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羽の降る丘

作者: 増田えれき
掲載日:2026/10/10

処女作の為、暖かい目で見て頂けると幸いです。

人の終わりに触れる彼女と、残された魂を送り届ける彼。


名前を持たない二人が、夕暮れの丘で少しずつ心を通わせていく、切ない幻想恋愛短編です。


夕暮れになると、その丘には風が吹いた。


どこから来たのかも、どこへ帰るのかも分からない。斜面に生えた名もない草の穂を揺らし、古びたベンチを軋ませたあと、そのまま空へ消えてしまう風だった。


坂の下には町がある。


家路を急ぐ靴音や、夕食を知らせる鐘の音。遊びから帰らない子どもの名前を呼ぶ声も、ときおり風に乗って丘まで届いた。


どれも遠くの音ではないはずなのに、ここで聞いていると、ずっと昔の出来事のように思えた。


世界が、この丘だけを少しずつ忘れていくようだった。


そんな丘へ、毎日二人はやって来る。


彼は、いつも先にいた。


夕日が町の屋根へ触れるころには、ベンチの右端に腰掛けている。背筋を伸ばし、白い両手を膝の上で組み、町へ帰っていく人々を遠くから眺めていた。


同じ姿勢で、長いこと動かない。


けれど、彼女が坂道を上ってくると、決まって一度だけ指を組み直す。本人は、その癖に気づいていないらしい。


彼女はその小さな動きを見つけるたび、なぜか少しだけ安心した。


「今日は寒いね」


その日も、彼女はいつもの言葉を口にした。


彼が顔を上げる。


「昨日も同じことを言っていたよ」


「昨日も寒かったから」


「一昨日も聞いた気がする」


「一昨日のことなんて覚えてない」


「僕は覚えてる」


「暇なんだね」


そう言いながら、彼女はベンチの左端へ座った。


古い板が、体重を受けて低く鳴る。


二人の間には、もう一人くらい座れそうな隙間が残った。


肩が触れることもなければ、膝がぶつかることもない。伸ばした指が、何かの拍子に重なってしまうこともなかった。


その距離は、初めて会った日から変わっていない。


最初にどちらが空けたのか、二人とも覚えていなかった。


彼女は一度だけ、どうしてそんなに端へ座るの、と尋ねようとしたことがある。けれど、自分も同じように左端へ寄っていることに気づき、結局聞けなかった。


「寒くないの?」


彼が尋ねた。


「最初に寒いって言ったでしょう」


「そうではなくて」


彼の視線が、彼女の手元へ落ちた。


黒い手袋に包まれた両手が、膝の上で固く重なっている。


「僕たちは、寒さを感じる必要がないから」


「必要がないことと、感じないことは違うよ」


「そういうものかな」


「たぶん」


彼女にも、よくは分からなかった。


風邪をひくことはない。凍えることもない。それでも夕暮れの風にさらされていると、胸のあたりが冷たくなることがあった。


とりわけ、ベンチの右端が空いている日は。


そのことは言わなかった。


丘から見える町には、ぽつぽつと灯りがともり始めていた。


窓の向こうで誰かが椅子を引き、食卓へ集まる。今日あったことを話す者がいて、それを聞き流す者もいる。ささいなことで喧嘩をし、しばらく口をきかなくなる家族もいるだろう。


