5
彼女が、あの時と同じように問いかける。
もう逃げることは許されない。
そう、暗に突きつけられている気がした。
顔を上げる。
足が、震える。
それでも――
僕は声を張り上げた。
「僕は、彼女に謝らなければいけない」
言葉を放った瞬間、世界が一拍、遅れた。
風が止む。
色が、薄く剥がれ落ちていく。
足元から、微かなノイズが這い上がった。
砂嵐みたいなざらつきが、視界を侵してくる。
耳鳴り――違う。
音じゃない。
選択された、という感覚だ。
制服の袖が、ひくりと震えた。
布が裂けることはない。燃えることも、消えることもない。
ただ、ずれていく。
白かったシャツは、白のままなのに白じゃなくなる。
輪郭が合わず、線がわずかに歪み、縫い目が増えていく。
ネクタイは途中で途切れ、千切れた記号みたいに胸元で止まった。
ブレザーの校章が、音もなく崩れ落ちる。
代わりに残ったのは、意味を持たないひび割れた印――どこにも属さない証。
制服は、制服の形をしたまま、別の何かに貼り替えられていく。
――逃げない。
その意思に応えるように、最後のノイズが消えた。
静寂。
僕は、歪んだ制服を纏っていた。
何も守れなかった。
それでも、もう戻れない。
耳の奥で、ネフォの声がかすかに重なる。
「――ERROR、確定」
影が動く。
男だったもの――否、選ばれなかった未来が、ぎこちなく首を持ち上げる。
貼り付いた笑顔は消え、顔の半分が黒いノイズに侵食されていた。
地面を踏むたび、足元が歪む。
空気が、間違った方向に引っ張られる。
――来る。
考えるより先に、身体が動いた。
後ろに跳ぶ。靴底が地面を掠め、乾いた音が弾けた。
次の瞬間、さっきまで立っていた場所が削り取られる。
見えない何かが通り過ぎた痕。
触れたら、きっと終わっていた。
息が荒くなる。
「……っ」
顔と頭に、熱が集まる。
踏み込む。
距離を詰める。
近づいた瞬間、男だったものが腕を振るう。
重い。速い。避けきれない。
――当たる。
反射的に、胸元を押さえた。
次の瞬間、時間が引っかかった。
世界が、ほんの一瞬だけ“止まる”。
完全じゃない。
けれど確かに、相手の動きが遅れた。
息が詰まる。
頭が割れるように痛む。
“HOLD”いつかの言葉が頭に浮かぶ。
身体を捻り、すり抜ける。
肩がかすめる。冷たい感触。
制服が軋み、ノイズが走った。
背後に回った瞬間、時間が元に戻る。
ガガッ
男だったものが、勢い余って前につんのめる。
チャンスは、今しかない。
力任せに、蹴り飛ばした。
悲鳴のようなノイズ。
ERRORが、空気を裂く。
次の瞬間、影は崩れ、霧みたいに消えた。
そこには、もう何も残っていなかった。
膝が落ちる。
地面が近い。
息を整えようとして、うまくいかない。
――勝った?
顔を上げると、ネフォが少し離れた場所に立っていた。
相変わらず、表情は静かだ。
これから、どうなるのだろう。
瞼が重い。
視界が霞み、身体がもつれて立ち上がることはできなかった。
こうして、僕は意識を落とした。




