1 婚約騒動(ヘザー視点)
「お姉さま! お姉さま、ご婚約おめでとうございます! ようやくその気になられたのですね。花嫁の介添人役、ぜひ私に務めさせて下さいませ!」
ふわふわの金の巻毛を翻し、長い睫毛に縁取られた菫色の瞳を潤ませて、妹クラリッサが部屋に飛び込んできた時、私は、うんうんと唸りながら机に向かって代数学に関する論文を書いている真っ最中だった。
幅広の天板の隅には、山と積まれた数学の専門書。書いては丸めて放り投げた紙屑が、足元に無数に散っている。
いらいらして髪を掻き毟っている間に、鼻の頭や衣服にインクがべったりと付着していたが、それを気にする私ではない。しかし、天使のように愛らしいクラリッサまで汚してしまうのは忍びなく、
「お姉さま!」
と容赦なく飛びついてくる妹を、寸でのところで私はかわした。
近くにあったクッションを盾にしつつ、
「落ち着きなさい。よく見なさい。……あんたまで汚れる!」
「いいです、汚れても。お姉さま、本当におめでとうございます!」
甘い、砂糖菓子のような笑みを浮かべつつ、クラリッサは怯む様子を見せない。ついに私は捕獲され、可愛いわりには腕力の強い妹に、痕が残りそうなほどの勢いで抱き締められた。
「三か月後にはマードック辺境伯夫人ですね。お幸せに、お姉さま」
せっかく閃きかけていた名文句が、今の暑苦しい抱擁でいっぺんに吹き飛んだ。
高貴なお嬢様らしくなく、ちっ、と舌打ちしたところで、私は、この時ようやく、妹の台詞の中に聞き捨てならない文言が含まれていたことに気が付いた。
「ご婚約?」
「はい」
「ご婚約というと、将来結婚の約束をするという、そのご婚約?」
「他に婚約はないと思いますの」
「そうよねぇ……」
いや。ちょっと待ちなさい。
「誰が」
「ヘザーお姉さまが」
「誰と」
「マードック辺境伯爵さまと」
「……は?」
初耳である。婚約とやらの当事者であるはずの私が、妹より後に事態を把握するというのは如何なものか。
何かの間違いだろうと妹の両肩をがっちり掴んだところで、今度は兄セオドアが部屋にずかずかと踏み込んできた。
「邪魔するぞ」
次期ディオフランシス侯爵閣下は、クラリッサとは対極にある腹黒い微笑を顔面いっぱいに張り付けていた。素晴らしい縁組だ、と、両手を広げて喜ぶ仕草が、三流芝居の大根役者のように胡散臭い。
「喜べ、ヘザー。お前のような行き遅れで変わり者で、大して美人でもない令嬢を、あちらは快く迎えて下さるそうだぞ」
我が兄ながら、なんて失礼な言い草だ。……忌々しいことに事実だが。
私、ヘザー・ルーベリア・ディオフランシスは、二十四歳。十代で嫁ぐのが常識とされる貴族社会においては、紛う事なき売れ残りである。
変わり者と呼ばれる所以は、私の一風変わった趣味のせいだった。私は、三度の飯よりも数学が大好きなのである。
現侯爵である祖父(父が故人であるため、祖父が現役である)を説き伏せ、王立学院理数学部に進学した。そこまでなら、勉強熱心、で済んだのかもしれないが、その後が悪かった。それなりに優秀な頭脳を持っていたらしい私は、兄のいやらしい妨害を物ともせず、超難関資格とされる数学博士の称号をも取得してしまったのである。
現在は、数学倶楽部という学術の会に所属し、会報誌に載せる論文を執筆したり、乞われて学院の数学講師として教鞭を執ったりしている。
そう。もはや認めるしかあるまい。こんな令嬢は他にいやしない。
つまり私は、史上まれに見る「大変人」なのであった。
「お断りして下さい、兄上。私がどれくらい変な女か、向こうは多分知らないのです。お気の毒というものです」
下級貴族なら、ディオフランシス侯爵家と縁続きになれるだけで御の字だろうが、相手は名門中の名門マードック。国に十五人しかいない、国境守護の大役を担う大貴族だ。
わざわざ変な女をもらわずとも、幾らでも、若くて美人で素直な花嫁を手に入れることが出来るはず。
「無理だ。あちらもなぜか乗り気でな。既に王室に婚姻届を提出したそうだ。式は三か月後。これでお前も晴れてマードック辺境伯夫人だ。おめでとう」
「こっ……婚姻届ぇ!?」
まてまてまて。
婚姻届には、本人のサイン欄があったはずだ。当たり前の話だが、今はじめて本件を知った私が、自署できるはずもなく……。
「俺が代わりに書いておいた」
兄が、無駄に鍛え上げた逞しい胸板を、誇らしげにそり返した。
「はあっ!?」
「構わんだろう。間もなく俺が家長になるし。ちゃんと祖父の許可も取っているぞ。何も問題はない」
「ちょ……! お、お祖父さまの許可!? お祖父さまが許可したのっ!?」
「おお。一番乗り気だったぞ。どうやらマードック伯を気に入ったらしい。お前をしきりに勧めていたのも、お祖父さまだった」
「え。あ。う」
びしいっ、と、兄が、私の顔の真ん中に人差し指を突きつけた。
「次期家長として命ずる! いい加減、お前は嫁げ! 嫁いで子の一人や二人くらい産んでみせろ! 数学で遊ぶのは構わん。だが、それは、お前を是非にと望んで下さるマードック伯を満足させてからの話だ。貴族令嬢としての義務、妻としての責務を果たしてから、好きなだけ遊び呆けるがいい!」
わははは、と、豪快な笑い声を響かせて、兄は去った。
呆然として動けない私の手を取り、本人は慰めるつもりだろうが、逆に私を追い詰めるだけの一言を、クラリッサは真面目な顔で口にした。
「大丈夫ですわ、お姉さま。お姉さまがマードック伯に気に入られるよう、私も微力ながらお手伝いしますから。とりあえず本を買ってきましたの。ええと、新妻の心得。旦那様を誘惑する方法。刺激的な夜の過ごし方……」
出て行け! と、私が大絶叫して妹を自室から叩き出したのは、言うまでもない。