夕方 ―「閉場のアナウンス」
夕方の光は、まるで世界の呼吸がゆっくり止まりかけているようだった。
時刻は十六時半。
白雲ゲレンデの空は、金と青の境界でわずかに揺れ、
沈みかけた太陽が雪面に斜めの線を描いている。
リフトの座席が、空っぽのまま上下を往復していた。
金属の滑車が「キイ……キイ……」と間延びした音を立て、
風が一度だけ、山の向こうから通り抜ける。
それでさえ、音よりも冷気の存在のほうがはっきりしている。
古いスピーカーから、女の声が流れた。
ミホの声だ。いつものように抑えられた調子で。
「本日の営業は終了しました。
本日も安全な一日をありがとうございました。」
淡々と、誤差のない声。
けれどその“正確さ”こそが、どこか不自然だった。
言葉は空気に吸い込まれ、白い粒子に飲み込まれて消えていく。
まるで、雪が音を食べているようだった。
放送ブースの窓には、雪の粒がぽつぽつとぶつかる。
そのたびに小さく“コツン”という音がして、
アナウンスの余韻と混ざり合いながら、静寂をさらに厚くしていく。
椅子の背にもたれながら、吐息を一つ。
その吐息も、あっという間に白く溶けて、
窓の向こうへ消えていった。
放送ブースの中は、ほとんど夜に近かった。
照明は落とされ、頼りになるのは小さなストーブの赤い火だけ。
その炎は、鉄格子の奥でかすかにゆらぎながら、
まるで生きる意志を保つ最後の光のように、静かに明滅していた。
壁には色あせたカレンダー。
太いマジックで書かれた文字が目に入る。
「事故ゼロ 連続351日」
その数字だけが、この部屋で唯一“動いている”ものだった。
隅のラジオは、ノイズにまみれた声で天気予報を告げている。
「——明日も、強い寒気の影響で——」
言葉の途中で、ザザッと途切れ、再び沈黙。
誰も気に留める者はいない。
ミホはマイクのスイッチを切り、
深く息を吐いて、椅子の背にもたれた。
マフラーの端が肩から滑り落ちる。
(安全な一日、ね。)
小さく呟いたその声は、
ブースの密閉された空気の中でさえ、
届く前に凍りつくようだった。
正面のモニターには、ゲレンデの映像。
人の姿はもうどこにもない。
風の跡だけが雪面に薄い模様を刻み、
そこへ、また新しい雪が降り積もる。
まるで世界そのものが、
今日一日の記録を“上書き保存”しているようだった。
一切の感情も、足跡も、失敗も成功も、
白で塗り直して、何事もなかった顔をする。
ミホはストーブの炎を見つめた。
その赤色だけが、まだ“人間の温度”を持っていた。
無線機のスピーカーが、突如として弾けるように鳴った。
ザザッ、と雪の粒を踏むようなノイズののち、
支配人の明るい声がブースの静寂を割る。
「ミホさん、今日も問題なしだ! 事故ゼロ、記録更新だよ!」
その声には、朗らかさと安堵と、
そして少しの“何も見ようとしない軽さ”が混ざっていた。
ミホは無言のまま、スイッチに指を伸ばす。
だが押さない。
指先は宙で止まり、
代わりに、ただスピーカーの方をじっと見つめる。
外では、リフトの滑車が「キイ……キイ……」と鳴っている。
一定のリズムで、眠りを誘うような音。
誰も乗っていない椅子が、虚空を往復している。
無線の向こうでは、支配人がまだ何か話していた。
けれどその声は、次第に遠ざかり、
ミホの耳の中で、ただの電気的なざわめきに変わっていく。
彼女はゆっくりと、スピーカーの電源を切った。
カチリという小さな音が、ブースの空気を締める。
「“何も起こらない”って、ずっと続くと思う人間が一番危険。」
ミホは、独り言のように言った。
その声は、冷えた空気の中でほどけるように消えていった。
再び訪れた沈黙の中、
残されたのはリフトの滑車音だけだった。
「キイ……キイ……」
その単調な音が、まるで雪が積もる音のように、
退屈を静かに厚くしていった。
外に出ると、空はすっかり金と青の境界を失っていた。
薄闇のなかで、ゲレンデはどこまでも白く、
世界の輪郭が雪に飲み込まれていく。
遠くで、圧雪車のライトがゆっくりと消えた。
残されたのは、エンジンの名残のような微かな振動と、
雪を踏みしめる一つの足音。
ケンジだった。
手袋を外し、指先で煙草を弄びながら歩いてくる。
火は点けない。ただ、冷たい紙の感触を確かめるように。
「閉場か。」
低く掠れた声が、夕暮れの空気を押すように響く。
ミホは肩をすくめ、笑うともつかない表情で答えた。
「ええ。無事故、無事件、無感動。」
ケンジは鼻で小さく笑い、
足元の雪をひと蹴りした。
「雪は降り続いてるんだ。どっかで積もりすぎてる。」
ミホは少しだけ彼を見上げる。
その瞳には、夕方と夜のあいだの、曖昧な光が宿っていた。
「どこですかね。」
ケンジは煙草をポケットに戻し、
空を一瞥してから、淡々と答える。
「多分、人の中。」
その言葉のあと、二人の間に風が吹いた。
雪が、まるで呼吸のように宙を漂う。
ミホは何も言わず、
吐いた白い息が、ゆっくりと空へ溶けていくのを見ていた。
沈黙は、会話よりも確かな理解のように漂い、
リフトの滑車が遠くで「キイ……キイ……」と鳴った。
それは、静かな退屈の音――
積もりすぎた一日を、静かに覆い尽くす音だった。
二人は言葉を交わさぬまま、リフト乗り場を後にした。
空はもう完全に夜の手に渡り、
雪の粒が、照明の光をゆらゆらと飲み込んでいる。
足元には、二人分の足跡。
白の上に、等間隔で、淡々と刻まれていく。
――音はない。
ただ、雪を踏むときのわずかな沈みと、
そのあとに戻る“柔らかい拒絶”だけが足裏に返ってくる。
やがて、風が吹いた。
乾いた粉雪が舞い上がり、
足跡の片方――ケンジの跡が、少しずつ薄れていく。
ミホは振り返らない。
前を見たまま、淡い光の中を歩いていく。
残されたのは、無人のリフト。
滑車が「キイ……キイ……」と、
まるで空気の継ぎ目を確かめるように回り続けていた。
粉雪が降る音が、静かに世界を覆う。
それは――
“退屈”という名の、見えない積雪の音だった。
雪は、止む気配を見せなかった。
粉のような粒子が、無音のまま空から降り、
整えられたゲレンデの表面を、
まるで“忘却”の手つきでゆっくりと覆い隠していく。
照明の光は、ぼやけ、
輪郭というものが世界から少しずつ失われていく。
やがて、画面の端に――
リフトの赤い警告灯が、ぽつりと浮かぶ。
「ピッ……ピッ……」
一定の間隔で、静寂の中に点滅する光。
その明滅だけが、この白い世界の“心拍”のようだった。
雪がさらに強くなる。
光は霞み、けれど――最後の一瞬、
その赤がひときわ強く、まぶしく瞬く。
その閃光が、
世界のすべてをひとつの白に塗り替える。
――“上書き保存”。
誰もいないゲレンデ。
何も聞こえない。
ただ、白だけが、静かに世界を支配していた。