帰らない誰かのために、料理を一皿だけ残している家もあるのかもしれない。


彼女は人間の食卓を知らない。


知っているのは、窓越しに見える形だけだった。


「魚かな」


彼が呟いた。


「何が?」


「どこかで焼いている」


彼女は町のほうへ鼻先を向けた。


「分かるの?」


「煙の匂いが少し違う」


「食べたこともないのに」


「食べたことがないから、匂いで覚えたんだよ」


彼女はもう一度、風の匂いを確かめた。


煙と土の匂いしか分からない。


「おいしいのかな」


「さあ」


「知らないんだ」


「知っていたら、今ごろ丘ではなく、あの家の食卓にいるよ」


彼女は笑った。


二人で同じ窓を見る。


どんな味がするのかも知らない夕食を、ほんの少しだけ羨ましいと思いながら。


「今日は?」


彼が尋ねた。


彼女は膝の上の手を見た。


「五人」


「そう」


彼は、それ以上すぐには尋ねなかった。


風に押された草が、さらさらと足元を擦っている。


彼女は右手の親指で、左の手袋の縫い目をなぞった。縫い目の一部がほつれていることに、今になって気づく。


一人目は、病室の窓から朝日を見ていた老人だった。


二人目は、雨の交差点で傘を落とした青年。


三人目は、自分の名前を忘れてしまった老女だった。自分の名前は思い出せないのに、子どものころに飼っていた犬の名だけは覚えていた。


四人目は、眠っているように穏やかな人だった。


五人目については、思い出したくなかった。


「聞かないの?」


彼女が言った。


「何を?」


「五人目のこと」


「話したいの?」


「別に」


「なら、聞かないよ」


彼女は手袋のほつれを引っ張った。


糸が思ったより長く伸びたので、慌てて指を離す。


「そういうところ、ずるいよね」


「何が?」


「私に決めさせるところ」


「君の話だからね」


「興味がないだけじゃないの?」


彼はしばらく彼女を見たあと、困ったように眉を下げた。


「興味がないように見える?」


「少し」


「それは困ったな」


「どうして?」


「あるから」


彼女は顔を上げた。


けれど彼は、すでに町へ視線を戻していた。


もう一度言って、と頼むのもおかしかった。聞き間違いではない。風も、それほど強くなかった。


彼女は手袋から伸びた糸を、指先へ何度か巻きつけた。


「あなたは?」


「六人」


答えが、ほんの少し遅れた。


「六人目が、何か言ったの?」


「どうしてそう思うの」


「今、息を止めたでしょう」


「僕は息をしないよ」


「知ってる」


「なら、君の見間違いだ」


「そういうことにしておく」


彼は小さく笑った。


彼女は終わりへ触れた者を数える。


彼は、行くべき場所へ送り届けた者を数える。


二人がそのことを説明し合ったことはない。初めて丘で会った日も、互いが何者なのかを尋ねなかった。


聞かなくても分かった。


少なくとも、分かったつもりでいた。


「女の子だった」


しばらくして、彼が言った。


「六人目?」


「うん」


彼は膝の上で組んでいた指をほどき、左手の親指を右手で包んだ。


「ずっと、お母さんの手を握っていた。もう握れないのに、自分ではまだ握っているつもりだった」


「行きたくないって?」


「言ったよ」


「あなたは?」


「大丈夫だ、と」


彼女は少し考えた。


「大丈夫なの?」


「分からない」


「分からないのに言ったの?」


問い詰めるつもりはなかった。


けれど彼の横顔を見ていると、どうしても確かめたくなった。


彼は町を見つめたまま、指先を擦っている。


「ほかに、言葉がなかったから」


「無責任だね」


「そうかもしれない」


素直に認められると、彼女のほうが困った。


「そこは、少しくらい言い返してよ」


「今のは責めていたの?」


「半分くらい」


「残りの半分は?」


「分からない」


「分からないのに聞いたんだね」


彼女は横目で彼を睨んだ。


彼の口元が、わずかに緩んでいる。


「今、笑ったでしょう」


「笑ってないよ」


「嘘」


「僕は嘘をつくのが苦手なんだ」


「それがもう嘘っぽい」


彼はとうとう笑った。


彼女もつられて口元を緩めたが、すぐ膝へ顔を戻した。


「寂しい?」


何気なく尋ねたつもりだった。


彼はしばらく答えなかった。


坂の下で戸を閉める音がした。遅れて、犬が一度だけ吠える。


「慣れたよ」


「慣れるものなの?」


「慣れたふりが上手になるだけかもしれない」


口にしたあと、彼は自分の言葉を確かめるように瞬いた。


「今の、格好つけた?」


「少しだけ」


「やっぱり」


「忘れてくれていいよ」


「覚えておく」


「どうして」


「困りそうだから」


彼女が笑うと、彼は本当に困ったような顔をした。


やがて遠くで鐘が鳴った。


夕焼けの名残が薄れ、空はゆっくり群青へ変わっていく。


「人間って、不思議だね」


彼女が呟いた。


「誰かがたくさんいるのに、寂しいんだ」


彼は町の窓を一つずつ数えるように眺めてから、静かに口を開いた。


「誰かがいるから、寂しいんじゃないかな」


「どういうこと?」


「失う相手がいるから」


彼女は、二人の間に残された場所を見た。


「私たちは?」


「最初から持っていない」


二人には帰る家も、待っている者もなかった。この丘を離れたあと、どこへ行くのかと尋ねる者さえいない。


誰かに呼ばれるための名前も持っていなかった。


それなのに彼が来ない日を想像すると、胸の奥が暗くなる。


坂道を上るたび、ベンチの右端へ白い姿を探してしまう。


「ねえ」


彼女が言った。


「もし私たちが普通だったら」


「うん」


「友達に、なれたかな」


彼は口を開いた。


少し考えるように視線を落とし、何も言わずに閉じる。


「今、何か言おうとした」


「そうかな」


「したよ」


「忘れた」


「すぐそうやって逃げる」


彼は返事をしなかった。


街の灯りに照らされた二人の影が、ベンチの下へ細長く伸びていた。本人たちは離れているのに、影の先だけが重なっている。


彼女はそれを見た。


彼も同じものを見ていたが、どちらも口にはしなかった。


「そろそろだね」


