10 下町探検再び(ヘザー視点)
ひっきりなしに馬車が行き交う大通りから、二つ、三つ中道に入ると、そこはもう「下町」と呼ばれる空間なのだという。
四、五階建ての建物が狭い路の両側に軒を連ねる。一階部分は全て店が入っていた。二階以上はほとんどが住居だ。窓も小さく風通しも悪そうに見えるのに、極めて市中心部に近いその立地条件から、家賃は高くても住みたがる人間は後を絶たないとのことだった。
マードック伯が学生の頃借りていた部屋は、表通りからもっと奥まった場所にあり、今は二番目の弟が使っていた。
一番上の弟は八歳下、二番目の弟は十歳下、末弟に至っては十二歳も離れているということだ。それは凄い年の差ねと思わず感心すると、おかげで子供の扱いには慣れましたと、彼は笑った。
遠くに見える時計塔の針が十二時三十分を指したとき、急に空腹感を覚えた。
「あれは何?」
良い匂いに釣られて振り返った先に、小さな人集りが出来ていた。どうやら路上の屋台に客が群がっているらしい。
人の群を割って現れた客の一人が、今しがた買ったばかりの丸い何かを、歩きながら頬張っていた。すれ違いざま、肉の芳醇な香が漂う。
「トルテラの屋台ですね。食べますか?」
トルテラは、フェルディナンドを代表する郷土料理の一つである。厚い小麦粉の皮でたっぷりの肉や野菜を包んだものだ。
決して珍しい食べ物ではないので見たことはあるが、私が知るそれは、綺麗に皿に盛りつけられ、ソースで美しく絵を描き、ナイフで少しずつ切り分けて口に運べるよう、散々手を加えられた後のものだった。歩きながら食べるという認識はない。
「トルテラは、ああやって外で立ち食いをした方がたぶん美味いですよ」
マードック伯が人垣に入り、そしてトルテラを二つ持って戻って来た。渡されたそれは大きく、ほこほこと温かく、恐る恐る齧ってみると、口一杯に白身魚とバターの風味が広がった。
「美味しい……!」
「女性にはその魚のトルテラが人気だそうです」
トルテラを持ったまま、次にマードック伯が連れて来てくれたのは、噴水のある広場だった。ベンチは既に先客で埋まっていたので、噴水の縁に座った。
座った私の膝の上に、彼が、厚く大きな布を広げた。何処から持ってきたのだろうと訝しんでいると、トルテラの屋台で少し多めに代金を払うと、ナプキンを付けてくれるのだという。
「貴方はしないの?」
マードック伯は、膝の上に何も敷いていなかった。
「私は慣れているので」
半分ほど食べ進めたところで、ようやく彼の言葉の意味を知った。
かぶり付いたその横から、具が溢れ出し、ぼたっと落ちた。トルテラを半回転させ、また別の個所に齧りつくと、今度は汁が垂れてきた。
膝に敷いたナプキンのおかげで服は汚れなかったものの、食べ終わる頃には手はすっかりバター風味になっていた。なるほど、こういう事か、と恨めしげに隣人を睨む。
「大丈夫ですよ。広場なら手を洗えますから」
「噴水で洗うの?」
「それは駄目です」
広場の隅の方に、井戸に連結した手押しポンプがあった。勢いよく吹き出す水に手を晒すと、汚れはすぐに流れ落ちた。
「それから、ナプキンの汚れていないところで手を拭いて」
最後に、辺境伯は、十分に使い倒されたナプキンを丸めて屑籠に投げ込んだ。
「庶民流、トルテラの食べ方です。堪能しましたか」
「難しかったわ。どうして貴方は手を汚さずに食べられるのよ」
「慣れですね。そのうち本を読みながら片手で食べられるようになりますよ」
「それが出来るようになるまで練習するから、またここに連れてきて」
「姫君の仰せとあらば」
「私は姫じゃないわよ。姫は私のお祖母さまだけだわ」
祖父ディオフランシス侯爵の亡くなった妻、つまり私の祖母が、降嫁したフェルディナンドの王女だった。
亡くなったのは二十年近くも前だが、穏やかで芯の強い方だったと聞いている。姫と呼ばれるに相応しい、才知と教養溢れる女性だったとも。
……私とはえらい違いだ。
「貴女も立派な良家の姫ですよ。才知と教養はもちろん、王女殿下の孫娘という血筋までも申し分ない」
時々、埋めようのない差を感じてしまいます、と、彼は、どこか遠くを見るような目で呟いた。
「貴方だって貴族でしょ」
「貴族も上から下まであるということで」
「貴方みたいに何でも自分でこなせるのなら」
私は彼から視線を逸らした。
被っている帽子の唾の大きさを、初めてありがたく思った。多少照れても、赤くなっても、剥き出しのままでいるよりは、彼に顔色を悟られにくいから。
「私は下の貴族の方がいいと思うわ」
下町は治安が悪い、とは聞いていた。
クレメンが、私が市街の裏道に入ることを極端に嫌がっていたのはそのためだ。スリやひったくりは勿論のこと、時には強姦や殺人なんて凶悪な事件も起こるらしい。
そんな危ない場所なら女子供は迂闊に出歩けないし、ましてや生活など出来ないのではと反論すると、下町の女子供は警戒すべき点を知っているので犯罪には巻き込まれにくい、とマードック伯に軽く流された。
