由があり、それは現在、日本全国の高校において夏休みと呼ばれる期間の内だからである。
グランドの方からは、高校球児たちの掛け声がひっきりなしに聞こえてきている。雑音にも聞き覚えのあるクラスメイトの声が数人分混ざっており、数式をこね回している頭の片隅で彼らの顔を思い浮かべながら、雑音はよくやるもんだと半ば呆れたような感想を抱いた。が、それ以上は好感も悪感も浮かべずに、ただ黙々とシャープペンを動かしている。彼の現在の最重要課題は、目の前の数学の宿題なのである。
汗が伝っている首を撫でながら、そのじめじめした暑さに雑音の集中が途切れそうになった頃合で、ドアの外、廊下の方からとんとんという足音が聞こえてきた。
その音が最大音量に達したところで、
「おはよーう」
入口から颯爽と部屋に入ってきた女子生徒。部室を見回し、そして首をかしげて、
「あれ? あんただけ?」
「ああ、みんなして遅刻だ」
雑音はプリントから顔も上げず、ややぞんざいに答えた。
すたすたと部屋の中程に進み、そこにあった机の上に鞄を降ろした、セミロングの黒髪を耳下で外にはねている、寄り目がちな女子――東香々美――は「やれやれ」というような顔をして、
「まったく、集合時間を守れないなんて、皆なってないわねー」
「言っとくけど、君も十三分の遅刻だぞ」
雑音は数学のプリントを見下ろしたまま、声だけ投げかける。しかし香々美はそのセリフを軽やかに無視して、
「んー、つまんないな。皆が来るまで暇ね。何かしようよ、小林君。しりとりとか、山手線ゲームとか、逆野球拳とか――」
「…………逆野球拳?」
手を止め、いぶかしんだ表情で顔を上げる雑音。
香々美は右手人差し指を天井に向け、
「そ。負けた方が涼しくなってありがたいっていう、優劣が逆転した斬新な野球拳よ。楽しいし涼しくなるしで、一石二鳥の権化とも言えるゲームね。どう、いいアイディアでしょ?」
得意げな表情で香々美は胸をそらす。
雑音はその様をジト目で眺めながら、しばらく閉口した後、
「……そんなのは左とやってよ」
「それもそうね。小林君の裸なんか見てもおもしろくないし」
香々美は含み笑いで顔を逸らし、鞄からプラスチックの下敷きを取り出してぱたぱたと仰ぎ始めた。
裸になるまでやるつもりなのか、と言うか君が勝つことが前提なのか、と言うか負けた方がお得な勝負じゃなかったのか、などというツッコミが雑音の頭に浮かんだが、口に出すのもばかばかしいかったので、口には出さなかった。代わりに、はあ、と諦めたようなため息を吐きながら、雑音は再度数学の問題へと戻る。
雑音の視界の端、下敷きを片手に窓の方へ寄って行き、真っ青な空と真っ白な雲を眺めながら、香々美は
「…………早く皆来ないかな。明日の打ち合わせとかしなきゃなんないのに」
そう呟いた。そしてつまらなそうな表情で、グラウンドを走り回っている野球部を見下ろしている。
だったら自分のように宿題でもやればいいのに、と雑音は思ったが、この前の期末テストの成績を鑑みるにそんなセリフを香々美にぶつける資格は自分にはないように思えて、やはり言わないでいた。こんなに暇そうにしているのに自分より成績がいいのはポテンシャルの違いなのか、それとも真面目にやっているからこそ暇になるのか。どちらにしろ、雑音にとっておもしろくないことには変わりない。
窓に乗り出した姿勢のまましばらく下敷きをベンベン鳴らしていた香々美は、
「そういや、小林君。何か情報見つかった?」
ふと思い出したように雑音の方を振り返った。
雑音はペンをかりかり動かしながら、
「情報? って、『藁人形』のこと?」
「そう。何かあった?」
「いんや、特に何も」
「そう」
肩をすくめ、話はこれで打ち切りとでも言うように、香々美はまた窓の外を見やる。雑音はちらっと顔を上げて香々美の顔を覗いたが、その表情には特に落胆した様子は見られなかった。
数ヶ月前、この『幽霊研究会』入ってこの東香々美と出会った直後、「実は私、『藁人形』に興味があるの」というカミングアウトをされてから、雑音そして『幽霊研究会』の面々が、香々美からちょくちょく聞かれる質問である。