やがて彼が立ち上がる。


「また明日」


「明日も会える?」


「きっと」


彼女は立ち上がりながら、服についた草の種を払った。


「約束?」


「約束にすると、来られなかったときに君が怒るだろう」


「約束じゃなくても怒るよ」


「それは困るな」


「もう困ってる顔してる」


「君が困らせるからね」


二人は別々の道へ向かった。


彼は東へ続く道を下り、彼女は西へ歩いていく。いつもなら、そのまま振り返らずに別れるはずだった。


その日は数歩進んだところで、二人ともほとんど同時に足を止めた。


振り返った先で目が合う。


何となく気恥ずかしくなり、どちらからともなく笑った。


彼の足元から白い羽根が一枚舞い、彼女の肩から黒い羽根がこぼれた。


二枚は風に運ばれ、丘の真ん中で一度だけ触れ合った。


朝になれば、どちらも消えてしまう。


それでも今は、同じ風の中にいた。


◇


翌日は、朝から雨だった。


夕暮れになっても雲は晴れず、丘には薄い雨幕が垂れ込めている。


坂道を上りきった彼女は、無意識に歩みを緩めた。


ベンチの右端に、彼はいなかった。


「あれ……」


声に出してから、誰に言ったのだろうと思った。


約束をしたわけではない。


毎日会っているのも、偶然が長く続いているだけだ。少なくとも、二人はそういうことにしている。


彼女は左端へ座った。


屋根などないので、すぐに髪も肩も濡れた。雨粒の一つが前髪から鼻先へ伝い、落ちずに残ったので、手の甲で乱暴に拭う。


濡れても風邪はひかない。寒さで体温を奪われることもない。


それでも今日は、妙に寒かった。


町には少しずつ灯りがともり始めていた。


暇に任せてその数を追っていたが、途中でやめた。灯りが増えるたび、彼が来ない時間まで数えているようで落ち着かなかった。


待っているわけではない。


ただ座っているだけだ。


そう自分へ言い聞かせてから、少し雨脚が強くなっても、彼女はベンチを離れなかった。


鐘が二度鳴ったころ、坂道の下に白い人影が見えた。


彼女はすぐに顔を背けた。


「遅かったね」


彼が近づいてから、なるべく平坦な声で言った。


「待っていたの?」


「まさか」


「雨の中で?」


「雨が降る前から座ってたの」


「朝から?」


「そんなわけないでしょう」


彼は少し考えるように坂の下を振り返った。


「でも、僕が来ないのに帰らなかったね」


「今、帰ろうと思ってた」


「そう」


「何、その顔」


「どんな顔?」


「信じてない顔」


「君がそう見えるなら、そうなのかも」


彼女は顔を背けた。


濡れた髪が頬へ張りつく。


「少しくらい、申し訳なさそうにしたら?」


「待っていなかった人に?」


「待ってないけど」


彼の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。


「ごめん」


「何が?」


「待たせたこと」


「待ってない」


「うん」


「本当に分かってる?」


「分かってるよ」


おそらく、何も分かっていない。


けれど彼がいつもの右端へ座ると、胸のあたりにあった冷たさが少しだけ消えた。


濡れたベンチが低く軋む。


今まで気にしたことのない音だったが、その日はなぜか耳に残った。


「今日は?」


彼女が尋ねた。


「一人」


「少ないね」


「送れなかった」


「あなたにも、できないことがあるんだ」


「たくさんあるよ」


「何でもできそうな顔なのに」


「君は僕を買いかぶりすぎている」


「買った覚えはないけど」


「それなら返品もできないね」


彼女は吹き出した。


笑った拍子に鼻先に残っていた雫が落ちる。彼がそちらを見たので、彼女は慌てて手の甲で鼻を隠した。


「今のは雨だから」


「何も言ってないよ」


「言いそうな顔をした」


「それは難しい言いがかりだな」


彼も笑った。


雨の日に笑うのは不謹慎な気もしたが、一度こぼれた笑いを止めることはできなかった。


しばらくして、彼女は尋ねる。


「誰だったの?」


「子どもだよ。母親から離れようとしなかった」


彼は袖についた雨粒を指で払った。払っても、すぐに新しい雫が同じ場所へ落ちてくる。


「子どもなら、なおさら連れていかないと」


「分かってる」


「残っても、声は届かない。触れることもできない。そのうち、自分が誰だったのかも忘れる」


「分かってるよ」


声がわずかに強くなった。


彼女は、自分の言い方が責めるように聞こえたことへ少し遅れて気づいた。


謝ろうか迷い、結局、手袋に落ちた雨粒を親指で潰した。


「それでも、手を離せなかった」


彼が言った。


「その子が?」


「……僕が」


彼女は顔を上げた。


彼は町ではなく、足元の草を見ていた。一本の草が靴へ張りついている。彼はそれを取ろうともせず、ただ見つめていた。


彼女は二人の間に残された場所へ目を落とす。


雨を避ける屋根などない。どこへ座っても、同じように濡れる。


少し迷ったあと、彼女は右へ身体をずらした。


濡れた板が、服の下で小さく鳴る。


彼は何も言わなかった。


二人の距離が半人分だけ近くなった。


まだ肩は触れない。


「人間って、本当に怖いときは、怖いって言わないことが多いんだよ」


彼女が口にすると、彼は足元から視線を上げた。


「何と言うの?」


「明日の天気とか、冷蔵庫に何が残っているとか。関係のない話をするの」


「どうして?」


「分からない。明日も自分がいるふりをしたいのかも」


彼は雨空を見上げた。


「明日は晴れるらしいよ」


「誰から聞いたの?」


「さあ」


「怖いの?」


「少し」


彼女は返事をしなかった。


代わりに、もうほんの少しだけ彼のほうへ座り直した。


「明日、もう一度迎えに行くの?」


「うん」


「また嫌だって言われたら?」


「その次の日も行く」


「ずっと拒まれたら?」


彼は、そこでようやく彼女を見た。


「ずっと迎えに行くよ」


彼女は目を逸らした。


自分へ言われたわけではない。分かっているのに、胸のあたりが少し騒がしくなった。


「あなたって、意外としつこいね」


「よく言われる」


「誰に?」


「……今、初めて言われた」


「何それ」


「一度は言ってみたかったんだ」


