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Anagram  作者: 宮原 ソラ
11/37

11 矛盾の理由(ヘザー視点)


 結局、右足首の少し上、外側部分に大きな青痣を作って、私はディオフランシスの屋敷に帰館した。

 間の悪いことに、足を引きずっているところに兄と出くわし、その理由を根ほり葉ほり問い質された。

 マードック伯は「自分の不注意でお嬢さんに怪我をさせてしまった。申し訳ない」と謝るばかりで、なぜか一連の捕り物について触れようとしない。

 このままでは彼が悪者にされてしまう……意を決して口を開きかけた私だが、余計な事は言うなとばかり、辺境伯に目で牽制された。

 微笑が消えると、彼の琥珀の瞳には底冷えするような鋭さと迫力があり、私はただ押し黙るしかなかった。

「どうせヘザーのことだから、何か無茶をしたのでしょう。巻き込んでしまったようで、かえって申し訳なく思います」

 兄がじろりと私を睨む。いけ好かない視線だが、ちゃんと見抜いてくれているのが、今の状況では逆にありがたかった。

「世話の焼ける妹ですが、よろしく頼みます。根は悪い娘ではありませんので」

「良いお嬢さんだと思いますよ。私には勿体ないほどの」

「いやいや、ご謙遜を。貴方はあのメルトレファス公爵閣下と非常に懇意にしておられる他、王太子殿下の信頼も厚いと聞き及びます。今、社交界で一番話題になっているのは、貴方についてですよ。令嬢たちが、こぞってマードック辺境伯夫人の座を射止めようと躍起になっています。うちのヘザーと既に結婚秒読み段階に入っていると知れたら、大騒ぎになるでしょうねぇ」

「……」

 饒舌な兄と比べ、マードック伯は明らかに口数が少なくなった。

「社交界の話題、ですか。……他にはどのような?」

「ははは。貴方ほどの方でも、ご自分の評判についてはやはり気になりますか。ご安心下さい。良い話ばかりですよ。新しいマードック伯は、理数学部の全課程を修了し、数学博士でもあられるとか。年の離れた弟たちの面倒をよく見る、感心な兄上であるとか……」

「……そんなことまで」

 呻くように呟いたマードック伯の様子に、さすがの兄も話題転換の必要性を感じたのだろう。うおっほん、と、どこかの老人のように大袈裟な咳払いを一つして、自分より少し上の方にある辺境伯の顔色を窺った。

「ヘザーとの婚約……そろそろ正式に発表しても?」

 どさくさに紛れてなんて事を言うのだろう、この兄は。隣にいた私は、思わずその腕をつねり上げた。

「いてっ」

「余計な事言わないで下さい、兄上」

「いやしかし。こういうめでたい事はなるべく早く……」

「発表は」

 兄の言葉を遮るようにして、マードック伯が口を開いた。

「申し訳ない。少し時間を頂けますか……」

 兄がぎょっとしたように辺境伯を見る。次いで私を見た。

「ま、まさか、ヘザーが何か失礼でも!?」

「え? ああ、いえ。違います。自分には勿体ないほどのお嬢さんだと言ったのは、本心です。ただ……少し、考えることが出来まして」

「ふむ……」

 兄が黙った。辺境伯も黙った。

 厳めしい顔つきで、木偶の坊のように突っ立ってしまった二人の男の背を、私は力一杯ばしんと叩いた。

「ちょっと」

 これ見よがしに、怪我した右足を上げてみせる。

 実はだいぶ痛みも引けていたのだが、この際だから重傷のふりをすることにした。

「いつまでか弱い女性を放っておくつもり? マードック伯、迷惑ついでに私を部屋まで運んで頂けるかしら。それから兄上! ボサッとしてないでサヴァナを呼んできて!」

「お前、兄に向かってなんて口の利き方……」

「淑女に対する礼を欠いた御仁に、たとえ兄といえども払う敬意なんて持ち合わせてはいませんわ」

 つん、と私が横を向くと同時に、失礼、と耳元で声がして、体が再びふわりと浮いた。

 初めて抱き上げられた時は、驚くやら恥ずかしいやらで暴れてしまったが、今度は大人しく力強い腕に身を預け、ゆらゆらと揺れるその心地良い浮遊感を楽しんだ。






 マードック伯は私を部屋まで運ぶとすぐに立ち去った。せっかくだからお茶でもいかがと誘ってみたが、いつもの隙のない微笑で「また今度」とかわされて終わった。

 彼とほとんど入れ違いのようにして、薬箱を二つも抱えたサヴァナが部屋に駆け込んでくる。私は椅子に座りスカートを捲り上げ、大きな青痣をその必要もないのに指でつついているところだった。

