天使の領土~待合室~
がらんとすいた待合室には明るい日が射している。
眠れないので、薬。そういう理由をひっさげて、春季は病院に来た。
どうやら昼休みにぶつかってしまったらしく、受付にも、待合室にも誰もいない。誰も居ない明るい待合室で、春季は黙ってじっと座り…待っていた。
不眠の原因はなんとなく自分でもわかっている。
…家族のもとを離されて、たった一人ここの町に連れて来られて、今日で2週間。学校は連絡なしで休んでいる状態だったし、家族がやらかした悪事を春季はここの周囲の「分別のあるよい大人たち」から隠しとおさねばならないし。毎日軟禁状態で尋問を受けて、頭が疲れていた。
悪意ある言葉というものは体でなく頭をつかれさせるものらしい。
春季はここではたった一人だった。
周囲は、「よい大人たち」ではあったけれど、…彼らにとっての春季は、「悪い家の子」だった。みな春季にいろいろ白状させて、すべて矯正しようとしていた。
ただ、一番おとしやすいとふんだ最年少の春季がなかなか口を割らないので、向こうも焦っているのは確かだった。
春季の家は、我が家といえどもあやしいとしか言い様のない新興宗教の教会だ。
その団体は、どこかに眠っている神様が、いつか目覚めて幸せをもたらすとかいう物語の教典を作っている。その日のためにする「神様ケア」の方法がきれいな絵入りで書かれた厚い立派な教典だ。読物としては、まあ面白い。春季もそれなりに、実は3~4回読んだ。おもしろがって。小馬鹿にしつつ。
そんな春季の一家は、実は家族ぐるみで、ここの国のお偉いサンに被害を及ぼすヤバいコトをやらかしていた。幸い、今のところ証拠は何もない。このまま春季が秘密を守り通せば、おそらく「疑わしきは罰せず」の連邦法が守ってくれるはずだった。
問題はあとどれくらいもちこたえればいいのかだ。
春季はまだ未成年だ。強硬に医者へ行きたいと主張すれば「分別のある大人」はそれを阻むことはできない。…軟禁されていて息がつまっていた。とにかくどこか外へ出たかった。…どこだってよかった。医者でも裁判所でもスポーツジムでも。
監視は病院の入り口に車を止めたまま待っている。小さな診療所のような病院には、隠れるところも逃げだせる裏道もありはしなかった。
ふと、人の気配を感じて顔をあげると、金髪の男がやってきて、「やあ」と言った。
ああ、そういや、以前会ったな、と思い、春季は軽く会釈して「ドモ」と言った。
男は春季の隣に座った。
「どこか悪くしたのかい。」
男は尋ねた。春季は肩をすくめて言った。
「ねむれなくって。」
「…ふうん。そう。せっかく遠くから来たのにねえ。」
男はきれいな形の口をヘの字に曲げて言った。
春季はアレ?と思った。
…この人はどうやら自分を歓迎してくれているらしい。
誰だったか思い出せないのが少し残念に思えた。
「…あなたはどうして病院に?どこかお加減が?」
春季が尋ねると、男は「ああ」と言い、足をめくってみせた。
…ひどい火傷だ。痛そうだった。
…それにしても、だれだったろう。
一度見たら忘れないような妙に美しい男なのだが…思い出せなかった。
男は澄んだアメジストのような瞳をしている。
「キミ…病院にいるってことは、困ってるんだ?」
男は言った。
「…いささか。」
春季は深く考えずに答えた。
「ふーん。…助けてあげようか。」
冗談かな、と思って笑って気さくに応じた。
「…あはは、助けてください。」
「正直でよいね。…では、助けよう。約束する。」
春季はその瞬間ビクッとなって、…目が覚めた。
心臓が激しくばくばく打っていた。
周囲は、間違いなく病院の待合室だ。人は誰も…と、そのとき、受付の窓が開いた。
「あら?どうなさいました?大丈夫ですか?…呼んでくださればいいのに。」
看護婦はそう言って、呼び出し用のベルを指した。…なるほど、そういうことだったらしい。
春季は立ち上がって診療を申し込んだ。
診察は比較的すぐに終わり、何か薬が出た。
その日の午後、大人達は取り調べの終了を一方的に通告して来た。
春季はほっとした。助かった、と思った。
軟禁場所を出される前に、春季の生活面をいろいろ担当してくれていた若い役人が来て、春季にひそひそ事情を説明してくれた。
僕らは子供相手にやり過ぎだってずっと言ってたんだけど、強硬なのが数人いてね。でもそれがなんと、今さっき2人続けて倒れたんだよ…。天罰だって、みんな言ってる…。
春季はそれをきいてぎょっとした。
…あれは夢だ。そう自分に言い聞かせた。
完全に釈放されて、春季は歩いてホテルへ移動した。帰る日も自由に決めていいと、ひと月有効の乗り物のチケットも渡された。
だが、歩いていると訳もなく体が緊張して、汗が出た。体が妙にぎくしゃくした。
自分は何かに怯えている…春季はそう感じた。
そのときだった。
「…春季、約束を守ったぞ。せっかくきたんだし少しゆっくりしておいき。…そして君も約束を守りたまえ。」