彼女はまた笑った。


そのころには、雨はだいぶ細くなっていた。


◇


季節が過ぎても、二人は丘へ通い続けた。


彼女はときおり、人間の町から何かを持ち帰るようになった。


折れた花や、文字の消えた紙切れ。片方だけになった靴紐もあった。


彼は気づいていたが、尋ねなかった。


彼女も説明しなかった。


それらは次の日になると消えていることもあれば、何日も彼女の手元に残っていることもあった。


ある日、彼女は折れた花を膝に載せたまま、ずっと指で茎を転がしていた。


「人間は、好きな相手に花を渡すんだって」


「亡くなった人にも渡すよ」


彼が言うと、彼女は花を転がす手を止めた。


「好きな相手と亡くなった相手には、同じことをするんだ」


「言われてみれば、そうだね」


「見分けがつかないね」


「渡された人が生きているかどうかで分かるんじゃないかな」


彼女は嫌そうな顔をした。


「その見分け方は、あまり好きじゃない」


花は最後まで彼女の膝に載っていた。


帰るときになって、彼女は立ち上がるふりをして、花を二人の間へ置いた。


「忘れてるよ」


彼が言う。


「いらないなら捨てて」


「君が拾ったものだろう」


「拾っただけ。あげるとは言ってない」


「誰に?」


「知らない」


彼女はそのまま西の道へ歩いていった。


彼は花を見下ろした。


茎が折れ、花びらも何枚か傷んでいた。


それでも持ち帰った。


翌日、彼女は花のことを尋ねなかった。


彼も何も言わなかった。


ただ、彼の胸元から小さな花びらが覗いているのを見つけると、彼女はその日、しばらく機嫌がよかった。


冬の気配が町へ降り始めたころ、彼女は小さな赤い手袋を持ってきた。


片方だけだった。


泥に汚れ、指先のところがほつれている。それでも赤い色だけは、妙に鮮やかだった。


彼女はベンチへ座ってからも、手袋を膝の上で何度も裏返した。


親指の辺りにこびりついた泥を爪で擦る。乾いた汚れは白っぽくなるだけで、落ちなかった。


「やめたほうがいいよ」


彼が言った。


「何が?」


「破れる」


「分かってる」


そう答えたくせに、彼女はもう一度だけ泥を擦った。


「聞かないの?」


「何を?」


「これ」


彼女は赤い手袋を持ち上げた。


「聞いてほしいの?」


「そういう言い方、ずるい」


「なら聞くよ。それは?」


「今日、終わりに触れた子のもの」


彼女の指が、手袋を折り曲げる。


「妹と歩いていたの。妹がこれを落として、お姉ちゃんが拾いに戻った」


「それで」


「それで終わり」


彼は何も言わなかった。


彼女の言う「終わり」が、何を意味するのか知っていた。


「妹は?」


「助かった」


「そう」


「泣いてた」


彼女は手袋の中へ指を入れた。大人の指は途中までしか入らない。


「お姉ちゃんを返してって、ずっと叫んでた。私のことは見えていなかったけど、あの子に責められている気がした」


手袋から指を抜き、自分の右手へ目を落とす。


黒い手袋の下にある指は、数えきれないほどの終わりへ触れてきた。


「手袋って、変だね」


「何が?」


「手を守るために着けるのに、着けたら相手の温度が分かりにくくなる」


「君のは違うの?」


彼が黒い手袋を見た。


「これは、私が直接触れないためのもの」


「誰に?」


「いろいろ」


「僕にも?」


彼女の指が止まった。


「触りたいものがあるような聞き方だね」


「そう聞こえた?」


「聞こえた」


「なら、そうなのかもしれない」


彼女は赤い手袋を畳み直した。内側へ折っていた親指の部分を、今度は外へ出しておく。


「変な人」


その声は少しだけ小さかった。


「私が決めたわけじゃない」


しばらくして、彼女が呟いた。


「決まっていたものに触れただけ。いつもと同じことをしただけなのに」


「うん」


「でも、あの子には関係ないよね。誰が決めたかなんて、残された人にはどうでもいい。最後に触れたのが私なら、私が奪ったのと同じだよ」


「違う」


思っていたより強い声が出た。


彼女の指が止まる。


「君が触れなければ、もっと長く苦しんだかもしれない」


「そんなの分からないでしょう」


「分からない。けれど、君が奪ったことにはならない」


「どうして言い切れるの?」


彼は答えようとした。


何か言わなければと思った。


けれど言葉を探すほど、どれも薄っぺらく思えた。


彼女の指が終わりへ触れ、そのあと彼が連れていく。


彼女が奪っていないのなら、自分は救っているのか。


違う。


彼はただ、終わった者を連れていくだけだ。


「……ごめん」


彼が言うと、彼女は眉を寄せた。


「何に謝ってるの?」


「言い切れないことを言い切った」


「そこは、もう少し頑張ってよ」


「頑張っても、分からないものは分からないから」


「頼りないね」


「前にも言われたよ」


「覚えてたんだ」


「君が言ったことは、わりと覚えてる」


彼女は目を伏せた。


赤い手袋を両手で包み、その指先を内側へ折り込む。


「これ、持ってきちゃった」


「うん」


「人間のものを持ち帰ってはいけない」


「そうだね」


「捨てたほうがいいかな」


彼は答える前に、彼女の顔を見た。


眉間にわずかなしわが寄っている。手放したくないものを持っているとき、彼女は決まってそういう顔をする。


「君は、捨てたいの?」


「そういう話じゃないよ」


「なら、持っていればいい」


「規則に反する」


「僕は規則じゃない」


「知ってる。規則より少し頼りない」


「少しで済むんだね」


彼女の口元へ、ようやく笑みが戻った。


「どうして、そんなことを言うの?」


「君が、それを持っていたそうだから」


彼女は手袋を見つめ、やがて胸元へ大切そうにしまった。


「もし私が、触れなかったら?」


「何に?」


「終わるはずのものに」


彼は町へ視線を移した。


どこかの家の煙突から細い煙が上がり、風に流されて形を失った。


「触れなかった終わりは、消えない」


「どうなるの?」


「行き先を変えるか、触れるはずだった者へ戻ってくる」


「見たことがあるの?」


「ないよ」


「じゃあ、どうして分かるの」


「そう定められているから」


