夜 ―「小さなつぶやき」
時刻は夜の八時を少し回ったところだった。
窓の外はすでに闇に沈み、吹雪が止む気配を見せない。風が屋根のどこかを叩き、時折、窓ガラスが“ゴッ”と低く鳴る。そのたびに、室内の空気がわずかに震えた。
ストーブの炎が、赤い息を吐くように揺れている。灯りの届く範囲は狭く、壁の影が柔らかく脈打って見えた。
ドアのそばには、濡れた靴が二足並んでいる。乾ききらない雪の白が、ゴムの縁にまだ残っていた。
それは、昼間のゲレンデに残された二本の足跡の、続きのようにも見えた。
音といえば、ストーブの小さな燃焼音と、外で雪が崩れ落ちる遠い響きだけ。
夜は、すべてを包み込んで、ただ静かに積もっていく。
ミホは厚手のグレーのパーカーを着込み、毛布を肩まで引き寄せていた。
ストーブの前に座り込み、膝を抱える姿勢のまま、ほとんど動かない。炎の赤が頬を照らし、その陰がゆらゆらと壁に揺れる。
テーブルの上には、半分ほど飲まれたカフェオレの紙コップ。
その隣に、折り畳まれた明日のシフト表がある。
「安全確認」「除雪」「放送」——無機質な文字が整然と並んでいた。
そしてもうひとつ、スマホ。
黒い画面の上に、白い文字で表示されたアカウント名——《@雲下の生活》。
プロフィールの一行目には、変わらずこうある。
> “スキー場勤務。人間関係は低温注意報。”
ミホはそれを見つめたまま、何も入力せず、ただ親指を画面の上で静かに滑らせた。
(“問題なし”の一日。
何も起こらない、って……ほんとにいいこと?)
ミホはスマホの画面を指先でなぞりながら、無言で考える。
入力欄には、いくつもの言葉の痕跡が残っていた。
「退屈」
「無事故」
「白すぎる日常」
打っては消し、また打っては消した跡が、まるで踏み荒らされない雪原の足跡のように残っている。
> 「きれいすぎるって、ちょっと気持ち悪いよね。」
誰に向けたでもない言葉が、口の端からこぼれ落ちる。
笑いともため息ともつかない声。
その“ため息の形をしたユーモア”が、静かな部屋に薄く漂った。
ミホはしばらく画面を見つめたまま、
指先で何度も空をなぞるような動きをする。
やがて、静かに打ち込まれる言葉。
「この雪、崩れそう。
――いや、社会の話。」
小さく息を吸い、親指が“投稿”のアイコンの上で止まる。
一拍の間。
外では、吹雪がガラスを叩く音がした。
彼女はためらいのない動作で、押す。
画面の光が指先を照らし、
赤いストーブの炎がその光に重なって、
指の関節の影がゆらりと揺れる。
白と赤――冷たさと熱が交差する、その瞬間。
スマホの画面に「投稿されました」の文字が浮かび、
物語は、静かな音もなく幕を閉じた。
スマホの画面に、
小さな通知音とともに「アップロード完了」の文字が浮かぶ。
その瞬間――
外から“ズズッ……”という、
重く湿った雪の落ちる音が響いた。
ミホは顔を上げる。
視線の先、窓の向こうはただの闇。
街灯も届かず、白いものがゆっくりと降りているのだけが見える。
「……また、積もってる。」
誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。
窓ガラスの表面で、雪の反射が一度だけ瞬き、
その光がミホの頬をかすめる。
やがて、音は再び沈黙に溶け、
部屋の中にはストーブの小さな燃焼音だけが残った。
――世界は、何事もなかったかのように、
静かに“積もり続けている”。
ストーブの赤い炎は次第に小さくなり、壁の影を長く引き延ばす。
部屋全体が、夜の闇に少しずつ溶けていくようだった。
やがて残るのは、ミホのスマホの小さな画面だけ。
白い光が静かに点滅し、タイムラインには、
「#雪崩カレー #問題なしの日常」
の文字が並ぶ。
部屋の奥も窓の外も、何も変わらない。
ただ、スマホの光だけが、
小さな意思の証として、闇の中に残っている。
スマホの画面が静かに暗転し、スリープモードに入る。
その瞬間、外から低く、重い音が響いた。
“ゴロ……ゴロ……”
雪の下で何かが動き始めたような気配。
部屋の中には、わずかな振動と、ストーブの赤い残光だけが残る。
ミホは顔を上げず、毛布にくるまったまま小さく息をつく。
だが、空気は確かに、何かが始まったことを告げていた。
――静かな夜の中で、次の“崩壊”を予感させる。




