14 墓前にて(ヘザー視点)
庭の花壇のチューリップが、色鮮やかに花開いた。
今年の開花は少し早い。おかげで、四月の半ばに亡くなった祖母の命日に間に合った。
祖母が一番好きな花は百合だが、時期的に手に入れるのは難しいので、毎年、純白のチューリップを墓前に捧げることにしていた。庭師もその辺は心得たもので、大きく形の良い花を選りすぐって纏めてくれる。
花の白と茎葉の緑の対比が眩しく、ほのかな香りに惹かれるように花束に顔を埋めていると、クラリッサがにやにやしながら近付いてきた。
「純白の花嫁さんみたいですわ。お姉さま」
危うく、この見事な花束で妹の頭をどつくところだった。
花に罪はない。花が可哀そうだ。なので、自分の平手で妹の脳天をぺしりと打った。
「お黙んなさい。いちいちうるさい」
「誉めていますのに……」
「そんなに純白の花嫁に憧れているのなら、あんたもさっさと嫁ぎなさい。あんただって十九になったんだから、そろそろ危機感持たないとまずいわよ」
「そうですねぇ……。では、マードック伯、私に譲って下さいます?」
「はあっ!?」
「うふ。冗談に決まっていますでしょう、お姉さま。そんなに慌てるなんて、本当にマードック伯のことがお好きなのですね」
最近、この妹がサヴァナに似てきたような気がする。四六時中そばにいると、やはり影響を受けてしまうのか。
あの並々ならぬ個性の持ち主である侍女もどきが、もう一人……。頼むから勘弁してくれと、私はやるかたなく天を仰いだ。
「あ。お祖父さまがいらっしゃいましたわ」
外出の支度を終え、祖父が玄関前に現れた。
齢既に七十を超え、その顔にも手にも深い皺と幾つもの染みが刻まれてはいたが、これほど眼光鋭く矍鑠たる老人は滅多にいないと私は思う。
杖すら必要ないしっかりとした足取りで私たちの元に来ると、さぁ行くか、と、祖父はにっと笑った。
たっぷりと蓄えた白い髭が、口元の動きに合わせるように微かに揺れて、私が子供の頃こんな立派な髭はなかった、彼も年を取ったのだ、と、ふと寂しい感覚に襲われた。
「そうしていると、お前は本当にリーゼロッテに似ておるな」
老人が、懐かしそうに目を細める。私は首を傾げた。
「私がですか?」
リーゼロッテは祖母の名だ。祖父の元に嫁いできた、聡明な王家の姫。
私の数学好きは、実はこの祖母に端を発する。彼女もまた私と同じく定理と証明を愛する者だった。私と違うのは、彼女は降嫁した王女という立場を慮り、学校に通ったり、学術の会に乗り込んだりは決してしなかったという点だ。
リーゼロッテはあくまでも独学で、周囲の眉を顰めさせることなく、数学を楽しんだ。
「フェルディナンド王家は、代々、理系の頭の人間が多くてなぁ……」
有名なところでは、二百年近くも昔、学院創設に尽力した廃王子のイングラム準公爵だろう。
彼は王立学院の設立に力を注ぐために、王族位を辞して臣籍に下った。その際に賜った爵位は準公爵(臣籍に下った王族男子が名乗る敬称)だったが、王家の後継ぎ問題が複雑になることを厭い、生涯独身を貫いた信念の人でもあった。
だから、イングラム準公爵家、というものは存在しない。一代限りなのだ。
クリス・ロベルト・イングラム準公爵。
理数学部に籍を置いたことのある人間なら知らぬ者はいない、フェルディナンドで最も偉大な数学者である。
「リーゼもお前も、そのイングラム準公爵の血が強く出たのじゃろうて。彼自身は子を残さなかったが、王家には脈々と彼の魂が受け継がれておる……」
イングラム準公爵の肖像画は、王城ではなく学院に二枚保管されている。
一枚は青年期、もう一枚は五十歳に近い壮年期の物であるが、面白いのは、瞳の色が全く異なって描かれていることだ。
前者は鮮やかな翠。後者は、火のごとき赤。
フェルディナンド王家には、ごく稀に、昼は緑、夜は緋に色変わりする不思議な双眸を持つ者が生まれる。それは「アレクサンドライト」と呼ばれ、代々王族の血の濃い証として尊ばれてきた。