「また役目の話?」


彼は答えなかった。


彼女は胸元へ手を置いた。赤い手袋が、そこにあることを確かめているらしい。


「私たちから役目を取ったら、何が残るんだろう」


今度も、彼には答えられなかった。


◇


冬の夕暮れは短かった。


二人がベンチへ座ってから、そう時間が経たないうちに、町は夜へ沈んでしまう。


ある日、坂の下から同じ名前を何度も呼ぶ声が聞こえた。遊びから帰らない子どもを、母親が探しているらしい。


彼女はその声を、しばらく聞いていた。


「名前って、不思議だね」


「そうだね」


「まだ何も言ってないよ」


「言いそうだったから」


「何を?」


「呼ばれただけで、自分のことだと分かる、とか」


彼女は不満そうに彼を見る。


「先に言わないでよ」


「当たってた?」


「当たってたけど」


「ごめん」


「全然悪いと思ってないでしょう」


彼は笑っていた。


彼女は少し頬を膨らませ、町へ顔を戻す。


「あなたには、名前があった?」


「どうだろう」


「あったかどうかも分からないの?」


「昔は、誰かに呼ばれていた気がするよ」


「どんなふうに?」


彼はしばらく考えたあと、坂の下へ顔を向けた。


「今日も、どこかで魚を焼いているみたいだね」


「話を逸らした」


「思い出せないんだ」


「最初からそう言えばいいのに」


「言葉にすると、本当に思い出せない気がして」


彼女は返事をせず、鼻から息を吐いた。


「呼ぶ人がいなくなったら、名前も消えるの?」


「少しずつね」


「顔や声も?」


「たぶん」


「一緒にいた時間も?」


質問が続くたび、彼の答えは遅くなった。


「忘れたくないと思っているうちは、残るんじゃないかな」


「それでも忘れたら?」


彼は膝の上で、親指同士を擦った。


「忘れたくなかったという気持ちだけは、残るかもしれない」


彼女は納得できなかった。


けれど、何が気に入らないのか自分でも分からず、ベンチの端に引っかかっていた枯れ草を抜いた。


「人間は、生まれた子に最初に何を渡すと思う?」


今度は彼女が尋ねる。


「服かな」


「外れ」


「食べ物?」


「名前だって」


「誰から聞いたの」


「今日会った人。その人、自分の名前があまり好きじゃなかったんだって」


彼女は抜いた枯れ草を、指先で折った。


「でも、母親が一晩中考えてつけたと知ってから、捨てられなくなったって言ってた」


「名前は物ではないよ」


「それくらい知ってる」


「なら、どうして捨てると言ったんだろう」


「人間は、形のないものほど、持っているとか捨てるとか言いたがるから」


彼は少し考えた。


「約束も?」


「たぶん」


「思い出も?」


「それも」


「誰かへの気持ちも?」


彼女は答えなかった。


知らないうちに胸元へ手を置き、赤い手袋の形を服の上から確かめている。


「あなたは、人間から何て呼ばれるの?」


彼女が話題を変えた。


「迎えとか、導き手とか。朝の使いと呼ばれたこともあったよ」


「綺麗なものばかりだね」


「君は?」


「災い。終わり。夜の影」


「それは、君の名前じゃない」


「あなたのだって名前じゃないでしょう」


「そうだね」


「私に名前をつけようとした人はいなかった」


「なら、僕が」


彼はそこで止まった。


彼女の指から、折れた枯れ草が落ちる。


「僕が?」


「いや」


「何?」


「何でもない」


「言いかけたのに」


「言ってはいけない気がしたんだ」


「どうして?」


彼は、二人の間にある空席へ目を落とした。


名前をつければ、呼びたくなる。


目の前にいるときだけではない。来ない日にも、見つからないときにも。


「名前をつけたら、探してしまうから」


「探せばいいじゃない」


「見つからなかったら?」


彼女は口を開いた。


何も言えず、閉じる。


遠くから、子どもの弾んだ返事が聞こえた。


母親の声も、今度は怒っているようで、それでも少し泣いているようだった。


探していた者は見つかったらしい。


「私たちには、名前なんていらないね」


彼女が言った。


「うん」


「知らないままでいい」


「そうだね」


二人は互いを見た。


どちらも笑わなかった。


その言葉が嘘だと分かっていたからだ。


◇


翌日、彼女は丘へ来なかった。


彼は一人でベンチの右端へ座っていた。


鐘が鳴り、町に灯りが増えていく。それでも坂道に彼女の姿は現れない。


待っているわけではない。


そう思おうとしたが、暗くなっても立ち上がれなかった。


「また明日」


誰もいない左側へ言ってみる。


返事はなかった。


次の日、彼はいつもより早く丘へ来た。


ベンチに積もった枯れ葉を払い、一度は右端へ座ったものの、少しして立ち上がった。坂道がよく見える位置を探して辺りを歩き、結局また同じ場所へ戻る。


一人で使うには、小さなベンチだった。


それなのに、彼女までの距離だけがひどく遠かった。


三日目。


彼はベンチの左端へ手を置いた。


冷たかった。


彼女が座っていたときも、温かかったことなどない。


それでも今そこにある冷たさは、以前のものとは違った。


「今日は……」


何人だった、と続ける声はない。


彼女がいないだけで、丘はただの丘になっていた。


名もない草が生え、古いベンチが置かれ、遠くに町が見える。


それだけの場所だった。


夜が丘を包み始めたころ、一枚の黒い羽根が飛んできた。


風に運ばれているというより、力尽きる前にどうにかここへたどり着こうとしているような飛び方だった。


羽根は彼の前で一度浮かび、空いている左側へ落ちる。


彼は立ち上がった。


その羽根を知っている。


見間違えるはずがない。


けれど、拾おうと伸ばした手は途中で止まった。


彼女はいない。


なぜ羽根だけがここにある。


考えなければ、まだ何も起きていないことにできる気がした。


それでも黒い羽根は、彼が触れるのを待つように、ベンチの上で動かなかった。


指先が触れた。


記憶が流れ込んできた。


最初に見えたのは、赤だった。


小さな手袋が、濡れた道路へ落ちている。


誰かが泣いていた。


幼い声で、何度も同じ人を呼んでいる。


