午後 ―「圧雪車と哲学」
圧雪車のエンジンが、静かな山肌に低くうなる。
回転するキャタピラが雪を押し固め、後方には滑らかな白い道が伸びていく。
ライトの光が雪面をなぞるたび、粒子が細かく反射して、まるで銀色の粉が宙を舞うようだった。
キャビンの中は狭く、暖房の音がわずかに耳をくすぐる。
ケンジは無表情でハンドルを握り、ただ機械の律動に身を預けていた。
窓の外には、音のない世界――風も止まり、雪も降らない。
白と闇だけが、ゆっくりと境界を擦り合わせている。
彼は、ふと、呟くように思考をこぼした。
「雪ってのは、積もる時は静かだが、崩れる時も静かだ。
人間は騒ぎながら崩れる。そこが雪に勝てねぇ。」
エンジンの音が一瞬、遠ざかったように感じる。
耳の奥で、誰かが息を呑むような静寂があった。
その瞬間、外で風がひと吹きした。
粉雪がライトに照らされ、細い螺旋を描きながら宙を舞う。
光の中を、白い粒がゆっくりと沈み、そして消える。
ケンジは視線を前に戻す。
ハンドルの先、まっすぐに伸びる整地の跡。
それはまるで、誰かが沈黙のまま歩いていった道のようにも見えた。
無線機のスピーカーが、唐突に雑音を吐き出した。
ノイズの向こうから、支配人のやけに明るい声が割り込む。
「ケンジ君、積雪の方は順調か?」
ケンジは片手をハンドルに残したまま、もう片方でスイッチを押す。
無表情のまま、口だけが淡々と動いた。
「ええ、人間の積雪も順調です。」
一瞬、無線の向こうで沈黙が落ちた。
エンジン音だけが、低く腹の底を震わせる。
「……は?」
支配人の声は、かすかにひきつっていた。
ケンジは視線を雪面から逸らさず、あくまで平板な口調で続ける。
「いえ、雪の話です。」
そのまま通信を切る。
「ピー」という微かな音が残響のように消え、
再び、圧雪車のエンジンだけが世界を支配した。
雪を押し固める鉄のリズムが、
どこか人間の心臓の鼓動に似ていた。
規則的で、感情のない音。
それでも確かに“生きている”と告げる音だった。
ケンジはハンドルを握り直し、
黙って、その音の中へ戻っていった。
ケンジの視線が、前方の山肌にゆっくりと流れていく。
昼過ぎの陽が雲の裏に隠れ、雪の斜面を長い影が横切った。
白と灰のあわいが、まるで世界が息をひそめているかのように沈んでいく。
「積もるのは簡単だ。
崩れるのも簡単。
けど、“保つ”ってやつが一番むずかしい。」
誰に言うでもなく、キャビンの中でその言葉が小さく溶けた。
運転席の隅には、保温ボトルのコーヒーと、折れた煙草。
どちらも、半分だけ残っている。
どちらも、もう“熱”を持っていない。
ケンジはぼんやりとそれを見つめ、かすかに笑う。
「雪を均す仕事って、結局、世界のシワを伸ばす仕事だ。
でもな、シワのない顔ってのは、どこか気味が悪いんだ。」
ハンドルの上で手袋の指がわずかに鳴る。
その音が、キャビンの密閉された静寂の中に吸い込まれていった。
外では、整地されたばかりの雪面が、
沈みゆく光を受けてわずかにきらめいている。
それは完璧に滑らかで、美しく、そして——息が詰まるほど静かだった。
圧雪車のモニターに、ふとノイズが走った。
後方カメラの映像が揺れ、白い筋が雪面に浮かぶ。
まるで薄いガラスがひび割れたように。
ケンジはちらりと目をやるが、眉一つ動かさない。
ただ前を向いたまま、淡々とアクセルを踏み込む。
「まぁ、雪も人も、黙って積もるぶんには優等生だ。」
その声がキャビンの中で曇ったガラスに反響する。
外では、遠くの斜面に一筋の雪煙が立ち上がった。
音はない。
風も止まり、世界が一瞬だけ息を潜める。
——だが、確かに“何か”が動き始めた。
それを告げるように、空気がわずかに震える。
カメラはゆっくりと車体の上空へ。
圧雪車が白い世界を横切っていく。
その背後に、かすかな裂け目が蛇のように残っていく。
無線に混ざるノイズの向こうで、
支配人の声がかすかに聞こえる。
「……今日も問題なし、だな。」
ケンジは笑うでもなく、呟くでもなく、
ただ心の底で静かに言葉を転がした。
「問題がないうちに、何かが始まるんですよ。」
圧雪車のライトが遠ざかり、
その光だけが、白い闇を切り裂いていった。