被害に遭うのは、何時だって、陽の光の眩しい大道しか目にしたことがないような、世間知らずの上流階級だと。
「私がそうだって言うの!?」
引っ掛かる言い方に一睨みをくれてやると、
「そうだと言わざるを得ません」
ぴしゃりと言い返された。
「路上で歩きながら財布を取り出すなんて、こんな裏道では絶対にやってはいけない行為です」
そうなのだ。行く先々の店で欲しい物が目について、手持ち現金は足りるかしらと、先ほど私は往来で財布をぱかっと開けたのだ。
中の紙幣や硬貨を数えようとすると、マードック伯にものすごい剣幕で「仕舞って!」と怒られた。誰に見られているかわからない場で、財布をひけらかすのは、犯罪を誘発しかねないのだという。
そもそも下町の人間は財布など持ち歩かず、金は服の隠しに身に付けるべきものだった。
「……悪かったわ」
私にしては珍しく殊勝に謝ったつもりだったのに。
「帰りましょうか」
一番恐れていた台詞が返ってきた。
「何よ。そんなに私を案内するのが面倒なの」
食ってかかると、マードック伯はひどく驚いた顔をした。
「いえ、そうではなく。……これ以上私と一緒に居ても、貴女が楽しめないのではと」
「そんな事ないわ」
私は巾着袋を胸に抱きしめた。
「ワクワクして、ドキドキしてるわ。だって、こんな所連れて来てくれる人、私の周りにはいないもの。だったら一人で来ようとしても、みんな怒って止めるだけだし」
「……」
「私は見たいの。色々なものを。でも、こういう場所に来たことがないから、どう振る舞えばいいかわからない……」
だったら、教えてよ。
貴方が、私に。
そう言うと、黙って私の話を聞いていたマードック伯が、ふ、と気の抜けたように笑った。
それは、いつもの隙のない微笑ではなく、たぶん私は初めて見る……一切の装飾のない素のままの顔だった。
「……負けました、貴女には」
「あら。私もようやく貴方から一本取れるようになったのかしら」
「これからは、負けが込みそうな気がします……」
「貴方は少し女に負かされた方がいいわよ。取りつく島もない隙の無さすぎる男なんて、相手する方も大変よ」
「そんなつもりは無いのですが……。そう見えますか」
「見えるわ。だから、たまには、困ったり狼狽えたり、可愛い顔も見せてちょうだい」
「……狼狽えていますよ。今、十分」
後ろの方で、不意に、大きな物音が響いた。
何だろうと振り返ると、今度は「泥棒!」と叫び声が聞こえた。
狭い路地を突進してくる二つの人影。
まばらに散った通行人は、唖然として動けないか、関わり合いになりたくないとばかり露骨に背を向けるかのどちらかだった。
その頼りにならない通行人の中に、私も見事に含まれており、ただ茫然と風のように走る二人組の悪党を見守るだけだった。
いち早く動いたのはマードック伯だ。
二人のうち、盗んだと思われる鞄を持っている方を、瞬く間に組み伏せた。後ろ手に腕を捻り上げられて、犯人の男が情けない悲鳴を上げた。
「この……待ちなさいよ!」
もう一人が仲間を見捨てて逃げようとしたので、私は咄嗟に泥棒の進路に足を出した。膝から下を持って行かれそうな衝撃に、その場に倒れてしまったが、男も転んだ。
追いついた引ったくりの被害者と(妙に派手な中年男だった)、今度は通行人も協力してくれて、三人がかりで泥棒を取り押さえることが出来た。
「ヘザー!」
マードック伯が慌てたように駆け寄ってくる。
「あ……。大丈夫よ。これくらい。……痛っ」
「怪我を!?」
「大したことないわよ。逃げようとした奴を転ばせようとして足を出したら、蹴られちゃって」
かなり痛いけど、足止めは成功した。私だってやれば出来るでしょ、と胸を反らしたところで、突然、マードック伯が、座り込んでいる私の膝の下に片手を入れた。
「へっ?」
背中にも腕が回された。あ、と思った瞬間には、もう靴裏が地面から離れていた。
決して小さくも華奢でもない自分の体が、たった二本の腕でいとも容易に持ち上げられたことが信じられない。
一連の騒ぎのせいで付近には人集りが出来つつあり、恥ずかしいやら居た堪れないやらで、私は足の痛みも忘れてもがいた。
「ちょっと……!」
「不本意でしょうが、今は我慢して下さい。とにかくここを離れます」
彼の言わんとしている事が理解できず、私は目を瞬かせた。
泥棒を捕まえた立役者である私たちが、なぜ、逃げるように立ち去らなければならないのか。このままでは、マードック伯が動くまで何もしなかった役立たずの通行人に、手柄を横取りされてしまう。
恨めしげに後ろを振り返ると、ざわめきの合間に、警察隊が走り回っているのが見えた。
「後は警察隊に任せましょう」
「その警察隊に事の詳細を報告するのは、市民の義務でしょうにっ!」
悔し紛れに文句を言ってやったが、マードック伯は取り合ってくれる気配がない。
「私たちがそれをしなくても、他の者が代わりにやってくれます。あの場には、野次馬も含めたくさん人がいましたから」
「だから何で逃げるのよ。それが納得できないって言っているの!」
問いに対する答えを、ついに彼はくれなかった。