お姉ちゃん、と。


あの日、姉を失った少女だった。


その少女が、今度は道路の真ん中に立っている。


前から白い光が迫っていた。


止まらない。


逃げるには遅い。


彼女は少女へ手を伸ばした。


終わりへ触れるための手だった。


けれど、指は少女へ届く直前で止まった。


彼女は自分の手を見た。


本当に短い時間だった。


迷ったというには、あまりにも短い。


それでも彼には分かった。


彼女は選んだ。


「やめろ」


彼の声は、すでに終わった記憶へ吸い込まれた。


彼女が少女を突き飛ばす。


白い光が迫る。


「そこから離れろ」


届かない。


分かっているのに、彼は手を伸ばした。


一瞬、彼女がこちらを見たような気がした。


見えるはずがない。


これは記憶だ。


それでも彼女は、少しだけ笑っていた。


自分は何も間違えていないと、誰にでもなく言い張るように。


次の瞬間、黒い羽根が弾けた。


白い光が、彼女の胸を貫く。


彼は何もつかめなかった。


記憶の中で、彼女の指も宙へ伸びていた。


誰かを求めたのか。


それとも、ただ痛かったのか。


彼には分からない。


呼びかける名前を、彼は持っていなかった。


記憶が途切れた。


黒い羽根は、手の中で崩れていく。


「……どうして」


返事はなかった。


名前なんていらないと、二人で決めた。


呼べば探してしまう。見つからなければ、失ったことを認めなくてはならない。


そんなふうに考えていた。


けれど名前がなくても失うのだ。


呼べなくても、こうして探してしまう。


彼は走り出した。


東の道でも、西の道でもなかった。丘の裏側に広がる、道とも呼べない暗闇へ踏み込んだ。


どこへ行けばよいのかは分からない。


それでも走った。


白いものが見えるたびに足を止め、黒い影が揺れるたびに振り返った。


口を開いても、呼ぶべき音がない。


あのとき名前をつけていればよかった。


彼女が嫌がっても、勝手につければよかった。


くだらない名前だと笑われてもよかった。


一度でも呼べていたなら、今、暗闇へ向かって叫べたのに。


どれほど探したのか分からない。


気づけば、彼は丘へ戻っていた。


彼女がいるはずはない。


分かっている。


それでも、ほかに待てる場所を知らなかった。


彼女は毎日ここへ来た。


だから今日も、もしかしたら。


きっと。


そう思った瞬間、彼は初めて、その言葉を嫌いになった。


◇


夕暮れになっても風は吹かなかった。


彼はベンチの右端へ座り、坂道を見つめていた。


町で鳴った鐘は、丘へ届くころには鈍い震えに変わり、やがて消えた。


そのあとで、人影が現れた。


黒い髪。


見慣れた服。


ゆっくりと坂を上ってくる、彼女の姿。


彼は立ち上がりかけたが、膝に力が入らず、ベンチへ手をついた。


「遅かったね」


もっと別のことを言うつもりだった。


どこにいたのか。


なぜ、あんなことをしたのか。


痛くなかったのか。


怖くなかったのか。


けれど口から出たのは、いつもの言葉だった。


彼女は少し驚き、それから笑った。


「三日くらいでしょう。私たちには瞬きみたいなものじゃない」


「君には、三日だったの?」


「違うの?」


彼は答えなかった。


彼女はいつもの左端へ座る。


ベンチは軋まなかった。


彼はなぜか、雨の日を思い出した。


あの日は、濡れた服の重みだけでも古い板が鳴った。彼女が少し右へ寄ったときにも、確かに軋む音がした。


今日は何も聞こえない。


「怒ってる?」


彼女が尋ねた。


「怒ってないよ」


「なら、どうしてそんな顔をしてるの?」


彼は自分の頬へ触れた。


どんな顔をしているのか、自分では分からなかった。


彼女が二人の間を見る。


「今日は、少し近くに座ってもいい?」


彼の指が動いた。


すぐに答えなければならなかった。


それなのに、声が出ない。


彼女は少し待ったあと、視線を膝へ落とした。


「……冗談」


「違う」


「何が?」


「嫌だったわけじゃない」


「だったら、どうして何も言わないの」


彼は空席を見た。


二人の間には、いつも誰かがいた。


泣いていた者。怒っていた者。帰れないことを最後まで信じようとしなかった者。


「ここには、いつも誰かがいたんだ」


「誰かって?」


「君が最後に触れた人」


彼女は空席を見つめた。


「ここに?」


「君が終わりを告げてから、僕が連れていくまで」


「私には見えなかった」


「知っていると思ってた」


「どうして言わなかったの?」


「君が、その人たちのために空けていると思ってた」


彼女はしばらく何も言わなかった。


やがて肩から力が抜け、小さな笑いが漏れる。


「私、あなたに嫌われてるんだと思ってた」


彼は彼女を見る。


「どうして?」


「いつも離れて座るから」


「君も離れていたよ」


「あなたが嫌がると思ったの」


「僕は、君が彼らのために空けているんだと」


「言えばよかったのに」


「君も」


「私は言えないよ」


「僕だって言えなかった」


彼女は少し考えたあと、呆れたように息を吐いた。


「馬鹿みたい」


「うん」


「どちらが?」


「二人とも」


彼女は笑った。


その笑い方があまりにもいつもどおりで、彼は目を逸らした。


彼女は空席へ手を置く。


「今日は、誰もいないよ」


「うん」


「最後の一人には触れなかったから」


彼は目を閉じた。


「知ってる」


「なら、どうしてここへ来たの?」


白い羽根が一枚、彼の肩から落ちた。


風は吹いていない。


羽根は二人の間へ落ちた。


彼女が手を伸ばす。


指は羽根を通り抜けた。


不思議そうに、もう一度触れようとする。それでも羽根は動かない。


「どうして」


声が小さくなった。


彼女は自分の手を見た。


黒い手袋の向こうが、かすかに透けている。


「ねえ」


その声は、彼が今まで聞いたどの声よりも幼かった。


「これ、何?」


黒い羽根が、彼女の肩から落ちた。


さらに一枚が、髪の間からこぼれる。


彼女は振り返った。


最初のうちは、いつものことだと思ったのかもしれない。


けれど羽根は止まらなかった。


