3
少女に連れ出されるまま、扉を抜けた。
その先に立っていたのは、不自然なまでに笑顔を貼りつけた男だった。
狭い路地の中央で、微動だにせず、ただこちらを見ている。
――僕が選ばなかった未来。
彼女は、そう言った。
次第に視界がぼやけていく。
いや、違う。
ぼやけているのは、男の姿のほうだった。
人の形は、かろうじて保っている。
だが手足は黒く染まり、輪郭は歪み、顔にはノイズが走ったように判別できない。
それでも、笑っている。
なぜか、それだけははっきりと分かってしまう。
瞬く間に異形へと変わり果てていくその様から、目を逸らすことができなかった。
こんな狭い路地では、逃げ場などない。
訳も分からないまま立ち尽くしていると、
少女が僕の袖を掴んだ。
「捕まったら、排除される」
彼女がそう言った瞬間。
男は、途切れ途切れのノイズが混じったような笑い声を上げ、こちらへ手を伸ばしてきた。
関節の動きは人間のそれをなぞっているのに、どこか噛み合っていない。
空気を引き裂くような音とともに、距離が一気に詰まる。
――来る。
人は本当に恐怖を感じると、動けなくなる。
頭では分かっていたはずなのに、
まさか自分が、それを身をもって知ることになるとは思わなかった。
足に力が入らない。
息の仕方すら、分からなくなる。
反射的に目を閉じ、腕を前に突き出した。
……。
痛みは、来なかった。
代わりに、空気が沈んだ。
耳鳴りのような低い音が響き、
まるで世界そのものが、一瞬息を止めたかのようだった。
恐る恐る、目を開く。
男は、僕の目の前で止まっていた。
いや、止められていた。
伸ばされた腕の先。
そこに、少女が立っている。
小さな手で何かを“掴んでいる”わけでもない。
ただ、そこにいるだけなのに、
男の身体は、それ以上一歩も前に進めずにいた。
ノイズ混じりの笑い声が、ひび割れる。
「……だから言った」
少女は、ため息混じりに呟く。
「彼らは、“選ばれなかった”ってだけで、
自分が捨てられたと思い込んでる」
一拍置いて、彼女は続けた。
「ねぇ、君の後悔って、何?」
――後悔?
“ない”
そう答えるつもりだった。
なのに、不意に口をついて出たのは、
自分でも予想していなかった言葉だった。
「……幼馴染を、裏切ったこと」
言い終えた瞬間、
胸の奥が、ひどく冷えた。
どうして、今さら。
どうして、ここで。
戸惑う僕に、彼女は畳みかけるように言う。
「じゃあ、ここには何を望んできたの?」
――僕の、望みは。
考えようとするほど、頭の奥が軋む。
立っているのも、やっとだった。
浮かぶのは、夢の光景。
彼女を助けるか、自分を守るか。
選べるわけがない。
それでも、選ばなければならなかった。
その瞬間、ふっと視界が澄んでいく。
ああ、思い出した。
いや――思い出してしまった。
僕が望んだのは、
**「選択のない世界」**だ。
少女は、それを聞いて微かに笑った。
「もう限界みたい。
あとは、任せた」
その力ない一言とともに、
僕らを守っていた“何か”が、消えた。
男が、再び襲いかかってくる。
不思議と、怖くはなかった。
けれど、これは世界の強制力じゃない。
「HOLD」
そう呟いた瞬間、世界が止まる。
限られた時間でできることは、ただ一つ。
――ここから、逃げる。
少女を抱き上げ、走り出した。
敵のすぐ脇をすり抜けた、その瞬間。
世界が、再び動き出す。
僕らに向けられていた脅威は、
大振りの末、地面へと突き刺さった。
無我夢中で走る。
走る。
走る。
やがて、追ってくる気配が途切れた。
近くの公園のベンチに少女を寝かせ、
僕はその場にしゃがみ込む。
数十分後、彼女は目を覚ました。
「……ありがとう」
彼女は、それだけを口にする。
聞きたいことは山ほどあった。
そもそも、なぜ僕は
こんなにも怪しい少女を、迷いなく助けたのか。
疲労のせいで思考がまとまらない。
口を開こうとしては、また閉じる。それを繰り返す。
すると彼女は、こちらを見つめたまま静かに告げた。
「私は、ネフォ」
一拍置いて、続ける。
「お願い。
この世界を壊すのを、手伝って」




