〈支配人と娘〉 ―「静かな白」
西日が、山の稜線の向こうにゆっくりと沈みかけていた。
雪面はやわらかな橙に染まり、長い影がゲレンデの斜面を静かに滑っていく。
昼間のざわめきはとうに遠のき、いま残っているのは、
整備車の点検音と、風が旗をはためかせる音だけだった。
管理棟の前には、年季の入った木製のベンチが一つ。
そこに白井支配人が腰を下ろしている。
膝の上には小さな手帳。
角は擦り切れ、何度も開かれた跡がある。
表紙には黒のマジックで《再開計画》と書かれていたが、
中のページは、まだ何も書かれていない。
白井は手帳を眺めたまま、指先で端を何度かめくり、
結局、ため息とともに閉じた。
その隣で、春香がカップ麺の蓋を押さえている。
湯気がほそく立ちのぼり、風に千切れて消えていく。
彼女は黙ったまま、携帯のタイマーを見つめ、
三分の針が進むのをじっと待っていた。
沈みゆく太陽の光が二人の影を重ねる。
言葉は交わされないが、
その沈黙の中には、
ようやく「騒ぎのあとの時間」が戻ってきたという、
やわらかな空気が流れていた。
湯気が立ちのぼり、
ほのかに醤油の香りが風に溶けていく。
白井は、膝の上の手帳をぼんやりと見つめたまま、
低い声でぽつりと呟いた。
「……世間ってのは、怖いな。」
その言葉は、まるで誰に向けたわけでもなく、
自分の胸の中に沈んでいた雪を確かめるような独白だった。
春香は、割り箸を割る。
軽い音が夕暮れに吸い込まれる。
彼女は湯気越しに父の横顔を見て、
ふっと笑った。
「でも、うちの雪は優しいよ。ちゃんと溶けてくれるから。」
白井は小さく目を見開く。
夕焼けに照らされた春香の頬が、
雪明かりのように淡く光っていた。
一瞬の沈黙。
風が旗を揺らし、リフトの点検音が遠くで響く。
白井は、わずかに口元を緩めた。
その笑みはほんの短いものだったが、
胸の奥に積もっていた雪が、
少しだけ音もなく溶けたようだった。
春香が箸を口へ運ぶ。
すすった麺の音が、風の中にかすかに溶ける。
湯気がゆらゆらと立ちのぼり、
夕陽の光を受けて橙に揺れながら、ゆっくり空へと昇っていく。
白井はその湯気を目で追った。
まるで煙のように、形を変えながら消えていくそれを、
彼はしばらく見つめていた。
そして、静かに手帳を閉じる。
閉じる音は、小さな決意のように響いた。
遠くでリフトの点検音が一定のリズムを刻む。
ガラガラと、穏やかな機械の鼓動のように。
その単調な響きが、不思議と心を落ち着かせた。
二人の間に、言葉はほとんどなかった。
だが、その沈黙はもう重くない。
ただ静かで、あたたかく、
日常の一部としてそこにあった。
雪はゆっくりと溶け、
夕陽は山の向こうへ沈みかけている。
湯気の向こうで、
白井の口元がほんのわずかに緩む。
その微笑は、
この町にようやく戻ってきた“静かな笑い”だった。
夜明け前のゲレンデは、まだ完全な静寂の中にあった。
音という音が凍りついた世界で、ただひとつ、ゆっくりと動く影がある。
リフト。
椅子は空のまま、規則正しく上り下りを繰り返している。
まるで誰かの記憶を運ぶように。
金属の軋む低い音が、雪の谷にやわらかく響く。
照明はもう落とされていた。
それでも、雪明かりがすべてを照らしている。
空は深い群青から、わずかに白へと滲み始め、
山の稜線がゆるやかに輪郭を取り戻す。
風が通り抜ける。
支柱の影がかすかに揺れ、旗がひとつ、細い音を立てる。
その瞬間――
どこかで、短く、電子音が鳴った。
ピロン。
スマートフォンの通知音。
発信者の名も、意味もわからない。
音は雪に反響し、すぐに吸い込まれて消えた。
まるで、世界が最後の息を吐いたかのように。
沈黙。
リフトの音だけが、規則的に、静かに続く。
その律動が、心臓の鼓動のように聞こえる。
やがて、カメラがゆっくりと引いていく。
ゲレンデ全体が見渡せる。
白い斜面、眠る町、薄く煙る空。
そして、動き続ける一本のリフト。
空が白み、雪面が光に溶けはじめる。
すべてがやわらかな白に包まれ、
リフトの影も、支柱の線も、
やがてひとつの光の中に融けていった。
何も残らない。
ただ、静かな白だけが世界を満たしていた。