肩から、髪から、膝の上へ置かれた指先から、次々とこぼれていく。


「止まらない」


彼は答えられなかった。


彼女は胸へ手を当てる。


そこには傷も、血もない。


ただ、何も動いていなかった。


「……私?」


違うと言えばよかった。


大丈夫だと、あの少女へ言ったときのように、根拠のない言葉を渡せばよかった。


彼女は、きっと嘘だと分かっても信じたふりをしてくれる。


けれど、生きているあいだに一度も名前を呼べなかった相手へ、最後に渡す言葉まで嘘にしたくなかった。


「君だよ」


彼女は胸へ手を置いたまま動かなかった。


黒い羽根だけが、膝や足元へ降り積もっていく。


「そう」


やがて、彼女は言った。


それだけだった。


「どうして教えてくれなかったの?」


「教えたら、君はここへ来なかった」


「来たよ」


「来ないでほしかった」


「どうして?」


彼は喉を押さえた。


息などしないのに、うまく声が出なかった。


「君を送りたくなかった」


彼女は彼を見た。


しばらくして、困ったように眉を下げる。


「あなたにも、できないことがあるんだね」


雨の日と同じ言葉だった。


「たくさんあるよ」


「何でもできそうな顔をしているのに」


「君は僕を買いかぶりすぎている」


「買った覚えはないけど」


「それなら返品もできないね」


彼女が笑った。


彼も笑おうとしたが、どこかで呼吸を間違えたような音しか出なかった。


彼女は空席を指す。


「ここに座ればいいの?」


彼は頷いた。


彼女は立ち上がり、二人の間へ座り直した。


初めて肩が触れた。


重さも温もりもない。


それでも、彼女の肩だった。


彼がわずかに身体を寄せると、彼女も少しだけ肩を返してきた。


「ずいぶん遠かったね」


彼女が言った。


「こんなに近かったのに」


「ごめん」


「何に?」


「分からない。たぶん、いろいろ」


「それなら許さない」


「どうして」


「全部まとめて謝るのは、少しずるいから」


彼は何も言えなかった。


彼女はしばらく彼の横顔を見たあと、目を細める。


「明日も会える?」


いつもの問いだった。


いつもなら「きっと」と答える。


それさえ言えば、二人とも安心したふりができた。


けれど、もう明日へ逃げることはできない。


「明日は、会えない」


彼女は目を伏せた。


「……そう」


「だから」


彼は彼女の手を取った。


指の感触はない。


その場所に彼女の手があると信じるように、何もない空間を握った。


「明日まで、一緒にいる」


彼女が顔を上げた。


何かを言おうとして、やめた。


代わりに一粒の涙が頬を伝い、彼の手の甲へ落ちる。


手には触れられないのに、涙だけは温かかった。


◇


二人は肩を寄せたまま、夜を眺めていた。


いつもなら、何も話さなくても平気だった。


けれど今は、黙ることが怖い。言葉を止めたぶんだけ、朝が早く来てしまうような気がした。


「何か話して」


彼女が言った。


「何を?」


「何でもいい」


「急に言われると難しいな」


「毎日、どうでもいいことを話してたでしょう」


「どうでもいいと言われると、少し傷つくよ」


「じゃあ、大切な話」


「もっと難しくなった」


彼女は笑い、胸元から赤い手袋を取り出した。


「まだ持っていたんだ」


「捨てられなかった」


親指の辺りには、あの日と同じ泥が残っていた。


彼女は爪で擦ろうとしたが、途中でやめる。


「破れるんだったね」


「覚えていたんだ」


「あなたが言ったことは、わりと覚えてる」


以前の言葉を返され、彼は笑った。


今度はちゃんと、笑うことができた。


「後悔してる?」


彼が尋ねる。


彼女はすぐには答えず、手袋の中へ指を一本だけ入れた。


「してるよ」


「救ったことを?」


「違う」


彼女は首を横へ振る。


「もっと早く、間違えればよかった」


「間違い?」


「決められたことに背いたから」


「それを間違いと呼ぶの?」


「ほかに何て呼べばいいか分からない」


彼女は手袋を膝の上へ置いた。


「でも、うまく言えないけど、あのとき初めて私が決めたの」


「何を?」


「あの子を助けるってこと。正しいからじゃない。そうしろと言われたからでもない。私が、そうしたいと思った」


口にしてから、彼女は少し驚いたように自分の手を見た。


「私にも、したいことがあったんだね」


彼は何かを言おうとした。


けれど、どんな言葉も彼女が今見つけたものを小さくしてしまう気がして、黙って肩を寄せた。


彼女も、それ以上は話さなかった。


空の端が淡く色づき始める。


彼女はその色を眺めながら、赤い手袋の指先を撫でた。


「人間は、生まれたときに名前をもらうんだったね」


「そうらしいね」


「どんな人になるかも分からないのに」


「だから、願いを込めるんじゃないかな」


「勝手だね」


「そうだね」


「でも、少し羨ましい」


彼は彼女を見た。


「勝手に願われることが?」


「生まれたときから、誰かにそうなってほしいと思われていることが」


その横顔には、悲しみとも憧れとも違う、彼には名前をつけられないものが浮かんでいた。


「名前を決めよう」


彼女が言った。


「今から?」


「今だから」


「呼べる時間は、ほとんどないよ」


「短い時間しかないと、名前を持っちゃいけないの?」


「そういうわけではないけど」


「それに、時間があったときの私たちは、結局何も決められなかったでしょう」


「そうだね」


「あなたが先につけて」


「僕が?」


「前に言いかけたでしょう。覚えてるよ」


彼は彼女を見る。


夜よりも深い髪。


夕暮れを映す瞳。


終わりへ触れながら、その痛みに慣れることができなかった人。


何も持っていないと言いながら、赤い手袋を捨てられなかった人。


彼は彼女へ、名前を贈った。


その音を、丘に残っていた風がさらっていく。


彼女の瞳がわずかに揺れた。


「もう一回」


彼は名前を呼んだ。


「もう一回」


「気に入った?」


「まだ分からない」


「分からないの?」


「もう少し聞いたら分かるかもしれない」


彼はまた呼んだ。


彼女は目を閉じ、その音を確かめるように何度か唇を動かした。


