〈ケンジの終わり〉 ―「止まった雪」
圧雪車のエンジンが、最後の唸りを上げて止まった。
低く響いていた機械音がぷつりと途切れた瞬間、あたりに沈黙が落ちる。
雪原は、まるで息をひそめたように動かない。
遠くの風が、細い笛のような音を立てて通り抜ける。
ケンジはハンドルの上に手を置いたまま、じっと動かない。
腕には、長時間の振動がまだ微かに残っていた。
車内では、冷却ファンが名残惜しげに回転を止め、
鉄と油と雪の匂いが、熱の残滓のように漂っている。
彼は目を閉じた。
静寂の中で、機械が生んでいたあらゆる音が、ひとつずつ遠ざかっていく。
――それが、この白い世界に残る“人間の音”の、最後の余韻だった。
ケンジはゆっくりとドアを開けた。
冷気が一気に流れ込み、車内のぬるい空気を押しのける。
足を外に出す。ブーツが雪を踏む――ぎゅ、と乾いた音。
それが、静まり返ったゲレンデにやけに大きく響いた。
彼は手袋を外し、指先のかじかみを確かめながらポケットを探る。
しわくちゃになった煙草の箱。一本を口にくわえ、火を点ける。
オレンジの火が、白い世界にかすかな色を灯す。
ケンジは煙を吐き、ぼんやりと崩れかけの斜面を見た。
雪はもう動かない。ただ、風だけがそこを撫でて通る。
「……結局、崩れたのは雪じゃねえ。人間のほうだ。」
煙と吐息が混ざり合い、風にさらわれていく。
どちらも、形を持たないまま、ただ空に溶けた。
ケンジはふと、顔を上げた。
空が――変わっていた。
昨日まで空一面を覆っていた白い雲が、少しずつ裂けていく。
その隙間から、淡い青がにじみ出ていた。
まるで長い夢の幕が、静かに引かれていくように。
彼は煙草を指先でつまみ直し、目を細めて光を見つめる。
山の稜線がくっきりと現れ、雪の斜面に薄い陽が落ちていた。
風が一度、冷たく頬を撫でる。
そこにあったのは、どのニュースも伝えなかった「現実」だった。
光が雪を照らし、雪は静かに応える。
何も語らず、何も映さず――ただ、そこに在るだけの世界。
ケンジは、指先で灰を落とした。
白い粒が、雪の上に静かに消える。
その瞬間――ふと、耳の奥に声が蘇った。
「たった一行で世界が崩れるなんて――笑える。」
ミホの声だった。
あの冷たい朝の、乾いた笑い混じりの声。
風が吹く。
その音の中に、彼女の言葉が薄く溶けていく。
責めるでも、悲しむでもなく。
まるで観測者が最後の記録をつけるように、淡々と響いていた。
ケンジは煙草を見つめ、短く息を吐いた。
白い煙と白い息が交じり合い、空へと消えていく。
まるで、記憶そのものが風化していくように。
ケンジは最後の一吸いを肺の奥まで入れ、
ゆっくりと吐き出した。
薄い煙が、凍てつく空気の中でほどけていく。
彼は足もとに煙草を押しつけ、
灰の残る雪を、軽くつま先で蹴った。
わずかな黒が、すぐに白に飲まれて消える。
顔を上げると、
そこにはただ、静まり返った雪原が広がっていた。
音はない。
声も、信号も、通知もない。
すべてのざわめきが遠く離れ、
世界はようやく、本来の呼吸を取り戻したようだった。
ケンジは目を細める。
風が、やさしく頬を撫でた。
――そしてその静寂の中で、
雪は、確かに“止まっていた”。