背後で声が響いた。
春季はとっさに振り向いた。
そして…声にならない悲鳴をあげた。
空いっぱいに金色の髪が渦巻いていて、そのまん中に大きな美しい顔が、そしてあのアメジストの瞳があった。
…春季はそのまま気を失って、地面に倒れた。
目がさめたとき、そこは病院のベッドだった。
部屋の荷物台に、春季の小さな荷物のほかに、豪華な見舞い品が並んでいた。春季がうまれてこのかた口にしたことがないような高価な果物や、美しく包装された有名店の菓子もあった。
いかにもすまなそうな何人かの大人にいたわられて、苦い薬を貰って休んだ。本当は眠りたくなかった。恐ろしかった。…けれども本物の睡眠薬は苦く、そしてよく効いた。
幸い、変な夢をそれ以上みることはなかった。
春季は丸一日ほどで回復し、今度こそホテルに移動することができた。…ホテルは初めのところより、何倍もよいところに変更されていた。
当初すぐに帰るつもりで、何度も乗り物の予約の電話を入れた。しかし、どの時間帯もうまくとることができなかった。どんなに早い日のものでも、一週間近く先の話にならざるをえなかった。
いい気はしなかったが、仕方がなかった。そのまま町に滞在した。
幸い、気をきかせた役人の一人が女性のガイドを回してくれた。
彼女はちょうど春季の母親くらいの年齢で、息子もいるとかで、春季とは調子が合った。多分役人が「おかあさんがわり」に回してくれたのだろう、と鈍い春季でも気がついた。
彼女に連れられて観光に出かけ、古く美しい町並みを巡り、夜には彼女の自慢の手料理にもありついた。素朴だが、温かい料理だった。
女性ガイドは春季に町の由来や、土地の昔話を教えてくれた。それは精霊や姫君の話もあったが、もっと小さなゴースト話や少し前の女優の噂などもまざっていて、リラックスできる類のものだった。
「…このあたりで何か、空に蜃気楼が出た、とかそういう言い伝えはありませんか。」
春季が思いきって尋ねると、女性ガイドは少し考えてから言った。
「…そうですね、天使が出た記録は残っていますよ。」
女性は確かにそう言った。
春季は少し口をあけたまま、何と尋ねたものか思いあぐねた。すると女性は、言い足した。
「ええと、曇りの日で、風の強い夕方だったように思います。空一面をうめつくすほどの巨大な天使が現れて、幻を見せたそうです。…それを何人かの人がみたとかで、新聞や週刊誌が大騒ぎになりましたよ。…わたしもうんと若かったころです。…わたしは何も見えませんでしたねえ。」
「…幻、ですか…?どんな…?」
春季が尋ねると、女性ガイドは困ったように言った。
「…禍いの幻を…。いわゆる、黙示、というものではないのでしょうか。世界の終焉…とかいったような内容であったときいています…。まあなんというか、一種の集団ヒステリーだったと言われていますよ。時勢もよくなくて。」
ホテルに帰ると、春季は荷物から教団の教典をとりだして捲った。教団関係の尋問を受けるのがわかっていたので対策用に持って来たものだ。別に教典を信じて持ち歩いているわけではない。
ページをめくってゆくと、アメジストの瞳の男がいた。
金髪で、一度見たら忘れられなくなるような美しい顔をしていた。…これだ。この顔だ。
「ミルエの多く降りしとき、傷つけるあり…か。」
教団の物語の冒頭の文が綴られていた。
…助けてあげようか。
男の声を思い出してぞっとした。
自分は一体何にどんな頼みごとをしたのだろう! もし倒れた役人たちが死ぬようなことがあったら…!
「…ここに木を植し、癒しの眠りを妨げるものを取り除くならば、水を与えん。…目覚めの暁には、さらに多くの幸いを誓す…」
春季はゆっくりと最初の文を読み上げた。
…焼けただれていた男の足。
「僕になんの約束を守れって…」
春季は教典を何度も隅々までめくりなおした。
けれども、そこにはなんの答えもなかった。
数日後、例の政治家がホテルへやって来た。春季は彼の顔を以前から知っていたが、改めて見て衝撃をうけた。
…アメジストの瞳をしていた。
「…上手く逃げたな、ハルキ。今回は僕の負けだ。泣く子と病人には勝てない。…仕方がない、一旦キミを手放すとしよう。だが例の件を僕が見のがすと思っているなら大違いだぞ。親にもいっておきたまえ。いつか尻尾をつかんでやる。お前の一家がやったことはわかってるんだからな。」
春季はその瞳を見つめ、悟った。
ここはアレの領土なのだ。早く出なければ危険だ。
アレは、春季に何かをさせたいのだ。おそらくそのために手のこんだ真似をして春季をここに呼んだのだ、と。
政治家が帰ると、春季はもう一度すがるような気持ちで乗り物を手配した。
ちょうど運良くキャンセルが出て、なんとか割込むことができた。
春季は逃げるようにしてその土地を離れた。
『ファイナルエデン』に続きます。こうご期待。