「うん」


「どう?」


「たぶん、好き」


「たぶん?」


「少し恥ずかしいから、今はそれでいいでしょう」


彼女は笑い、今度は彼へ名前を贈った。


長い夜の終わりに差し込む、最初の光のような名前だった。


彼はその音を聞いたあと、すぐには何も言えなかった。


「変?」


「いや」


「本当に?」


「もう一度、呼んで」


彼女は彼の名を呼んだ。


胸の奥に、痛みにも喜びにも似たものが宿る。


「気に入った?」


「君が呼んでくれるなら」


「それ、気に入ってない人の言い方」


「気に入ってるよ」


「なら、そう言えばいいのに」


二人は互いの名前を呼び続けた。


声にするたび、それが最後になるような気がした。だから、どちらからもやめようとは言えなかった。


やがて彼女の輪郭が、朝の光の中で薄れ始める。


髪の向こうに空が透けて見えた。


「私を送って」


彼女が言った。


「嫌だ」


「そう言うと思った」


「なら、言わないでほしかった」


「あなたに送ってほしいの」


「ほかの誰かでは駄目なの?」


「誰がいるの?」


彼は答えられなかった。


彼女は、少しだけ申し訳なさそうに笑う。


「待っていてくれたでしょう」


「それだけだ」


「三日も」


「短いよ」


「あなたにとっては?」


彼は何もない手を握り直した。


「長かった」


彼女は目を伏せた。


「忘れないって言って」


彼は息を呑んだ。


彼女はすぐに首を横へ振る。


「やっぱり、いい。今のはなし」


「どうして」


「嘘をつかせたくないから」


何も言えなかった。


代わりに、彼女の名前を呼んだ。


それが約束の代わりになるとは思わない。


それでも、ほかに渡せるものがなかった。


「怖い?」


「少し」


「大丈夫」


彼女は笑った。


「分からないのに言うの?」


「ほかに、言葉がないから」


「なら、信じる」


彼は目を閉じた。


これまで数えきれないほど繰り返してきた。


迷う者へ道を示し、残してきたものから手を離させ、向こう側へ送り届ける。


いつもどおりにすればいい。


けれど彼女だけは送れなかった。


送ってしまえば、いつか声を思い出せなくなる。顔も、二人で眺めた夕暮れも、今与えられたばかりの名前さえ、少しずつ失っていく。


人間は、あまりにつらいことを忘れることがあるという。


彼は何度か、そういう死者を見たことがあった。


自分の名前は言えても、なぜ泣いているのか分からない者。大切な人の顔だけが、白く抜け落ちている者。


忘れることは、心が自分を守るためにするのだと、誰かが言っていた。


ずいぶん身勝手な守り方だと思う。


守られた本人が、何を失ったのかさえ分からなくなるのだから。


「忘れても、ここへ来て」


彼女が言った。


「君がいないのに?」


「私がいなくても」


「何のために?」


彼女は少し考えた。


「風が吹くから」


「それだけ?」


「今は、それしか思いつかなかった」


彼は笑った。


「それなら仕方ないね」


「うん。仕方ないから来て」


朝の光が丘へ差し込む。


黒い羽根が一枚、光の中で透き通った。


「そろそろだね」


彼女が言った。


いつも彼が別れを告げるときの言葉だった。


「また明日」


彼女の輪郭が光へ溶けていく。


「明日は会えないよ」


「分かってる」


「なら、どうして?」


「言いたかったから」


彼女は泣きそうな顔で笑った。


最後まで、二人は互いの名前を呼んだ。


どちらかの声が聞こえなくなっても、もう一度呼んだ。


肩から感触が消える。


手の中には、何も残っていない。


彼はそれでも、しばらく手を開くことができなかった。


風が吹いた。


ほんの一瞬だけ、彼女が笑ったように見えた。


次に瞬きをしたとき、そこには朝の光しか残っていなかった。


◇


夜が明けるころ、丘を覆っていた羽根はすべて消えていた。


彼はベンチの右端に座っている。


隣には、もう一人座れるほどの空席があった。


誰かを待っていたような気がする。


けれど名前を思い出そうとしても、何ひとつ浮かばなかった。顔も、声も、その人と何を話したのかも分からない。


なぜ自分が泣いているのかさえ、彼には説明できなかった。


ただ、左肩に誰かが触れていた感覚だけが残っている。


「……今日は寒いね」


無意識に口にした。


返事はなかった。


立ち上がろうとしたとき、ベンチの下に小さな赤い手袋が落ちているのを見つけた。


拾い上げる。


見覚えはない。


親指のところに泥がこびりつき、何度か擦ったような跡が残っていた。


彼は汚れへ指をかけ、すぐにやめた。


なぜか、これ以上触れば破れてしまうと思った。


手袋の中には、白と黒の羽根が一枚ずつ入っている。


その下に、二つの名前が刻まれていた。


読むことはできた。


けれど声に出そうとすると、どうしても音にならない。


名前の下には、短い言葉が添えられていた。


明日ではなく、今日ここにいた。


意味は分からなかった。


それでも涙が落ちた。


赤い手袋へ落ちた雫を見ているうちに、誰かの涙も温かかったことを思い出した。


誰の涙だったのかは、もう分からない。


彼は手袋を胸元へしまい、坂道を下り始めた。


数歩進んだところで、足が止まる。


振り返った先には、誰もいないベンチがあった。


それでも、そこに誰かが座っているような気がした。


名前より先に知っていた言葉が、唇からこぼれる。


「また明日」


返事はない。


彼は少しだけ待った。


やがて諦めたように笑い、丘へ背を向ける。


そのとき、誰も座っていないはずのベンチが、かすかに軋んだ。


振り返ろうとした彼の頬を、どこから来たのか分からない風が撫でる。


風の中で、誰かが笑った。


そして、もう一度だけ。


彼のものではない声が響いた。


「……きっと」


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


二人が同じ丘で過ごした「今日」が、読んでくださった方の心にも、そっと残りましたら嬉しいです。


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