13 昔の女(カイル、エノーラ視点)
(※カイル視点)
「屋敷にあげるつもりはない。帰るように伝えてくれ」
「かしこまりました」
半年が経ってから、突然彼女が訪ねてきた理由を、勘繰らないわけにはいかなかった。
「マードック辺境伯、か」
国に十五人しかいない、国境警備の重役を担う辺境伯爵。まだ空いたままの、その夫人の座。
(そんなものに興味がありそうには見えなかったが……)
よりを戻しに来たのだろうか。
ヘザーに会う前なら、利用されているとわかっていても、彼女の手を取っていたかもしれない。気心も知れているし、何より、それを許しても良いと思えるほどには、私は彼女が好きだった。
だが、今は。
(明るいな……)
満月に近い月は冴え冴えと明るく、洋灯を付けなくとも部屋の中は薄明るい。
脳裏に浮かぶのは、明るい夜の二つ名を持つ彼女。
美しく華やかな容姿とは裏腹に、難解な数学書を読み解き、その必要もないのに自ら進んで教壇に立ち、学術の会では次々と男たちを言い負かす……とびきり生きの良い、私などがもらってもいいのだろうかと気後れすら感じてしまう、高嶺の花。
彼女が気になって仕方ない。
エノーラとの思い出すら、色褪せた朧な記憶にすり替わりつつあるほどに。
「旦那様。ブライアン子爵未亡人よりこちらの手紙をお預かりいたしました。旦那様にお渡し下さいと」
執事がようやく戻ってきた。時間がかかったのは、玄関先で押し問答をしていたためだろう。
エノーラは門前払いされることを覚悟していたらしく、予め手紙を用意していた。それなら急に押しかけなどせず初めから手紙を寄越せば良かったのにと溜息を一つ吐いたところで、後先考えず行動する彼女らしさを思い出し、可笑しくなった。
出会った時もそうだった。
具合が悪いの、一緒に来て、と、いきなり怪盗の腕を引っ張った、無鉄砲な妖精の女王。
(終わったんだ。私たちは)
手紙の中身は、予想通り、貴方と別れたのは間違いだった、よりを戻したい、というものだった。
私はそれを二つに裂いた。洋灯の硝子蓋を取り、ちらちらと揺れる火に翳した。そのまま裏返したランプの蓋の上に置いた。
紙は徐々に形を崩し、やがて灰になった。
(……今更)
返信する気はなかった。エノーラの身勝手に、なぜか腹も立たなかった。
その意味では、私はひどく冷静だった。彼女を失った直後には確かに感じていたはずの喪失感も、今はただ、他人事のように遠かった。
(ヘザーのおかげか)
自室の机の上に置いてある数学倶楽部の会報誌を手に取った。栞が挟んである箇所を開けば、ストルヴィアの難問が目に飛び込んでくる。
(性格と根性が捻じ曲がっていると言っていたっけ……)
自分こそがストルヴィアだと言う機会を、すっかり逸してしまった。
いっそ三か月後、逃げようのない状況に追い込んでから、明かしてみようか。さすがに意地が悪すぎるか。
ああ、でも、自分の腕の中で、彼女が猫のように毛を逆立てて怒る様子を想像すると、楽しくて可愛くて、腹の底から笑いが込み上げてくる。
これでは好きな女の子をつい苛めてしまう悪餓鬼のようだ。自分がこんな性格だとは思わなかった……。
(違う。秘密のうちにも入らない。ストルヴィアのことなんて)
本当に明かさなければならないのは、私の出自。
父親がどこの誰かもわからない、貴族でも何でもない、それどころか、お前の親父は犯罪者だと言われても否定できる材料が何一つない……。
王家の姫の孫娘にはあまりにも相応しくない、自分自身。
受け入れてもらえるだろうか。
拒まれるだろうか。
短時間でここまで深みに嵌まってしまった自分の馬鹿さ加減に、失笑しか浮かばない。
初めから本気にならなければ、結果を恐れることもなかったのに。
(明るい夜に星の軌道か。考えてみれば、相性悪いな……。空が明るかったら、星が見えないじゃないか)
それも私達らしいと、星を霞ませる明るい月を、飽くことなく見上げた。
(※エノーラ視点)
カイルとは二年半付き合った。
その二年半は夢のように楽しく、また苦しくもあった。
彼は誠実な性格だった。妻子がありながら人妻と遊ぶ男も少なくない貴族階級にありながら、彼は私だけを大切にしてくれた。
浮ついた愛の言葉を得意げに囁く軽薄さはなかったので、それを聞ける機会は少なかったけれど、何か私が困っていると黙って手を差し伸べてくれる、さり気ない優しさを持った人だった。
けれど、一つだけ、どうにも我慢がならない事があった。
彼は、メルトレファスという極めて王家に血が近い名家に仕える、下級貴族だった。その家長である公爵閣下とは、乳兄弟であり、友でもあるという、非常に強い結びつきを持った間柄だった。
彼の誠実な性格は、その仕える主にも遺憾なく発揮されたのだ。
彼は、私との約束よりも、公爵閣下の都合を重視した。後から聞けば重要でも急ぎでもない用件でも、それが公爵様の口から出た言葉であれば、絶対の強制力を持って彼を縛った。
乱世時の騎士のように、寡黙に、忠実に、彼は公爵様に従った。腹立たしいのは、公爵様が、そんな彼を側近として常に傍らに置き、自分の仕事まで手伝わせていたことだ。
カイルにはいつも時間が無かった。当然だ。彼は、宮においては側近、家においては家令という、二つの役を一つしかない身で務め続けていたのだから。
そして、その時間の無さは、まともに私たちの逢瀬に響いた。
半年前、勢いに任せて、私は溜まりに溜まっていた公爵様への憤りを彼にぶちまけた。部下の私生活を犠牲にするような人間は、ろくなものではない、と。
カイルは怒らなかった。冷静に、私に主従の関わり方を説明した。説明しながら、はっきりと、
「私の役目について不満があるなら、これ以上は付き合えません」
そう言った。
売り言葉に買い言葉だった。じゃあ別れましょう、と私は返したのだ。しかも、悔しさと腹立たしさから、居もしない他の男の存在まで仄めかして。
カイルは少し驚いた様子を見せたものの、静かにそれを受け止めた。
顔も頭も性格も申し分のない男だったけれど、一つだけ欠点を挙げるとすれば、彼は女心の機微には極めて鈍いと言わざるを得ない点だ。
本当に私が彼と別れたがっているなんて考えたのだろうか。数えるほどしかなかった老いた夫の閨の相手を別にすれば、カイルこそが、実質、私にとって初めての男だったのに……!
「いらないわよ、辺境伯夫人の地位なんてっ!」
素気無く追い払われた門の前で、私は叫んだ。
そんなものに興味はない。私が半年も経ってから再び彼に近付いたのは、彼がようやく公爵様の側近から外れたことが、ただひたすらに嬉しかっただけだ。
命令される側からする側へと変わった今なら、以前よりももっと長く、私の傍にいてくれるかもしれない、と……。
「お願いよ、話を聞いて」
私は、やはり、取り返しのつかない事をしてしまったのだろうか。
半年間、私の気持ちは変わらなかった。
でも、彼は。カイルの心は。
「他に誰かいるの……?」
固く閉ざされた扉の向こうから、返事はない。