二百年を超えるフェルディナンドの長い歴史の中で、翠と緋の瞳を持つ者は、その多くが何らかの偉業を成し遂げてきたことでよく知られていた。
フェルディナンドを建国した初代国王、然り。王立学院創設者の一人、イングラム準公爵、然り。
だからこそ、最高の賛辞と敬意をもって讃えられるのだ。
強きもの。
賢きもの。
翠と緋の瞳こそ、王の王たる証である……、と。
「では、尊き王家の姫君に、花を手向けに行くとするか」
祖母が亡くなって、十八年。毎年違えることなく、祖父はこの時期に祖母の墓前を訪れる。
十八年前から、白い花束を持つのは必ず私の役目だった。
兄でもなく。妹でもなく。
祖母に一番似ているという……私だけの、大切な使命。
フェルディナンドは一神教の国。
人間の女性マティアの産んだ子が、実は「失われた古き神々」の生まれ変わりであり、統一神ロクシエルとして復活を果たした。神を生んだマティアの方も神格化され、現在、豊穣を司る聖母として信仰の対象となっている。
祖母の墓は、街の中心部にほど近い、そのロクシエル教会の広大な敷地の片隅に、ひっそりとあった。
大貴族の中には郊外に巨大な廟を建てて死後まで贅沢に飾り立てる輩もいるが、祖母は多くの市民に紛れて静かに眠ることを選んだ。
少しだけ他よりも墓所の面積が広いのは、祖父が来るべき時に備えて二人分の空間を確保したためである。
「もうすぐ会えそうじゃ」
毎年、祖母の墓前に来るたび、祖父は決まってその台詞を口にする。
縁起でもないからやめてくれと思うのだが、祖父にとっては亡き妻への挨拶のようなものであるらしい。
「やっとヘザーに相応しい男を見つけたぞ。メルトレファスめ、上手いこと隠しおって」
すぐ側にクラリッサがいるというのに、それを気にする様子もなく、滔々と祖父は語り始めた。
「……さすがのわしも気付くのが遅れたわ」
私は急いで辺りを見回した。何人か連れてきた従者らは少し離れた場所に控えており、祖父の独白に注意を向ける者はいなかった。
「何言ってるんですか、お祖父さま」
「ヘザー。意地を張らずにしっかりと捕まえておくのじゃぞ。今後、あれ以上にお前に合う男はまず間違いなく現れん」
「……は、ぁ?」
「これぞ神ではなくリーゼの思し召しじゃ。お前も墓の中の婆様によく手を合わせておくのじゃぞ」
「……」
返答の仕様がない。
祖父の言わんとしている事が、全く、全然、少しも理解できないのは、私の頭が悪いせいなのか。
それとも、異境の妖怪変化も裸足で逃げて行きそうなこの老人が、凡人の想像力では太刀打ちできぬ神がかった領域に、ついに達してしまったということなのか。
「ずるいですわ、お祖父さま。お姉さまばかり。私にも、お祖父さまのお眼鏡に叶う殿方を紹介して下さいませ」
クラリッサがこの上もなく呑気な発言をし、噛み合わない空気を見事に払拭してくれた。
祖父は目尻に皺を寄せ、もう一人の可愛い孫娘の羽毛のような髪を梳きながら、
「無論考えておるとも。わしが左大臣をしている時に、有望そうなのを部下に集めておいた。好きなのを選んでよいぞ」
さり気なく恐ろしい台詞を吐いた。
「集めておいたって、お祖父さま……」
「みな自らに誇りを持ち、生き生きと働いておる。そういうのを優先的に拾い上げておったら、なかなか見所のある連中が揃っただけじゃ。人としても、伴侶としても、彼らは実に優秀じゃろうて。……悪くはないぞ」
ああ、我が祖父ながら、この老人はやっぱり凄いし怖いよ、と、私はぶるりと身を震わせた。
同時に、彼をして「これ以上はない」と言わしめるマードック伯に……運命のような宿命のような……容易には断ち切りがたい縁を感じた。
「全く、予想もしとらんかったわ。こんなに早く、あの懐かしい琥珀の目に会えるとは……」
一際強い風が吹き、私の帽子を浚って行った。クラリッサが必要以上に甲高い悲鳴を上げ、私もまた慌てて帽子を追いかけた。
だから、祖父の呟きが、私の耳には届かなかったのだ。
懐かしい琥珀の目。
私がその意味を知るのは、今よりも、もっとずっと後のことになる。