警察署 ―「温泉ついで」
壁掛けテレビから、キャスターの張りつめた声が流れていた。
画面の隅では、赤いテロップが点滅している。
《白雲ゲレンデで“雪の呼吸”映像 SNSで拡散中》
《現地に配信者が集結、警察は注意を呼びかけ――》
その音声が、古びた仮眠室の空気にはどこか場違いに響いていた。
畳の上には脱ぎかけの上着、読みかけの週刊誌、湯気を吐くポット。
暖房が効きすぎて、空気は乾いてぬるい。外では吹雪が唸っているというのに、この部屋だけはのどかな春先のようだ。
若い刑事・川名が、湯呑みを机に置いて立ち上がった。
ニュースを見つめる目が、焦りと眠気の中で揺れている。
「高峰さん、これ……現場、行ったほうがいいですよね?」
ベッドの上では、高峰刑事がタオルを肩にかけたまま、のんびりと髪を拭いていた。
洗面所帰りの湿った髪が、わずかに湯気を立てている。
その姿はとても“現場対応”とは思えない。
「ああ? 行っても雪しかねえだろ。どこ掘っても雪だ。」
その言葉に、川名の眉が跳ねた。
「でも“雪崩予告”って出てます!」
高峰はようやくテレビに目をやり、ふっと笑った。
「予告する雪なんて聞いたことねえな。」
彼は机の端にあるポットから湯を注ぎ、懐から粉末の入浴剤を取り出した。
パッケージには《名湯・白雲温泉の香り》とある。
それを指先で弾きながら、湯気の向こうでぼんやりと眺める。
「ま、雪は勝手に降るし、人は勝手に騒ぐ。
どっちも止めようとすると、余計ややこしくなる。」
川名は返す言葉を失ったまま、ニュース映像を見つめる。
画面の中では、リポーターが吹雪の中でマイクを構え、
その背後に黄色い立入禁止ロープがはためいていた。
仮眠室の静けさと、テレビの向こうの喧騒。
その落差が、まるで現実と虚構の境のように、どこか歪んで見えた。
川名はニュース映像を指差しながら、声を上ずらせた。
「この“カレン”って人、フォロワー十万人ですよ。
ライブで“何かが起こる予感”とか言って……視聴者が現場に殺到してるって!」
高峰は、湯呑みを口に運びながら眉をひとつ上げた。
「便利な時代だな。昔は“予感”ってのは腹で感じるもんだったが、
今はスマホが教えてくれるのか。」
その調子の抜けた声に、川名は苦い顔をする。
「……洒落にならないですよ。現場、混乱してますって。」
高峰はため息まじりに笑った。
「ま、どうせデマだ。――温泉ついでに見に行くか。」
そう言って腰を上げる。
脱ぎ捨ててあった防寒コートを羽織り、肩をぐるりと回す。
その動作に合わせて、ポケットの中から紙切れがちらりと覗いた。
それは、町内の温泉の回数券。
端が少しよれているあたり、愛用の品らしい。
川名は呆れたように息を吐いたが、何も言わなかった。
外の雪はますます勢いを増し、
その白の向こうでは、確かに“何か”が動き出しているというのに。
その背後で、テレビのテロップがぱちりと切り替わった。
《現地に多数の報道関係者・配信者が集結》
《警察の対応が遅れているとの指摘も――》
仮眠室の薄い空気が、わずかに緊張を帯びる。
川名が目を細め、ぼそりとつぶやいた。
「……もう、言われてますよ。」
高峰は肩をすくめ、手にした回数券をポケットへ押し込みながら、
「ほら見ろ、行動が早すぎるのは若い証拠だ。」と、まるで他人事のようにぼやく。
川名が思わず問い返す。
「じゃあ、行くんですか?」
高峰は頬をかき、面倒そうに立ち上がった。
「ああ、温泉街の方、雪崩れてねえか確かめに。――ついでに浸かる。」
その言葉に、川名は絶句したまま口を閉ざす。
テレビの中では、アナウンサーの声が熱を帯びていく。
《#雪ですからね 発言から一夜――新たな“現象”が発生か?》
スタジオのざわめきが、まるで現場の風雪のように部屋へ流れ込む。
だが、白雲町警察署の仮眠室にはまだ、ポットの湯気がゆるやかに立ちのぼり、
ぬるま湯のような静けさが残っていた。
外では、白い雪が音もなく降り続いていた。
街灯の光がぼやけ、まるで世界そのものが湯気の中に沈んでいるかのようだ。
その雪の向こう――白雲ゲレンデの方角では、
まだ誰も知らない“予感”が、ゆっくりと現実の形を取り始めていた。
高峰はコートの襟を立て、帽子を軽く叩く。
「ま、温泉は逃げねえからな。」
そう呟いて、のそのそと仮眠室を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに静かに響く。
残されたテレビだけが、仄白い光を部屋の隅々に撒き散らしていた。
画面の中では、雪の映像が流れ続けている――
ただの雪、のはずだった。




