15 父の影(カイル視点)
「副理事っ! 大変です! 泥棒が入りましたっ」
出勤するなり、にぎやかな声を轟かせて副理事秘書のバートが部屋に駆け込んできた。
「少し落ち着け。そんなに慌てなくても私は逃げないから」
胸を押さえてハァハァ喘いでいるので、とりあえずソファに座らせた。水でもいいから何か飲ませた方が良いだろうかと、一通り水回り設備が備えられている隣室に入ると、
「副理事が雑用なんてしないで下さいっ」
悲痛な叫び声とともに、バートが追いかけてきた。
「僕が……僕がしますので!」
気持ちは有り難いのだが、バートは色々な面で要領が悪い。まだ二十歳と若いのに副理事秘書などという大役に任命されたのは、彼がエジンヴァラ公爵家の一門であるからで、決して能力の高さ故ではなかった。
私が副理事着任早々、エジンヴァラ公が直々に乗り込んできて、いきなり頭を下げたのには驚いた。
「うちの不肖の甥っ子を、宜しく頼む」
なぜ私に頼むんだ、他に幾らでも適任がいるだろう、と、腑に落ちないにも程がある申し出ではあったが、メルトレファスに次ぐ公爵家エジンヴァラに訴えられては、
「はぁ」
と頷くしかなかった。
そういう訳で、目下「使いものになる秘書」に進化させるべく鍛え上げている真っ最中である。
そそっかしいが性格は悪くないし、素直なので、それなりには扱いやすい。四人目の弟が出来たと思えば、多少の失敗も目を瞑れた。
……三度同じ過ちを繰り返すのは許さないが。
「で、泥棒とは?」
「あっ。そうですそうです。大変なんです。図書館に泥棒が入ったんです!」
ごくごくとグラスの水を飲みほし、バートは大きく息を吐いた。
改めて隣室に戻り、今度は私が執務机に座り、その前にバートが立った。
「図書館か。それはまた妙なところに入る泥棒だな……」
貴重な書物や資料は置いてはあるが、それは学問的な話であり、金銭的な価値となれば疑問が残る。どう頑張っても宝石や絵画のような値段にはならないだろう。
「盗まれたのは?」
「それが、妙なんです」
バートは首を傾げた。
「博士論文なんです。しかも三十年も前の」
「……博士論文?」
盗難の被害品は、あまりにも意外すぎる物だった。
王立学院で博士号を取得するためには、幾つかの課題があるが、その中で最も大きな試練が博士課程修了論文の作成だ。
単に長い文章をだらだら書けば良いというものではなく、その持論に基づいて有識者たちの前で複数回にわたって講演をしなければならず、これを通過できず脱落する者も多い。
そうして作成された博士論文は製本され、学院内に保管される。学籍番号、博士号取得番号、更には氏名が本と共に永遠に残されることとなる。
私やヘザーが納めた物もあるはずだ。メルトレファス公爵ユージン様も物理学関連の博士号を持っているので、彼の論文も館内に秘蔵されている。
……にしても。
「なぜ三十年も前の博士論文なんだ……?」
「何故でしょうか。僕にもさっぱり……」
全く訳が分からない。
学生が残した論文など、それこそ金に換算できる価値は無に等しい。
しかも三十年前。三十年前には最先端の研究内容だったとしても、今は皆に知れ渡っている知識の欠片に過ぎないだろう。
「とりあえず急いで判明していることだけ聞いてきました。後日、詳細な報告書が上がってくると思います」
バートが、手板に挟んだ紙を私の前に広げた。
相変わらずの汚い字に苦戦しながら読み進めてゆくうちに、ぞくりと背筋の冷えるような感覚に襲われた。
「レアト・ディアニクス……?」
驚愕よりも、戦慄に近い。紙を掴んだ自分の指先が、わずかに震えた気さえした。
一度しか聞いたことがないのに、いまだ心の中に引っかかって消えない、その名。
姓の方は長らく忘れていたにも関わらず、再び目にしたせいで、自分でも薄気味悪くなるほどはっきりと思い出してしまった。
(父だ)
三十年前、身籠っていた母を捨てた男。
琥珀の瞳を持つという……血の繋がった私の父親。
盗まれたのは、彼の本。
その題名から、専攻は私と同じく数学だと容易にわかった。
(どうなっているんだ……)
犯人は、学院付属図書館の玄関扉の鍵を外し、建物の奥の保管庫の扉を壊し、たまたま居合わせた不運な警備兵を一人殺して、父の残した論文を奪っていった。
他の何にも一切の手を付けず……ただそれだけを。
(ただの泥棒ではない。強盗だ。人まで殺して……)
母に確かめなければ。
