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『雪崩注意報発令中(人間に)』:白雲ゲレンデ騒動記  作者: 南蛇井


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7/31

拡散のはじまり ―「たった一行の冗談」

深夜、零時をわずかに回ったころ。


白雲ゲレンデの従業員宿舎は、まるで雪の腹の中に埋もれたように、ひっそりと沈黙していた。

窓の外では、吹雪がまだ止む気配を見せない。闇と雪とが境を失い、世界の輪郭がすっかり曖昧になっている。


二階の一室。

灯りはストーブの赤い炎だけ。

その小さなゆらめきが、狭い部屋の壁に不安定な影を描く。


ときおり、屋根の上を風がなぞっていく。

「ゴウ……」と、低く長い音。

そのたびに、窓ガラスが微かに震え、積もった雪がふるい落とされる。


まるで、眠る建物が小さく寝返りを打っているかのようだった。



室内には、ストーブの赤い光しかなかった。

毛布にくるまったミホが、その炎のそばでうずくまり、指先だけを毛布の外に出してスマホを弄っている。

青白い画面の光が、彼女の頬を冷たく照らした。


部屋には、一日の名残が散らばっている。

乾ききらないグローブ、開きっぱなしのシフト表、そしてストーブの上では、やかんが時おり「カタリ」と小さく身じろぎをする。

音のひとつひとつが、静けさの底を軽くつつくように響いた。


スマホの画面には、裏アカウント《@雲下の生活》のタイムライン。

そこには誰からの返信もなく、ただ彼女のつぶやきだけが、雪の粒のようにまばらに並んでいる。

「今日も問題なし」「静かな一日」「退屈が積もる音」。


言葉たちは、声を持たないままデジタルの雪原に埋もれていた。


ミホの瞼は、半分ほど眠りに落ちかけていた。

けれど、脳裏の奥ではまだ昼の残響がぼんやりと鳴っている。

支配人の能天気な声。

ケンジの皮肉めいた呟き。

「問題なし」という言葉が、まるで合言葉のように一日を閉じる。


(“何も起こらない一日”って、ほんとに良いことなんだろうか。)

そんな思考が、雪の粒みたいに浮かんでは溶けていく。


ミホは親指で入力欄を軽くなぞる。

「白雲、今日も真っ白。」と打ちかけては、ためらい、削除。

次に「平穏は麻酔みたい。」と書いてみるが、やはりしっくりこない。

指先が止まり、また滑り出す。


「この雪、崩れそう。あ、社会の話ね」


句読点の位置をひとつ直す。

それだけで、少しだけバランスが取れた気がして、彼女は満足げに小さく息を吐いた。


ストーブが“ボッ”と音を立てる。

赤い光の中、ミホの横顔には、どこか子どものようなあどけなさと、夜の静けさが同居していた。

ミホの親指が、ゆっくりと画面の右下を押し込んだ。

小さな電子音が“ピッ”と鳴り、画面に《ツイートを送信しました》の文字が浮かぶ。


ほんの数秒、彼女はその青い光を見つめていた。

けれど、タイムラインには何の波紋も起きない。

「0いいね」「0リツイート」。

世界は相変わらず静かで、何ひとつ変わらない。


ミホは肩をすくめ、息を混ぜたような笑いを漏らした。


「ああ、また誰にも刺さらないや。」


その声はストーブの炎に吸い込まれるように消えていく。

彼女はスマホを伏せ、毛布を引き寄せる。


赤い光が揺れ、画面の裏に残された“つぶやき”だけが、

闇の中で小さく点滅していた。


伏せられたスマホの黒い背面に、

ストーブの赤い光が揺らめいて映り込む。

炎の脈動が、まるで心臓の鼓動のように、

壁と天井に淡く跳ね返る。


外では、風が屋根をなぞりながら「ゴウ……」と低く唸った。

ストーブが“コトリ”と鳴り、

やかんの蓋がわずかに震える。


そのすべての音が止んだかと思うほどの静寂のなか、

伏せられたスマホの端から、

小さな光が“チカッ……チカッ……”と瞬いた。


それはただの通知ランプ。

けれど、その微光は、

まるで闇の底で眠っていた何かが――

“雪崩の始まり”が――

小さく息を吸い込んだかのように、

確かに世界の静けさを震わせていた。


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