2 婚約騒動(カイル視点)
「カイル・ファルクス・マードック辺境伯。お前の妻になる女性が決まったぞ。ディオフランシス侯爵令嬢、ヘザー殿だ」
先のマードック辺境伯、伯父ダスティンは、屋敷に入って私の顔を一目見るなり、そう言った。
自領地からこの王都まで、遠路はるばる来てくれた伯父を迎えようと、彼に歩み寄りかけていた私は、思わずぴたりと足を止めた。
「……ツマ?」
ツマというのは、女性の配偶者を指す「妻」のことだろうか。他に何か意味があっただろうか。恐ろしく間の抜けたことを私が一瞬真剣に考えてしまったのは、それだけ伯父の言葉に意表を突かれたからである。
「何の話ですか」
ひどく嫌な予感がするが、とにかく確認しなければならない。
伯父を応接間に通し、茶や菓子などを一通り揃えると、使用人らを下がらせた。
私が聞きたい事などわかりきっているだろうに、伯父はあえて件の話題には触れず、マードック領の四季の美しさ、街の豊かさ、人の活気などを得意げに語っていた。
ふらりふらりと回り道をしながら、話は、やがて伯父の持病のことへと続いた。
「今は病状も落ち着いているが、ふとした時に不安になってな……」
ずず、と、音を立てて、伯父は紅茶を啜った。焼き菓子を二つ纏めて口の中に放り込み、噛み砕くと、残りの液体を一気に飲み干した。今度はチョコレートを頬張った。そして、酒はないのかと私に催促した。
本当に病人なのか。
やたら元気に見えるのだが。
「体に障ります。少しだけですよ」
一見明るく陽気な伯父だが、必ずしも順風満帆な人生ではなかった。三人もいた子供たちが、若くして次々と亡くなったのだ。親ならば耐え難い苦痛だろう。しかも、そのうちの二人は、決して穏やかな死に方ではなかった……。
「わしにとっては、お前が最後の息子のようなものだ。わかるな? カイル」
「はい……」
私は四人兄弟の一番上だが、その四人もいる兄弟の中で、なぜか伯父は私を幼少時から特に可愛がった。私だけが父親の違う子だったので、あるいは不憫に思っていたのかもしれない。
実際には、私は両親にも兄弟たちにも何ら差別を受けることなく、愛情深く育てられ、それを気にしたことも無かったのだが。
「わしは早く孫の顔が見たいのだ」
棚から薄めの蒸留酒の瓶を取り出すと、グラスに少しだけ注ぎ、それを伯父に渡した。
紅茶の時のように一気に飲もうとしたので、慌てて止めた。
「お前は一刻も早く妻を迎え、跡継ぎを儲けなければならない。爵位を継いだ者の、これは宿命だ。いらん火種を生まないためにもな」
「……わかっています」
別に、生涯独身を貫こうなどとは思っていない。
マードック伯爵位を継ぐまでは、気楽な下級貴族の身分だったので、何となく妻帯から遠ざかっていただけだ。相手さえ見つかれば……。
いや、見つけて来たのか。この伯父が。
彼の顔を潰さないためにも、一度は会うしかないだろう。
それにしてもディオフランシス侯爵令嬢とは、また大物を引っ張ってきたものだ。いくら高位貴族の辺境伯とはいえ、あと二か月で三十歳にもなってしまう男が相手では、可哀そうな気もする。
「わかりました。とにかく一度会いましょう。ただ、この件に関しては、私は女性側の意思を尊重したいと思います。向こうが嫌だと言えばそれまでですよ」
「何を言っておる。嫌も何も、既に婚姻届は出してある。後は式と床入りが済めば、お前たちは晴れて夫婦だ」
「は?」
伯父に勧められて、私も酒入りのグラスを持たされていた。
それを投げ出してしまいそうになり、危ういところで手を止めた。私はグラスをテーブルに急いで置いた。
「婚姻届を出した?」
「うむ」
「いえ。うむ、ではなく」
婚姻届には、本人のサイン欄があったはずだ。そこに自署しなければ無効である。有効と見なされるサインは、本人と、その家の家長級のものだけだ。
家長……。
「まさか」
「うむ。わしが書いた」
「は!?」
「お前の代わりにわしが書いて出してやったぞ。ちゃんと王室に受理された」
「受理っ……!?」
あり得ないことが起きていた。
婚姻届が受理された。それはつまり、結婚秒読み段階の婚約者同士であると、王室に認められたということだ。伯父が先程口にした通り、後は挙式を待つばかり……。
「なっ……なんてことを」
驚愕が過ぎると、人間、かえって冷静になるらしい。
何が起きた? 何故こうなった? そもそもディオフランシス侯爵の令嬢など会ったことも見たこともないのに、どこからそんな話が湧いて出たのか、全く訳が分からない。
そうだ。顔も知らないのだ。ヘザーという名だとて初めて聞いた。それが、妻。三か月後には。
待て待て待て。普通はこうなる前に、顔合わせとか、紹介とか、あって然るべきなのでは?
