〈片づけの朝〉 ―「嘘のあと」
翌朝十時。
ゲレンデ管理棟の中には、夜のざわめきの名残がまだ漂っていた。
倒れた掲示板、雪で濡れた紙束、破れたポスター。どれも、昨夜までここで起こっていた小さな「世界の終わり」を物語っている。
春香は、腕まくりしたまま、淡々とゴミ袋を抱えて歩いていた。
破れた資料やチラシを拾い上げては、ひとつずつ放り込む。その手つきは、不思議なほど軽い。
重さを感じていないというより、もう何も驚くことがない――そんな静けさに包まれていた。
机の向こうでは、白井支配人が冷めきったコーヒーを啜っていた。
目の下にはくっきりとした隈。
夜通しの謝罪会見の疲れが、そのまま沈殿している。
テレビの電源は抜かれたまま、壁の時計の針だけがやけに律儀に動いていた。
しばらくして、春香が口を開いた。
声は、雪のようにやわらかく、そしてどこか遠い。
「雪崩って、人の嘘が積もりすぎて崩れることなんだね。」
白井は目を瞬かせ、コーヒーを飲もうとして手を滑らせた。
カップが机の上で跳ね、小さな波紋を広げる。
「……誰がそんなこと言った?」
春香は、肩をすくめるようにして答えた。
「いま、思いついた。」
それきり、言葉は途切れた。
二人の間を、点検用リフトのモーター音がゆっくりと通り抜けていく。
その規則的な回転音は、どこかで止まった時間を、少しだけ前へと押し出しているようだった。
春香はまた、散らかった書類を拾い上げる。
それは「過去の嘘」を片づける作業にも見えた。
支配人はただ、こぼれたコーヒーの跡を眺めながら、
その言葉を反芻していた――
「……人の嘘が、積もりすぎて、崩れる……か。」
窓の外では、雪の反射がゆるやかに明るくなっていく。
ゲレンデの音が戻り始めていた。
崩壊のあとに残るのは、沈黙と、それでも動きつづける生活の音。
それが、この山に訪れた“新しい朝”だった。
昼前の白雲ゲレンデ。
圧雪車の低いエンジン音が、遠くの雪面に反響している。
人気の消えたコースは、まだ誰の足跡もないまっさらな白。
そこに、ケンジとミホの二人だけが立っていた。
リフト乗り場の操作盤に積もった雪を手で払うと、ケンジが指先でスイッチを押す。
古びたモーターが唸り、ワイヤーがぎしぎしと軋む。
やがて、椅子がひとつ、またひとつ、静かに空を滑りはじめた。
――ガラガラ、ガラガラ。
誰も乗っていないリフトは、まるで雪の上に浮かぶ記憶の列のようだ。
ミホはその動きを目で追いながら、ゆっくりと息をついた。
ケンジ:「結局、騒ぎも静けさも、人間の一部だな。」
その言葉は、ため息と笑いの中間のように聞こえた。
ミホは軽く顎を上げ、雪の反射を眩しそうに見つめる。
ミホ:「じゃあ次は、休みにします?」
ケンジ:「いいね。雪が落ち着いたころに。」
ふたりは、それ以上何も言わなかった。
会話の余白に、機械の回転音と、遠くで軋む圧雪車の音が流れ込む。
どこか懐かしい、日常の音。
ミホがポケットに手を入れ、肩をすくめた。
ケンジは工具箱のふたを閉めながら、空を見上げる。
薄くちぎれた雲の向こうに、冬の日が白く透けていた。
――もう誰も中継していない。
――もう誰も見ていない。
それでも、リフトは回る。
機械の音が、静けさの中で新しいリズムを刻む。
ふたりはその音を聞きながら、ようやくほんの少しだけ、笑った。
それは“再起動”というより、“呼吸の再開”だった。
午後一時。
白雲町の商店街には、春の匂いがわずかに混ざりはじめていた。
軒先の氷柱がぽたり、ぽたりと落ち、
アスファルトの上で小さな音を立てる。
屋根の雪がずるりと滑り、鈍い音を響かせて地面に崩れる。
その音はもう、恐怖でも報道でもなく、ただの“生活の音”だった。
春江は旅館の前でデッキブラシを手に、ゆっくりと雪解け水を流している。
水の筋が道路のひび割れを縫うように走り、排水口へと消えていく。
通行人A:「そういえば、あの騒ぎ、どうなったんだっけ?」
通行人B:「さあなぁ、ニュースももうやってないし。」
誰もが、ほんの少しだけ思い出し、
すぐに次の話題へと移っていく。
それが、町の日常のリズムだった。
春江は手を止め、ふと笑みを浮かべる。
風に乗って、どこかの家の洗濯物がぱたぱたと音を立てた。
春江:「さあね。春になれば、みんな忘れるよ。」
その声には、嘆きも皮肉もなかった。
むしろ、雪が溶けて川に戻るような、
穏やかな“帰属”の響きがあった。
溶けた雪が、道の端をさらさらと流れていく。
誰の足跡も、ニュースの影も、ゆっくりとその中に消えていった。
記録はやがて記憶になり、
事件はただの風景へと還っていく。
――町が、本来の時間を取り戻していく午後だった。




