午前 ―「支配人の朝礼」
朝八時半。
白雲ゲレンデの事務所前では、風が雪を水平に運んでいた。
従業員たちは黙々と雪かきをしている。
支配人の声が、その上に被さるように響いた。
> 「本日も、特に問題なし。安全第一、笑顔で対応を心がけましょう。」
支配人・佐藤は分厚い手袋を外し、手帳を片手に淡々と読み上げていた。
その横で、誰も顔を上げない。
スコップが雪を削る音が、まるで彼の言葉をかき消すようにリズムを刻む。
――ガリ、ガリ。
――サク、サク。
スピーカーからは、機械的な女性の声が重なる。
> 「安全第一で、今日も元気に!」
その明るい音声と、無言の現場の温度差がひどく滑稽だった。
支配人は一応、満足げに頷いた。
誰も拍手をしないし、返事もしない。
それでも朝礼は続く――というより、惰性で再生されている“テープ”のようだった。
カメラがもしそこにあったなら、
映るのは「雪かきする背中」ばかり。
そしてその向こう、
支配人の声だけが、白い空気の中で薄く震えていた。
> 「……えー、それでは本日も、よろしくお願いします。」
その瞬間、ちょうど風が吹いた。
言葉ごと、空に飛ばされた。
支配人は書類を閉じ、満足そうに頷いた。
雪かきの音が止まり、代わりに一瞬だけ静寂が訪れる。
その沈黙の隙間で、ケンジがヘルメットを脱いだ。
息を白く吐きながら、ぼそりとつぶやく。
> 「問題ない日が、一番の問題なんだよな。」
誰に言うでもなく、雪に向かって投げた独り言。
言葉はすぐに冷気に吸い込まれ、形を失った。
ミホが横目で彼をちらりと見る。
何も言わない。
その“何も言わない”という反応が、まるで返事のようだった。
ケンジはまたヘルメットをかぶり直し、スコップを握る。
機械のように同じ動作を繰り返す。
彼の言葉だけが、雪面の上に薄く残っていた。
――問題がない。
その言葉が、この場所では最も不穏だ。
その沈黙を破ったのは、金属の蓋がぶつかる音だった。
振り向くと、食堂の方から派手なエプロン姿の女が鍋を抱えてやって来る。
赤いエプロンに雪の結晶柄。ここだけ季節が一つズレて見える。
華代だった。四十代、食堂の“味と毒舌”担当。
彼女は息を弾ませながら、支配人の背後に立つと、満面の笑みで言い放った。
> 「支配人、今日の昼は“雪崩カレー”だから!盛り上がるでしょ?」
その場の空気が、一瞬だけ固まった。
支配人の笑顔が硬直し、まるで顔の筋肉が雪で凍りついたようになる。
やがて、ゆっくりと作り笑いが戻る。
> 「……そういう冗談は、事故の元ですよ。」
華代は肩をすくめ、鍋の蓋をコトンと鳴らす。
> 「冗談がない方が事故るのよ、人生は。」
その言葉のあとに、微かに風が鳴った。
誰もが雪に目を落とす中、ケンジだけが小さく吹き出した。
その笑いもすぐに冷気に押しつぶされ、跡形もなく消えた。
ミホはスマホを取り出し、無言でメモを打ち込む。
> 「#雪崩カレー #人生事故中」
彼女の指が止まり、ふっと笑みをこぼす。
外では、また雪が降り始めていた。
白雲ゲレンデの昼は、静かに煮込み中だった。
支配人は咳払いをひとつして、凍りついた空気をまとめようとした。
声を張るでもなく、しかし妙に張り切った調子で言う。
> 「とにかく、問題がないことが――最大の成果なんです。」
言い終えた瞬間、風がひときわ強く吹き抜けた。
粉雪が渦を巻き、支配人の肩にどっさり積もる。
それでも彼は動かない。
満面の笑みを張り付けたまま、雪像のように立っている。
その様子を横目に、ケンジがヘルメットの紐を締め直しながらぼそりと呟いた。
> 「……それ、問題に聞こえますけどね。」
誰も笑わなかった。
だが、その沈黙は不思議とやわらかい温度を帯びていた。
まるで、誰もがその皮肉に救われたかのようだった。
華代は鍋を抱え直し、ミホは小屋の方へ歩き出す。
支配人はまだ笑顔のまま、何かを確認するように空を見上げていた。
遠くの山で、かすかに“ゴロッ”という音がした。
雪の奥で何かがわずかにずれ、音もなく落ちていく。
けれど、誰も気づかない。
白い朝は、また“問題のない日”として続いていく。