「『藁人形』について何か知らない?」
「『藁人形』の新しい情報が手に入ったら教えてよ」
と、数週間に一度程度尋ねられるのである。新しい情報は何もないことを告げても別に気分を害したり残念がったりする様子も見られないので、そこまで執心してるとも感じられないが、しかし断続的には聞いてくる。『藁人形』という存在が存在だけに、香々美がそこまでこのコードネームを気にする理由は、彼女と知り合って間もない雑音には聞きづらいことだった。
まあそのうち聞ける機会もあるだろうと、雑音が数式に意識を戻そうとした時、
「遅れてすいません」
入口の方から男の声がした。雑音と香々美が同時に振り返ると、ブレザー姿で白い肩掛け鞄を脇に垂らした、ぼさぼさ頭で細目の男子生徒がドアの近くに立っている。
「もー、遅いですよ、八代先輩。会長としての自覚が足りないんじゃないですか」
香々美は口を尖らせながら言う。
八代は頭をかきつつ歩を進めながら、
「いや、電車が遅れてまして」
申し訳なさそうな顔を香々美と雑音に向けた。そして窓側の席に腰を降ろし、
「どうやら僕が最後だったみたいですね」
「最後? まだ左君が来てないですよ?」
「ああ、十二街君は、今日は休みだってメールが来ました」
八代は細目をさらに細めて言う。香々美は腕を組んで肩を怒らせながら、
「まったく、左君ったら、明日からの合宿の最終確認しなきゃなんないのに」
「まあ、サッカー部の試合があるそうなので仕方ないですよ。三人でやりましょう」
「……はーい」
渋々というように香々美は自分の鞄の方へ行き、その中から「『幽霊研究会』合宿のしおり」と銘打たれた冊子を取り出した。そしてイスに腰を降ろし、その冊子をぺらぺらと開く。
雑音も計算問題を解いていた手を止めてシャープペンを机の上に転がし、同じように自分の鞄から同じ冊子を取り出した。
二人の準備ができたのを見て取った八代は、
「――とは言っても、ここに書いてある通りなんですがね。タイムテーブルも変更はありません。集合場所も時間も前に言った通りです。遅れないで下さいね。…………ええと、あと、ナガツキさんは参加するんですか?」
「あ、はい。ナガツキちゃんもぜひ行きたいって言ってました」
「そ、そう、そうですか」
答える八代の声音が、少し高くなった。
その変化に気づいて雑音が八代の顔をうかがうと、彼は少し口元を歪めている。まるで笑いを噛み潰しているような表情。八代がナガツキに対して普通以上の感情を抱いているのは、雑音には分かりきっていることであり、この反応も「またか」と嘆息する程度のものだった。香々美も気付いているのかは、雑音にはあずかり知らぬことであるが。
香々美が部活に連れてきたこともあり、雑音も過去数回ナガツキを見たことがある。浮世離れした容姿と雰囲気が印象的だった。雑音にも、八代の思いが分からないでもない。見とれるには十分な容姿だった。さらには式神という属性が、『幽霊研究会』の会長の立場に留まる八代のような人間にはなおさらなのだろう。合宿でナガツキと合間見える時の八代の浮かれっぷりを想像して、雑音は再度嘆息した。
八代は狼狽を取り繕うように、
「ま、まあ、ナガツキさんのような超常的存在がいれば、今回の我々の目的も達成しやすくなることでしょうし」
「目的?」
「ええ、そうですよ、東さん。まさか忘れてませんよね、この合宿の目的を? しおりの一ページ目にもちゃんと書いてあるじゃないですか。この由緒ある『幽霊研究会』の悲願。そう、『幽霊に出会う』ですよ。この目的のために我々はわざわざ数十キロも離れた合宿所まで出向くわけなんですから。僕達は遊び部じゃないんです。あのEXP部とか何とかいう、ユルユルな部活とは違うんですよ」
「……それじゃ経験値ですよ、会長」
「とにかくっ、機材も十二街君が調達してくれるようですし、あとは我々の心構えしだいですよ。今年こそは今年こそは、幽霊との邂逅を達成しましょう! この『幽霊研究会』の名にかけて!」
叫びながら、八代はドンと机を拳で叩いた。
その音に一瞬肩を震わせた雑音と香々美は、八代に対して、えさを運ぶアリの行列を眺めるような視線を向けるだけだった。




