拡散のはじまり ―「たった一行の冗談」
深夜、零時をわずかに回ったころ。
白雲ゲレンデの従業員宿舎は、まるで雪の腹の中に埋もれたように、ひっそりと沈黙していた。
窓の外では、吹雪がまだ止む気配を見せない。闇と雪とが境を失い、世界の輪郭がすっかり曖昧になっている。
二階の一室。
灯りはストーブの赤い炎だけ。
その小さなゆらめきが、狭い部屋の壁に不安定な影を描く。
ときおり、屋根の上を風がなぞっていく。
「ゴウ……」と、低く長い音。
そのたびに、窓ガラスが微かに震え、積もった雪がふるい落とされる。
まるで、眠る建物が小さく寝返りを打っているかのようだった。
室内には、ストーブの赤い光しかなかった。
毛布にくるまったミホが、その炎のそばでうずくまり、指先だけを毛布の外に出してスマホを弄っている。
青白い画面の光が、彼女の頬を冷たく照らした。
部屋には、一日の名残が散らばっている。
乾ききらないグローブ、開きっぱなしのシフト表、そしてストーブの上では、やかんが時おり「カタリ」と小さく身じろぎをする。
音のひとつひとつが、静けさの底を軽くつつくように響いた。
スマホの画面には、裏アカウント《@雲下の生活》のタイムライン。
そこには誰からの返信もなく、ただ彼女のつぶやきだけが、雪の粒のようにまばらに並んでいる。
「今日も問題なし」「静かな一日」「退屈が積もる音」。
言葉たちは、声を持たないままデジタルの雪原に埋もれていた。
ミホの瞼は、半分ほど眠りに落ちかけていた。
けれど、脳裏の奥ではまだ昼の残響がぼんやりと鳴っている。
支配人の能天気な声。
ケンジの皮肉めいた呟き。
「問題なし」という言葉が、まるで合言葉のように一日を閉じる。
(“何も起こらない一日”って、ほんとに良いことなんだろうか。)
そんな思考が、雪の粒みたいに浮かんでは溶けていく。
ミホは親指で入力欄を軽くなぞる。
「白雲、今日も真っ白。」と打ちかけては、ためらい、削除。
次に「平穏は麻酔みたい。」と書いてみるが、やはりしっくりこない。
指先が止まり、また滑り出す。
「この雪、崩れそう。あ、社会の話ね」
句読点の位置をひとつ直す。
それだけで、少しだけバランスが取れた気がして、彼女は満足げに小さく息を吐いた。
ストーブが“ボッ”と音を立てる。
赤い光の中、ミホの横顔には、どこか子どものようなあどけなさと、夜の静けさが同居していた。
ミホの親指が、ゆっくりと画面の右下を押し込んだ。
小さな電子音が“ピッ”と鳴り、画面に《ツイートを送信しました》の文字が浮かぶ。
ほんの数秒、彼女はその青い光を見つめていた。
けれど、タイムラインには何の波紋も起きない。
「0いいね」「0リツイート」。
世界は相変わらず静かで、何ひとつ変わらない。
ミホは肩をすくめ、息を混ぜたような笑いを漏らした。
「ああ、また誰にも刺さらないや。」
その声はストーブの炎に吸い込まれるように消えていく。
彼女はスマホを伏せ、毛布を引き寄せる。
赤い光が揺れ、画面の裏に残された“つぶやき”だけが、
闇の中で小さく点滅していた。
伏せられたスマホの黒い背面に、
ストーブの赤い光が揺らめいて映り込む。
炎の脈動が、まるで心臓の鼓動のように、
壁と天井に淡く跳ね返る。
外では、風が屋根をなぞりながら「ゴウ……」と低く唸った。
ストーブが“コトリ”と鳴り、
やかんの蓋がわずかに震える。
そのすべての音が止んだかと思うほどの静寂のなか、
伏せられたスマホの端から、
小さな光が“チカッ……チカッ……”と瞬いた。
それはただの通知ランプ。
けれど、その微光は、
まるで闇の底で眠っていた何かが――
“雪崩の始まり”が――
小さく息を吸い込んだかのように、
確かに世界の静けさを震わせていた。