私は何かおかしいことを言っているだろうか。本人が知らないうちに婚約していたというのは、どう考えても異常な気が……!
「お前、この間、ディオフランシス侯爵と話をしただろう?」
私が目を離した隙に、伯父はぐびぐびと酒を飲んでいた。
私はそれを黙って見守った。取り上げる気力も失せていた。
「……お会いしましたね。そう言えば」
爵位継承の報告を国王陛下にした後のことだった。廊下ですれ違いざまに声を掛けられたのだ。
私は侯爵の顔を知っていたが、向こうが私の顔を知っていたことにむしろ驚いた。軽い挨拶のつもりで二、三言喋ってみると、ディオフランシス侯爵は驚くほど饒舌になった。
知識豊富な好々爺の相手を務めるのは私としてもなかなか楽しく、話題は多岐に及んだ。法律のこと、政治のこと、我がフェルディナンドを取り巻く数多の国のこと……。
やがて、王立学院の現状について熱く語らううちに、私がそこの理数学部の卒業生である事実に至った。侯爵は理数学部に興味があったらしく、しつこいくらいに私についてあれこれと聞いてきた。
(理数学部か。専攻は何を?)
(数学です)
(おお! 数学か。そうかそうか。ところで博士課程は出ているのかな?)
(はい。無事修了しました)
(ほほ。修了か。中退でも、単位取得退学でもなく。ふむ……数学博士か)
(……よく御存じですね)
(ほ。ほ。いやなに。無駄に長く生きておるでな。そうかそうか……)
急に用事を思いついた、と、侯爵は、その後慌ただしく立ち去った。
用事は思いつくものではなく思い出すものだろうと、いささか不審を感じたものの、相手は四十も年上の老獪な宮廷の実力者である。余計なことは言わず、私は、妙に軽快なその背中を見送った……。
「ディオフランシス侯爵が、どうかされたのですか……」
「お前のことをいたく気に入ったようでな。すぐに私の元に手紙が来た。孫娘をぜひ娶せたい、と。わしにとっても願ったり叶ったり。ここは一つ親らしく一肌脱ごうと、こうして領地より出てきたわけだ」
「……」
親らしく脱いだつもりの一肌が、本人に無断の婚約か。
もう駄目だ。埒が明かない。
ここはヘザー嬢に事情を話し、彼女の方から断ってもらうしかないだろう。婚約まで話が進んでいるとなると、私の方からはもはや手の施しようがない。
男側から婚約を破棄すると、相手女性の名誉を著しく傷つけてしまうのだ。これが逆なら、男が女にふられたと、よくある艶聞で終わるのだが……。
「あちらはお前との結婚を楽しみにしているという話だ。年貢の納め時だぞ、カイル。ディオフランシス侯爵令嬢なら、相手にとって不足はあるまい」
使用人にも触れさせず応接間に持ち込んだ荷物の方へと、伯父が歩いた。幾重にも包まれた布を解くと、現れたのは姿絵だった。誰の絵であるかは聞くまでもない。
「ヘザー嬢だ。美しいだろう?」
「……」
典型的な金髪碧眼の美女が、描かれていた。美しいと言えば美しいのかもしれないが、それよりも真っ先に受けた印象は、よくある顔、だった。
人形めいているのだ。表情に乏しく、どこか量産めいた……。
「とにかくヘザー殿に会ってきます」
「今からか?」
「善は急げと言いますので」
「慌てずとも、三か月後には毎日顔を合わせるように……」
「三か月後まで、一度も顔を見ないで過ごせと仰るつもりですか。婚約者なら、なおのこと実物を一度は拝むべきでしょう」
「顔を見ないで結婚などよくある事だぞ」
「……」
今の状況が、よくある事、なのか。
頭が痛くなってきた。
「私より、ヘザー殿が気の毒ですよ。一度も会ったことのない男の妻なんて」
正直、私は、元々が下級貴族の出身なので、高位の貴族令嬢の気持ちはよくわからない。
そういうものだ、と、意外に割り切ってしまっているのかもしれない。
けれど、自己紹介くらいはした方が良いと思うのだ。
可能なら、三か月後の教会の祭壇前が初顔合わせになるという事態も、回避したい……。
「真面目だな、お前は」
背後で伯父の忍び笑いが聞こえたが、私は気付かないふりをした。