昼 ―「食堂の暇潰し」
ストーブの上で、“雪崩カレー”がふつふつと煮えていた。
白いホワイトソースが山肌を滑るように崩れ落ち、湯気が立ちのぼる。その様は、まるで自分で自分を埋めようとする小さな雪山だ。
華代は木ベラをくるくると回しながら、鼻歌交じりに言った。
「どう? この見た目。まさに雪崩。」
ミホは皿を並べながら、半眼のまま答える。
「名前が物騒ですね。」
華代は口の端を上げ、味見をひとくち。
「味もよ。スパイスがどこに行ったか、雪隠れしてんの。」
ミホは曖昧に笑う。
「捜索隊、出します?」
二人のやり取りには、緊張感というものが一切なかった。
それどころか、退屈と諦観の混ざった空気が、この食堂全体を保温しているようだった。
客はゼロ。テレビの音も遠い。
だがこの“何も起きない昼”こそが、彼女たちの仕事の平和であり、そして最も静かな地獄でもあった。
食堂のドアが、ギギ、ときしんだ。
外から冷気と雪煙をまとった男が入ってくる。ケンジだ。帽子を脱ぎ、肩を払いながら席に着くと、吐く息がわずかに白い。
「今日のおすすめ、なんでしたっけ。」
低い声が、湯気の漂う食堂に沈む。
華代はエプロンの裾で手を拭い、胸を張って答えた。
「“雪崩カレー”。自信作。」
ケンジは眉をひそめた。
「……名前の時点で食欲の遭難だな。」
華代は楽しげに笑い、皿を差し出す。
ケンジはスプーンを一口、慎重に運ぶ。しばしの沈黙。
やがて、静かに呟いた。
「これは……安全な味だな。」
「安全第一よ。味覚にも事故ゼロ。」
ミホがカウンター越しに顔を上げ、無感情な声で言う。
「“事故ゼロ”って、味も刺激ゼロの略ですかね。」
「客もゼロ、問題もゼロ。完璧じゃない。」
華代が満足げに笑う。
三人の間に、小さな笑いが生まれ、すぐに雪のように消えた。
そのあとに残ったのは、換気扇の“ゴウ……”という低い唸りだけ。
まるで、彼らの代わりに空気が働いているかのように、無表情に回り続けていた。
テレビのボリュームが、誰の操作でもなく、ふっと上がった。
ローカル局のアナウンサーが、どこか張り切った声で読み上げる。
> 「大雪の影響で、白雲スキー場では観光客が減少しています。」
その言葉に、三人の動きがわずかに止まった。
画面には、雪の中でにこやかに答える支配人の顔。
マイクを向けられ、満面の笑みで言う。
> 「問題はありません。安全を最優先に営業しています。」
ケンジはスプーンを皿に置き、苦笑をもらした。
「出たな、“問題なし”の呪文。」
ミホはその笑顔を見つめたまま、小さく呟いた。
「“問題がない発言”が、一番問題なのに。」
華代が片手でエプロンの紐を直しながら、あっけらかんと答える。
「ニュース映えのためには、凍ってでも笑うのよ。」
ミホはぼそりと続けた。
「この国、笑顔の温度もマイナスですね。」
テレビでは、支配人の笑顔がまだ凍ったまま残像のように映っている。
その笑顔の裏で、ストーブの火がかすかに揺れた。
ミホはスプーンを置き、テーブルに肘をついた。
その姿勢のまま、ポケットからスマホを取り出す。
画面には、いつもの裏アカウント《@雲下の生活》。
タイムラインは、静寂そのもの。
彼女は指先でゆっくりと文字を打ち始める。
> 「#雪崩カレー」
――そこで、止まった。
指がわずかに震え、ため息が小さく漏れる。
画面を閉じると、湯気が指先を包みこんだ。
その反射に、彼女のぼやけた顔が映る。
輪郭が曖昧で、自分という存在さえ雪に埋もれているように見えた。
そのとき、外から“ドサッ”と重い音が響く。
屋根の雪が落ちたのか、それとも――。
けれど、誰も反応しない。
華代は鍋をかき混ぜ、ケンジは黙ってスプーンを回している。
ミホはただ、湯気の向こうを見つめた。
ゆらりと立ちのぼる白い煙が、まるで世界そのものの呼吸のように見えた。
――生きているのか、眠っているのか。
その境目さえ、雪に塗りつぶされていた。
カメラがゆっくりと天井に戻る。
三つの皿、ほとんど手つかずの雪崩カレー。
テレビの中では、支配人の声がまだ響いている。
> 「今後も、安全な運営を――」
吹雪の音がそれをかき消すように、遠くでざらざらと鳴った。
まるで、誰にも聞かれぬ世界の返事のように。




