表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『雪崩注意報発令中(人間に)』:白雲ゲレンデ騒動記  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

27/31

〈ケンジの終わり〉 ―「止まった雪」

圧雪車のエンジンが、最後の唸りを上げて止まった。

低く響いていた機械音がぷつりと途切れた瞬間、あたりに沈黙が落ちる。

雪原は、まるで息をひそめたように動かない。

遠くの風が、細い笛のような音を立てて通り抜ける。


ケンジはハンドルの上に手を置いたまま、じっと動かない。

腕には、長時間の振動がまだ微かに残っていた。

車内では、冷却ファンが名残惜しげに回転を止め、

鉄と油と雪の匂いが、熱の残滓のように漂っている。


彼は目を閉じた。

静寂の中で、機械が生んでいたあらゆる音が、ひとつずつ遠ざかっていく。

――それが、この白い世界に残る“人間の音”の、最後の余韻だった。


ケンジはゆっくりとドアを開けた。

冷気が一気に流れ込み、車内のぬるい空気を押しのける。

足を外に出す。ブーツが雪を踏む――ぎゅ、と乾いた音。

それが、静まり返ったゲレンデにやけに大きく響いた。


彼は手袋を外し、指先のかじかみを確かめながらポケットを探る。

しわくちゃになった煙草の箱。一本を口にくわえ、火を点ける。

オレンジの火が、白い世界にかすかな色を灯す。


ケンジは煙を吐き、ぼんやりと崩れかけの斜面を見た。

雪はもう動かない。ただ、風だけがそこを撫でて通る。


「……結局、崩れたのは雪じゃねえ。人間のほうだ。」


煙と吐息が混ざり合い、風にさらわれていく。

どちらも、形を持たないまま、ただ空に溶けた。


ケンジはふと、顔を上げた。

空が――変わっていた。


昨日まで空一面を覆っていた白い雲が、少しずつ裂けていく。

その隙間から、淡い青がにじみ出ていた。

まるで長い夢の幕が、静かに引かれていくように。


彼は煙草を指先でつまみ直し、目を細めて光を見つめる。

山の稜線がくっきりと現れ、雪の斜面に薄い陽が落ちていた。

風が一度、冷たく頬を撫でる。


そこにあったのは、どのニュースも伝えなかった「現実」だった。

光が雪を照らし、雪は静かに応える。

何も語らず、何も映さず――ただ、そこに在るだけの世界。


ケンジは、指先で灰を落とした。

白い粒が、雪の上に静かに消える。


その瞬間――ふと、耳の奥に声が蘇った。


「たった一行で世界が崩れるなんて――笑える。」


ミホの声だった。

あの冷たい朝の、乾いた笑い混じりの声。


風が吹く。

その音の中に、彼女の言葉が薄く溶けていく。

責めるでも、悲しむでもなく。

まるで観測者が最後の記録をつけるように、淡々と響いていた。


ケンジは煙草を見つめ、短く息を吐いた。

白い煙と白い息が交じり合い、空へと消えていく。

まるで、記憶そのものが風化していくように。

ケンジは最後の一吸いを肺の奥まで入れ、

ゆっくりと吐き出した。

薄い煙が、凍てつく空気の中でほどけていく。


彼は足もとに煙草を押しつけ、

灰の残る雪を、軽くつま先で蹴った。

わずかな黒が、すぐに白に飲まれて消える。


顔を上げると、

そこにはただ、静まり返った雪原が広がっていた。


音はない。

声も、信号も、通知もない。


すべてのざわめきが遠く離れ、

世界はようやく、本来の呼吸を取り戻したようだった。


ケンジは目を細める。

風が、やさしく頬を撫でた。


――そしてその静寂の中で、

雪は、確かに“止まっていた”。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