「どうして痛いところをわざわざ自分で押すんですか!」

 と、たちまちサヴァナに怒られた。

 痣を見たら何となく触りたくなるのは、私だけなのだろうか。どれくらい痛いかを確かめてみたいというか。

 皆そうは思わないのか。……目を吊り上げているサヴァナの様子から察するに、たぶん思わないのだろう。

「五歳くらいの子供ならやるかもしれませんね。二十四歳の大人の女は普通しません」

 この生意気な侍女は、どうしても私を子供に仕立て上げたいらしい。一度ぎゃふんと言わせて、その主人を主人とも思わない態度を大いに反省させてやりたいものである。

「私をぎゃふんと言わせたいなら、社交界一の淑女に一時間でよいから化けて見せて下さいませ。泡を吹いて倒れるくらい吃驚すること請け合いですから」

 で。

 と、甲斐甲斐しく足に包帯を巻きながら、サヴァナはにっこりと微笑んだ。

「この傷、どのようにして作りましたの?」

 サヴァナに隠し事が出来るとは最初から考えていない私は、素直に一連の事件を白状した。

 彼女は泥棒を足止めした私の活躍については鮮やかに無視し、私を攫うようにして逃げたマードック伯の不可解な行動を、英断です、と誉めちぎった。

 ……納得がいかない。

「侯爵令嬢が下町をうろついた揚句に泥棒騒ぎに巻き込まれるなんて前代未聞です。まして警察隊に事情聴取だなんて! あり得ません。論外です。ああもう考えただけでも寒気がします」

「別に悪い事したわけじゃないもの。いいじゃない、事情聴取くらい」

「駄目に決まっています。それでなくとも、変人とか頭でっかちとか、ヘザー様に対する世間様の噂は芳しくないのですよ。この上、猪女とか付けられたらどうするおつもりですか」

「あら素敵。二つ名としては悪くないわね」

 この場合の「世間様」は、社交界のことだろう。あの退屈を持て余している趣味の悪い連中に何と言われようと、一切の痛痒を感じない私である。

「またそんな憎まれ口を叩いて。泥棒とやらだって、ヘザー様を怪我させたなんてことになったら、重罪は免れないんですよ。これで良かったんです」

 むしろ、サヴァナのその一言が、魚の小骨が引っかかった時のように、不快な違和感を私の胸にもたらした。

「どういうこと?」


「高位貴族令嬢を下層民が怪我させた、なんて事になったら、下手したら首が飛びますよ。まぁ、相手は泥棒ですし、自業自得な部分はありますけどね」


 もやもやと視界を覆っていた霧が、この瞬間、一気にさあっと引いた気がした。

 それだ、と、本能的に理解した。

(あの泥棒……)

 ちらりと見ただけだったが、まだ若かった。特に私が転ばせた方は、ほっそりと華奢ですらあった。もしかしたら十代の少年だったのかもしれない。

 取り押さえられている間、彼はじたばたと藻掻きながら、「離せ」「触るな」としきりに悪態をついていたが、その声もまた子供のように高く澄んでいた。

 緩い長袖が捲れあがって見えた前膊(ぜんはく)は、目にも眩しい白だった……。

「高位貴族を……下層民が怪我させると、重罪なの?」

 貴族が様々な特権に守られていることは知っている。例えば税制がそうだ。貴族にかかる税率は低い。だから、豪商などは、没落した貴族の跡継ぎ娘と結婚するなどして、何とかして爵位を手に入れようとする。

 刑法もそうなのだろうか。貴族を一般人が傷つけたら、罪が重くなる……?


「何言ってるんですか、お嬢様。そんなの当たり前でしょう」


 マードック伯が私を連れて早々に立ち去った理由が、ようやくわかった。まだ年若いひったくりの少年に、高位貴族への傷害という余計な罪を背負わせたくなかったのだ。

 そういえば、弟がいると言っていた。三人も。一番下は十二歳差。十七、八くらいだろう。泥棒の少年も、ちょうど同じくらいの年恰好だった……。


「人がいいんだから。相手は泥棒じゃないの」


 少し前の私だったら、そう言って肩を竦めていたに違いない。

 自分が特別傲慢だとは思っていないが、だからと言って聖母のように慈悲深い性格の持ち主というわけでもなかった。遠慮せず与えられた利権を享受し、それを普段ころっと忘れてしまうくらいの図々しさは、十分に持ち合わせている人間だった。

(でも)

 今は。

 彼らは、いずれにせよ警察隊に捕まった。人の物を不当に奪うという罪に相応しい罰を、今ごろ身に叩きこまれていることだろう。その上で、公平を欠いた傷害罪など引っかぶる必要はないと、私も思う。

 重すぎる罰は、彼らがもしかしたら更生してやり直す機会すらも、打ち砕いてしまう。


「いやあね。あの貴族らしくない人に、どんどん毒されているわ……」


 それが決して不快ではないのだから、困ったものだ。

 むしろ、もっともっと染まってしまっても良いとすら感じている自分に、驚きを隠せない。


「とにかく、お嬢様、無茶はしないで下さいましよ。もうお式まで三か月切っているのですからね」


 まだ決定事項じゃないわよ! とは反論せず、私は殊勝に頷いた。

 あの手に導いてもらって、あの腕に抱き締めてもらって、時々見せてくれるようになった素の笑顔で、笑いかけてもらって。


 それは、とても幸せなことに違いないと、確信があったから。




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