これまで、養父の心情を慮り、実父について尋ねたことはほとんど無かった。知らなくても困ることではなかったし、何よりも、凪の海のように穏やかな家族間に波風を立てたくないという意識が、常に根底にあった。
(数学博士……実の父も。全く知らないうちに、同じ道に進んでいたのか……)
形さえも定まらない、幻のごとく曖昧な存在だった父親が、過去には確かに生きていた人間として、はっきりと像を結び始めていた。
終業の鐘が鳴ると同時に、私は副理事室を出た。
いや、出ようとして扉を開けた途端、ちょうど訪ねてきたヘザーと見合うような形で鉢合わせた。
彼女はまさにノックをしようとしていたところで、片手を軽く上げた姿勢のまま固まっていた。やがて帰り支度を整えた私の姿に気付いたらしく、
「もう帰るの?」
上目づかいに見上げてきた。
「……」
何だろう。いつもと雰囲気が違う。猫のような気紛れな素振りがすっかり形を潜めている。思わずまじまじと観察すると、視線を受けたヘザーがふいと横を向いた。
首に結んだリボンが揺れて、そのリボンを取り巻く肌の白さが、妙に目を引いた。
(ああ、そうか。服が……)
修道女のような襟の詰まった衣裳ではない。華奢な首筋と鎖骨、その下の胸の膨らみの始まりまでもが剥き出しになっている。
社交界で男を誘う手管に長けた百戦錬磨の貴婦人たちと比べれば、それでも随分と慎ましいが、普段見慣れていないだけに、僅かな露出が危ういほどに艶めかしかった。
「話、いい?」
あまりよくない、というのが本音だったが、私は渋々戸口から退けた。
彼女は当然のような顔をして部屋の中に入り、ソファに座った。
以前押し倒されたことなど、もう忘れてしまったのだろうか。警戒心の無さに頭を抱えたくなる。
「あの……」
「申し訳ない。今日はこの後予定があるので、出来れば手短に願います」
陽はだいぶ傾き、辺りは薄暗くなりつつあった。
秘書は先に帰してしまったため、広い室内に二人きりの状態になっていた。
「……では手短に言うわ。私との婚約発表、少し待ってほしいって、どういうこと?」
膨れっ面を作って、彼女は言った。服装はともかく、態度の方は相変わらず子供じみていて、その様子にかえって私はほっとした。
今の自分が、常と違う状態にあるという自覚はあった。予想外のところから転がり出てきた実父の存在に、少なからず動揺していたのかもしれない。
必要以上に人の温もりが恋しいような、誰かに触れていたいような、奇妙な感覚。
目の前の美しい婚約者にそれをしたら、あっという間にたがが外れてしまいそうで……信用できない自分自身が一番恐ろしかった。
「もう少し調べてから、打ち明けるつもりでしたが」
父が残した唯一かも知れない形見の品が盗まれたその日に、ヘザーが来た。
良い機会だ、今話せ、と何かに促されているような気がした。
「私の母は確かに先マードック伯の妹ですが、父親の出自が知れません。噂話や中傷として貴女の耳に入るのも時間の問題かと思われるので、この件については先に伝えておきます」
ヘザーが大きく目を見張った。こんな状況なのに、その青みがかったグレーの瞳はやはり綺麗だと思った。
「何言ってるの? 貴方のお父様はクラウザー男爵でしょう?」
「そうだったらどんなに良いかと、子供の頃から思っていましたね……」
「本当なの? 貴方が……」
「まぁ、昔、色々ありまして。私というより、両親の名誉に関わることなので、正直、言いたくないのですが」
「でも私には教えてくれるの?」
「三か月騙し抜いて、後戻りできない状態になってから打ち明けるのは、あまりに卑怯な気がしましてね……」
「別に騙し抜いてくれても良かったけど」
ヘザーが立ち上がった。向かいのソファに座っている私の元に歩いてきて、ぼすんと音を立てて隣に座った。急に何だと唖然としている私に、いきなり抱きついてきた。
……何の冗談だ。どうしろと。
「ありがとう。そんな大事なことを打ち明けてくれて嬉しい……」
「……」
誘っている自覚の全くない、無防備すぎる婚約者の誘惑に抗うのは、かなり骨が折れた。
唇が触れるだけで踏み止まった自分の理性にいっそ拍手喝さいを送りたい気分だったが、ヘザーは「襲った!」と大騒ぎしていた。
あの程度、襲ううちに入るものか。
式まであと二か月。我慢できるのか。……生殺しの気分である。
ちょっと手出しちゃったみたいです。ちょっとだけ。
この辺りから、話が色々動き始めます。