先輩と映画を観に行ったら
失恋した星野先輩があまりに落ち込んでいるので、長月大志は彼女を映画へ誘ってみることにした。
M高校演劇部の部室内には今、先輩と大志しかいない。他の部員は先ほど部室からぞろぞろと出ていった。すでに他の教室へ着いて発声練習に励んでいる頃だろう。
「姉が懸賞で当てて2枚あるんです」
まずはさり気なく言ってみた。実際は大志自身が迷った末に購入した映画のチケットだ。
そのチケットを、中央のテーブルに座ってまたしても深いため息をついている星野先輩へと、差し出したのだった。
「友達と予定が合わなくて行かないからってもらったんです」
光沢のあるつるつるとした細長い券を眺めて、先輩は「おや?」という表情をした。チケットには主演俳優の明るい表情が印刷されている。先輩の長い睫がぱちぱちと動く。
「うわあ……。とむ様が出てる。うわーうわー。長月君、どうしてわかったのおう? あーっ。ジュリちゃんも出るやつね? ね?」
言いながら段々と先輩は声のトーンが上がってきた。予想外の積極的な反応に大志は少しばかり戸惑う。
「あ。姉もファンなのかな……。偶然ですよ偶然。どうです。今度の日曜日、観に行きませんか?」
「えーほんとにー。いいのいいの?」
立ち上がって顎の下で両手を組んだ先輩が、テーブル越しの真正面からじっと大志を見つめてくる。その両肩からふわりと長い髪が揺れて止まった。
「いいのって……もちろんですよ。そのために買っていや、持ってきたんですから」
久しぶりに見る、頬のぷくっとした先輩の笑顔はやはりうれしい。
「ありがとー」
「いえ。僕は何も」
先輩の目が輝いている。さっきまであんなに深刻な表情をしていたのにと大志は不思議な気持ちに包まれる。
入場券を持ち直して大志は俳優の顔をじっと見つめる。イケメン系というよりはむしろ温かみのある親しみやすい印象の名優である。
――とむ様か。
これほどまでに先輩の目を輝かせたのはこの人なのか――。先輩はとむ様のファンなのだなと大志は思った。
◇ ◇ ◇
数日後の週末。日曜日。
大志は、Sシアターの入っているショッピングモールに着いたところだった。その正面入り口へ足を踏み入れたときスマートフォンが鳴った。
「ここだよう。長月くーん」
「え。どこです先輩」
スマートフォンを耳に当てたまま、大志は入り口付近の一階フロア内を見回す。
「上だよ、上。上」
見上げると、吹き抜けになった二階の通路に先輩の姿があった。柵に体を押しつけ大志に向かって手を振っている。
「あ。わかりました。すぐ行きます」
パーカーのポケットにスマートフォンを入れて広いフロアを歩いていく。女子高校生らしき数人の塊を避け、親子連れにぶつかりそうになって立ち止まり、時に上方を仰いで先輩の姿を確認しつつ――。
フロアの中央から螺旋状に伸びている階段の一段目に大志は足を置いた。駆け上がっていく。柵から体を離した先輩がこちらへ向かって手を振っているのが見えた。
「なっがつっきくーん。こっちこっち」
今にも飛び跳ねそうな勢いで弾む先輩の様子に、大志も笑って近づいていった。
「待たせちゃったみたいですみません」
「いいのよう。あたしが勝手に早くきちゃっただけだから。さささ。行こう行こう」
迷いなく足を踏みだした先輩はエレベーター方面へと向かっている。慌ててその後ろ姿に付いていって追いつく。エレベーターの前でやっと大志は先輩と並んだ。
映画館の中はほぼ座席が埋まっていた。指定番号の席を探して座るとしばらくして場内が暗くなった。
内容はコメディータッチのヒューマンドラマだ。序盤のあたりから大志は、わかりやすい伏線だなあと思いながら観ていた。こうなってああなってと大志はやがて、ああここからだと思った。ほらほら。実はと主人公から明かされたヒロインが目を見開きおどろきの表情を――。
「――えええっ。うっそ」
「うん?」
隣を見ると先輩が正面を見据え両手を口に当てている。暗がりの中で耳につけたイヤリングが煌めいていた。
「え先輩。もしかして今気づいたんですか?」
その横顔に顔を近づけて囁いていた。
「えっ。何が?」
先輩が大志を見て、同じく囁くような声で訊いてきた。
「せんぱい、わかんなかったんですか? ほら最初に男が登場したときに――」
「ええええ。長月君そんなに早くから分かったの? とむ様のこと? すっごーい。なんで? どうしてどうして?」
潜めてはいるようだが先輩の声は通る。大志はさらに小さな声で説明しようと隣の座席に身を寄せる。
「どうしてって、わかりやすかったですよ。まずですね――」
そのとき真後ろからわかりやすい咳払いが聞こえてきた。首を回してそろりと見る。大柄な男が大志を睨んでいた。
ぱっと前に向きなおって大志と星野先輩は再び映画の続きを観る。
お茶目な主人公の言動にヒロインが笑っている。同時に先輩もきゃあきゃあ笑っていて、そんな先輩を眺めて大志の口は半開きになった。
二人を引き裂くさらなる事実が発覚した場面では、、
「ひ、ひどすぎる……」
頬に当てた手で目許を拭っていた。先輩の反応を確認した大志はスクリーンに向きなおって、苦渋の表情を浮かべたとむ様のアップを眺める。ううむと唸ってしまう。
映画の中で展開していくストーリーに先輩の反応が見事に合っていて、大志は別の意味で感動しつつある。なにしろ彼には展開が読めてしまっている。それをウムウムと確認しつつ観ていくのが彼にとってこういった映画の楽しみというものなのだ。
最後は数々の障害を乗り越えた人々が共に青い空を仰ぎ見るという、明るい未来を予感させる場面だった。絶妙のタイミングでそこにぴたりとハマる曲調の音楽が流れはじめる。
こ、これは……っと思って隣を見ると、はたして先輩はハンドタオルで顔を覆っていた。
「せんぱい――」
「やだ」
さささっとハンドタオルを畳んでバックにしまうと、先輩は照れくさそうに笑った。
照明がつくとすばやく立ち上がって、先輩は「いこういこう」と座席の間の狭い通路をすすすと通っていく。星野先輩はいつでも早足だ。
「先輩」
出口で追いついて「コーヒーおごります」と話しかける。
ふり返って先輩は大志を見あげ「まじ?」と言った。
◇ ◇ ◇
モール内の白い内装で統一されたカフェで、片隅の丸いテーブルを挟み、大志と先輩は向き合っている。
さっきから先輩はチーズケーキを食べながらとむ様の話をしていた。
ケーキを味わいつつコーヒーを飲み、とむ様を思い出してはうっとりとする。大志はそんな先輩の様子を見て、恋の痛手も少しは癒されたのかなと安堵していた。誘って良かったと思う。
最後の一口を食べてしまうと先輩はフォークを置いてふうと頬杖をついた。店内と通路を隔てる透明なガラスを見つめて遠い目をしている。
「ああ。なんだかいろいろ思い出しちゃった。胸が痛いよう……。ねえ長月君、どうすれば忘れられるんだろ……」
視線を落としたまま先輩はいきなり真剣な口調である。
飲もうとしていたコーヒーカップを口元で止めて、大志は先輩の顔を眺める。ちょっと信じられない気持ちになっている。
「先輩。いまそこですか。いまそこなのですか? 胸が痛いと。そうですか……。やっと忘れようという気持ちになったところだと……。いまそこなのですね」
言葉を噛みしめながら大志は気を取りなおす。口をつけないままのコーヒーカップを置く。
「うん?」
「いえいえ。独り言です独り言。そうだ先輩。いい方法がありますよ。忘れられないのなら、いっそ思い出す暇がないくらいに忙しくするっていうのはどうですか」
先輩は首を傾げた。同時にゆるふわな長い髪もたるんと垂れた。
「そうねえええ。私今充分に忙しいと思うのよね。朝課外でしょ授業でしょ部活でしょ料理でしょピアノの練習してラインしてカラオケして色々読んで音楽聴いて映画観てあとあと」
「……せんぱい、先輩。部室でマックスに落ち込んでいる以外は結構活動的にやってるんですね。もしかして、すでにほぼ立ち直ってかなり元気になってますねそれ実は」
「長月君」
ゆっくりと先輩が言った。上から見おろすような声である。
「は。はい。何でしょう」
「あのね。その間もずうううっと私は忘れていなくて落ち込んでるのようっ」
「え」
「もおう」
もしかして先輩は苛立ってる。あるいは困っている。大志にはわからない。指で自分のこめかみに触れながら先輩は何だかぴりぴりしている。
「なんていうの? どういえばいいの。ううん。そうそう。通奏低音っていうの? あれよあれ。ああいう感じ。何をしているときもずううっとずうっと彼の面影がそこにはあるのよう。どうしても忘れられないの」
はううと先輩が息を吐いた。幼稚園の頃からピアノを習っている先輩である。そういえばバッハが好きだと言っていたと思い出す。だがその言葉の意図は大志にはいまひとつ通じていない。
「わ。わかりました。元気に動き回ってるけど落ち込んでいると。わからないけどわかりました先輩。うむ。わかったということにしておきましょう。僕はですね先輩。せんぱいに、前の恋はもう忘れてまた元気になってほしい。その一心です。元気に弾んでいる先輩は誰よりも可愛い。少なくとも僕はそんな先輩を見ているだけで、こう。胸が。ぽわわんとするんです……。もちろん落ち込んでいる先輩も可愛い。ぜんぶ可愛いけどやっぱり悲しんでいる先輩を見ていると僕も。僕も悲しいんですよ……ものすごく……」
「ながつきくん」
そういう先輩の声は柔らかくてぴりぴりが随分と薄くなっていた。
二人の座るテーブルの周りには沈黙という空気が降り積もっていった。
やがてスカートのすさすさと擦れる音がした。先輩がもぞもぞと座り直してスカートの裾を触っている。斜めに座っていた先輩がまっすぐになって大志を見ている。
「……そうなの?」
「はい?」
「それってつまり……」
先輩は口をつぐんだ。続く言葉は何だろうと大志は待つ。姿勢を崩さずに先輩は視線を下へとずらしていって、今は自分の指を見ている。
「……あっ」
何かに思い当たったような顔になって先輩が大志を見る。何も言わず黙っている。耳が朱色に染まっていた。
このままではいけないような気がしてきて、大志はテーブルに上半身を乗りだす。
「先輩先輩、なにか誤解してます。そうですね。もう一つ提案です」
「い。いいのよう長月君。あたしがんばって諦める。大丈夫」
ほんのり赤らんでいた先輩の顔はもう元に戻っていた。
「いえ。先輩は何もしなくてもいいんです。ふ。名案ですよ。僕がとむ様になります。ね。名案でしょう。先輩は僕をとむ様だと思ってください。そしてこれから二人で愛を育んでいくっていうのはどうですか」
「は」
動きを止めた先輩が大志を見ている。すうと息を吸ってゆっくり吐いて。先輩は――。
「ごめんね長月君……」
何だろう。『嫌だ』と即答されることを予想していた大志は面食らう。
先輩は戸惑ったような表情を浮かべている。
「……とむ様は恋愛対象じゃないから。無理かも」
掌編「可愛すぎる先輩」を書いた後、何となく続きがあるような気がして書いたものです。